第17話 忍び寄る影
その誘いに、アシャは魂ごと心臓をぐしゃりとわしづかみにされた気がした。
行きたい、なんてものではない。
万国全図の存在を知った日から、いつの日かその地図をこの目で見てみたい、遠くからかいま見ることでもできたら死んでもいいとさえ思っていた。
ずっと、ずっとだ。
それが、こんなにもあっさり。
目の前にぽんと、たやすく放ってよこされるなんて。
にわかには信じられないくらいだ。
そんな簡単にできることなんだろうか。
そこまでの権力が、この人にはあるの?
「将軍さまは、そんなに……どんな地図を見ても許されるんですか?」
「地図というものは、平民には禁じられてはいても、一方でどうしても必要とされる場合があります。政に関するものがそう。その最たるものが軍です。索敵にも布陣、応戦するのにも、地形や地理情報は欠かせませんからね」
あいかわらず、腹が立つくらい落ち着いて穏やかな答えだった。
見栄でも、誇張でもない。本当にそれができる人なんだ。
(この方について南都へ行けば、万国全図が見せてもらえる……あたし自身も描くことが許される?)
そんな可能性を考えただけで、アシャの心臓はどきりどきりと早鐘を打った。あまりの興奮に、息苦しくてむせ返りそうになる。
(待って、待って。そんな、上手い話がある?)
アシャの頭の中を、いろんな考えがめまぐるしくよぎっていた。
簡単にのっていいいの?あたし騙されてない?
でも将軍さま良い人だしあたしの地図を褒めてくれたし。
万国全図が見られるかも知れないなんて一生一度の機会だわ。
ここで逃したら本当に一生悔やんでも悔やみきれないんじゃない?
やらないで後悔するくらいならやって後悔した方が百倍マシじゃない?
「それと、アシャ」
アシャが今にも『行きます!』と飛びつくつもりでいると、将軍はやや表情を厳しくして念を押してきた。
「今後も地図を描いていくつもりなら、肝に銘じておきなさい。たとえあなたにその気がなくても、あなたが描いたこの地図をめぐって多くの人生が狂い、血が流され、命さえ失われたんです。それをゆめ、忘れないよう」
ひええ。将軍さまの仰るとおりです!
アシャは恐縮して深々と頭を下げた。
有頂天にさせても、しっかり釘さすことは忘れないんだからさすがよね。
「それから毒もです。私の従者二人に、只人なら命にかかわるような神経毒を使ったとか?」
「あ、それは。そこまでの危険なモノではなくて」
まだ誤解されている。アシャは慌てて釈明した。
二人に使った眠り草は、大熊亭の常連客から巻き上げたものだった。
あれはたしかヨタさんだった。
眠り草を使って枕泥棒していたのを、見つけたアシャが算楽を使ってとっちめた戦利品だ。以降は改心して、払いは悪いなりに真新しい公路図を提供してくれる、まあまあの上客になっている。
「我々が尋問に使うような劇薬を使う宿のコソ泥が、最新の公路図ねえ……」
将軍はまた納得いかないのか、不満そうな顔になって考え込んでいる。
キョウはもっとはっきり、呆れかえった様子を隠さずに言い放った。
「そんな得体の知れない毒を使うなんて不用心すぎる。きみにだってどんな危険な作用があったかも知れないんだぞ」
「あら大丈夫よ。あたしはちゃんと、少しずつ試して身体を慣らしたから」
それこそ当然の用心だった。客の部屋で一緒になってひっくり返っていたら、地図を盗み見るどころではない。
「……きみは、地図のためなら、本当に何でもするんだな!」
「やだなあ。そんな褒められても何もでないわよ」
憤然となって声を震わせたキョウに、アシャは照れながら頭をかいた。
「あの……」
そのとき部屋の外からふいに声が聞こえてきた。双竜亭の女将の声だ。
「お話し中、申し訳ございません」
「妙ですね。しばらく人払いをするよう伝えてあるのですが」
不審そうにキョウが眉を寄せる。
将軍が小さくうなずいた。
テイは黙々とすばやく卓の上の地図を片付けた。
「どうぞ」
キョウが戸口に迎えに立つと、女将がおどおどと入ってきた。一人ではない。
女将の後ろに控えた顔をみつけて、アシャは思わず大声で叫んでいた。
「セン? センじゃないの?」
今朝、アシャが双竜亭にきた時に、玄関先で別れたセンだった。
あんたはあたしの付け馬か?と突っ込みたくなるほどよく現れるが、今はそれどころでない。
センの顔は目元も頬も大きく腫れ上がり、額からは血が流れて顔を半分染めていた。顔色は真っ青だ。
アシャは急いでセンに駆け寄った。よく見ると、顔だけでなくて体中あちこち傷だらけだ。
「アーシャ……お、俺」
「あんたそれ、その怪我どうしたのよ!?」
「さっき、お前とわかれてから、み、店に帰ろうとしたら、いきなり誰かに殴られて」
口の中も切れているのか、センは話しにくそうだった。
女将がその後の説明を引き継いだ。
「おそれながら。こちらのセンは、何者かに裏通りに引き込まれて殴られ、その暴漢に文を持たされたそうです。あて名は、将軍さまにと」
ちらちらとアシャを意識しながら、女将が平伏して書状を差し出す。
どうしてこの宿の貴賓室にアシャがいるのかが不思議でしょうがないんだろう。
アシャだって、好きでいるわけではないのでひきつった笑みで返すしかない。
キョウがかわりに受け取り開いて見せた文面を一読し、将軍は淡々と指示を下した。
「わかりました。女将、別室でその子の手当をお願いします」
「かしこまりました」
よろけるセンを支えながら女将が退室したあとで、将軍はさらりと説明した。
「これは『彼ら』からの脅迫文です。『彼ら』の要求はアシャ、あなたです。あなたがここに書いてある場所に一人で赴かないと、この街の住民すべてが犠牲になると」
「え、あ、あたし?」
アシャは面食らって声が裏返ってしまった。
アシャが双竜亭に来たのはついしばらく前のことだ。
それなのに、アシャと別れてすぐのセンが暴行を受け。ここに、将軍さまのもとに、いきなり脅迫文が届くなんて。
手回しがよすぎる。ずっと見張られていたとしか思えない。
「そう。どうやらこの街で、『薔薇の地図師』とあなたを結びつけて考える者が我々の他にもいたようですね。テイたちのおかげで、『彼ら』に一歩先んじることができたようですが」
「いやあのすいません将軍さま、申し上げにくいのですが」
その異名は死ぬほど恥ずかしいので使わないでください、と言おうとして、アシャはギクリとなって動きを止めた。
気づいてしまったのだ。見張られている前兆は、すでにいくつもあったことに。
めざとく気づいた将軍が訊ねかけた。
「アシャ、どうかしましたか?」
「将軍さま……この街にきて、あなた方はどうやって私の身元を突き止めたんですか?」
「恥をしのんで白状しますが、この二人の力を借りたんです。私は何もしていませんよ」
「つまり、セレンディラの特別な力で」
「ええ」
そうなるとセンが言っていた、ヨアンじいさんとアシャの関係を調べていた誰かは将軍さまとは別口ということになる。
アシャはごくりと息をのんだ。
「将軍さま、ではもし、私の地図が人の手から人の手へ渡った経路を、地道に遡っていたとしたら……私に辿り着く一つ前はうちの親爺、大熊亭の主ノドです。そのさらに前はたぶん、センの父親、隣の文使宿の旦那さん。二人は昔っからの飲み友達で、博打友達だから」
アシャから取り上げた地図を、酒の勢いで見せびらかしたか。
あるいは博打のかたにとられたか。
そして、文や荷を届けた先の街で、怖くなって手放したか。
そうなると、問題の五枚の地図が、どうやって世に流れ出て行ったのか想像するのは難しくない。
「……そして、二人とも数日前から姿が見えません。それって……」
「なるほど。『彼ら』に先んじたのは一歩どころか、ほんの鼻先の差だったようですね。ずいぶんと以前から、あなたの宿までは突き止められていたのでしょう」
将軍は軽く息をつきながらうなずいた。
それはつまり、親爺たち二人はすでに敵の手にあると、将軍さまが認めたということ……
アシャはさーっと顔や背中から血の気が引くのを感じた。
「ど、どうしよう。どうしましょう。一体だれが、親爺たちを……」
「アシャ、落ち着いて下さい。ある程度予想はついています。要求してきたのはあなたの身柄だけで、私の持っている地図には触れてこない。相手は『彼ら』とはいえ、私が誰であるか知らされていない下位の者である可能性が高い」
「将軍さま、待ってください。『彼ら』って誰のことですか?この街の住人すべてって……え?どうしてそこまで大事になるんですか?」
いきなり話がさらに大きくなってわけがわからない。
アシャは混乱しきっていた。
やはり地図が原因で目的なんだろうか。
どうしてみんなアシャの趣味を、何より大切な生きがいを、単なる罪のない趣味としてそっとしておいてくれないんだろう。
「『彼ら』は我々の敵です。あなたにとってもね、アシャ。なにしろ、地図を手に入れて国を危うくし悪しきことに使おうと目論んでいる連中です」
「それは許せないわ!!」
ほかにどんな説明を聞くより話がはやかった。
愛すべき地図を悪用するなんてとんでもない輩だ。しかもセンにまであんな大怪我を負わせるなんて!
アシャは秒で『彼ら』とやらを敵認定した。
そして、テイやキョウにきっと向きなおる。
「あなたたちはそいつらを知ってるの?」
「いや、僕たちもそう詳しくは……」
「この私を以前からとても悩ませ苦しめている連中です」
「『それは許せませんね!!』」
二人がぴったり息をそろえて憤った。
なんて簡単なんだろう。
アシャは飼い主が子犬2匹をころころと足元にまとわらせている様が見えるような気がした。
「将軍さま、私はどうしたら良いんでしょうか?」
「あなたには宿での仕事があるでしょう。大熊亭に帰りなさい」
「え……でもいま、私と引きかえだと脅迫が」
アシャは軽く面食らった。
こういう時の定石として、保護とか拘束とか、人質解放の取引材料に利用したり、親の命が大事なら協力しろとか脅して囮に使ったりしないで良いんだろうか。
「かまいません。お勤めを途中で放り出すのは良くありませんからね。後のことはこちらが本職なので引き受けます。なにも心配いりませんよ」
将軍は、逃げた飼い猫さがしの並みの気軽さで、おっとりした口調のままうけおってくれた。
アシャはぎこちなくうなずいた。
たいへん失礼だけれども、相手の申し出をそのまま信じるには抵抗がある。
だいいち一人でまっすぐ座れもしない人にそんなこと言われても、はいそうですかと信じられるわけがない。
「心配なら、あなたにはテイを護衛としてつけましょう。この子の隣は、この世のどこより安全ですよ」
ああ、なるほど。いちおう見張りつきなわけね。
アシャはようやくほっとした。
完全に自由ですよと言われるよりは、いっそその方が安心だった。
この話の流れで無罪放免なんてことになったら、どんな裏があるのかと逆に怖すぎる。
となると、親爺二人の解放に動いてくれるのは見た目やわそうなキョウの方なんだろうか。
はっきりいって、巫子だというキョウにどんな力があるのか、現段階では見当もつかない。
「それにしても途方もない脅迫だわ。この『経』の街すべての住民を、一度にどうかするなんて無理にきまってるのに」
「無理ではないが方法は少ないでしょうね。かえって相手がどんな手でくるか推測しやすくて助かります」
「将軍さま、方法って?」
「きわめて高価な最新の公路図を常備して猛毒を使うような人間があなたのそばにいたのなら、関連づけて考えない方が不自然です。たとえば、アシャ。この街の井戸は地下水の汲み上げですか。それとも?」
「上水道です。北の森の奥に水源が……」
答えておいて、アシャは『その』可能性に、とっさに言葉を失った。両手で口元を覆いながら首を振る。
「まさか、……そんな。井戸水に毒を混ぜるなんて人のすることじゃない」
「やはりあなたはとても賢いお嬢さんですね、アシャ」
ずっとやわらかだった将軍の口調が、その一瞬だけふいに、刃のようにひややかな鋭さを増した。
「そのとおり。『彼ら』は人ではない」