第16話 都への誘い
将軍の命によりすぐさま貴賓室に、大きな紙と、筆や墨などの書道具がひと揃い届けられた。
アシャはテイに手伝わせて運んだ卓の上に紙をひろげ、筆先に墨をたっぷりとふくませた。
その夢のような感触にうっとりする。
さすがは高貴なお方がつかう品々だ。こんな画材に触れる機会なんて、このさき二度とないんじゃないだろうか。
下々のアシャはいつもは細い棒墨か、書針の先に染料をつけて描いている。何しろ貧乏なのだ。ものさしや墨壺糸やぶんまわしは手作り。紙だって何度も使ったものを自分ですきなおして使っている。
普段と比較にならないくらい高級な、しかも新品の紙の手触りと匂いが素晴らしすぎる。
こんな場合だというのに、アシャは期待と興奮のあまりどうかなりそうだった。
(これ、使ったあともらって帰れないかしら……?)
せこい考えを浮かべてちら、と将軍を見ると、別の意図にとられたのか、にっこりと笑み返された。
「大丈夫ですよ。さきほどは刑の話をしましたが、今すぐあなたをどうこうするつもりはありません。落ち着いて、いつもどおり描いてみてください」
はげましの中身は、よくよく考えると口調ほどにはやさしくない。つまり今すぐはなくても、後々はどうこうするつもりがあるわけだ。
紙の表面をなでさすりながら、思わず愚痴がもれた。
「……それほど重い罪になるのでしたら、あらかじめそう詳しく知らせておいて欲しかったですわ」
「禁を破ったらどうなるか、あえて細やかに告知しないことで、どんな刑に処されるか分からないと畏れさせる狙いがあるのですよ……たまにそれが通じない方もいるようですが」
しかもアシャの場合、刑の仔細を知っていたところで、素直に従っていた保証はない。
ちくりと刺されて、思わずアシャは首をすくめた。
それにしても、地図がご禁制とはなんなのか。
テイは地図のことを、国を危うくするものと言っていた。アシャのなにより愛する地図が、毒薬や爆薬や、贋金つくりと同じ扱いを受けているのがどうにも納得いかなかった。
「納得いきませんか?」
不服顔で筆を握ったアシャに、将軍がやさしく諭す声をかけてくる。
「世の中の大事な部分のほとんどは、納得いきかねることでできているんですよ」
(知ってるわよ。だったらやっぱり、あたしは地図を描くことで物申すしかないんじゃない)
三人ぶんの視線を受けながら、覚悟をきめて、さーっと真っ白な紙の上に最初の線を走らせる。
丁寧に当たりをつける必要はなかった。アシャの体が世界の形を覚えている。
その素晴らしい書き味に感動さえ覚えながら、アシャはこれまでに何百何千回とくり返した作業にとりかかっていた。
「将軍さま、よろしければあちらで横になってご覧になりませんか」
「ありがとうキョウ。ですができればこのまま、正面で拝見したいですねえ」
「でしたら、もっと楽な姿勢にお直します」
長期戦になりそうだと思ったのか、キョウが将軍に身体を休めるよう提案している。
アシャは顔を上げもせずに、手を動かしながらきっぱりと言った。
「無用よ。そんなに時間かからないわ」
なにしろ専門の道具があるわけでなし。筆だけでどこまで描けるかやってみろという趣向だろう。
だったら腕がものを言う。もともと限られた時間のなかで、人目を忍んで描いてきたアシャにとっては、早描きは得意中の得意だった。
ちょうどいい。昨夜見た、大陸南路の絵地図を描こう。
あれを描いた数年前と現在と、どれくらい上達したか将軍さまに見てもらおう。
(それになんてなめらかな紙に、細部まで描きやすい筆!いつもより何倍も上手く描ける気がするわ!)
夢中になって意気揚々と描いていると、いつしか目の前の地図以外、きれいさっぱりアシャの視界から消えていた。
他人に見られていることも、過去の下手くそな地図も、死刑の可能性さえきれいに忘れ去っていた。
墨ののびがいい。
手指がいつもより軽くなめらかに動く。
筆先が微細まで意図をとらえて走る。
まっさらな紙の上に、アシャの頭の中にある世界を思う通りに自在に描くことができる。
それだけで弾けるような歓喜が胸の中でふくらんだ。
アシャはただ一心に線をひき、息をつく間も惜しんで地図を描き続けた。
「あっ」
小さな悲鳴。
そして、ずる、という奇妙な音を耳にして、アシャはふいに手を止めた。見ると、長椅子に寄りかかっていた将軍が、身体を斜めにして床へとずり落ちかけている。
その傍らにいた少年二人が大慌てで、両側からその身体を支えて受け止めていた。
「将軍さま、危ない!」
「も、申し訳ございません。お怪我は」
「い、いや。私もすいません。呆気にとられてしまって、とっさに声が出なくて……」
「……ええ、僕たちも」
どうやら、アシャの様子に目を奪われていて、将軍の身体が傾きすぎていたのに両側にいた二人も、本人すらも、気づかなかったらしい。
床に転がり落ちる前に止められてよかったと、従者としてあるまじき失態に、二人とも冷や汗をかいている様子だ。
テイに抱えられて元通りにきちんと座りなおした将軍は、恥ずかしそうにアシャに頭を下げた。
「申し訳ない。とんだお邪魔をしましたね」
「いいえ、もうできました。描こうと思えばまだ描きこめますが、いちおうこれで完成です」
「もう?ぜひ、近くで見せていただきたい」
「まだ墨が乾いていませんから、お手が汚れないようにお気をつけください」
アシャが差し出した完成したての地図を、キョウとテイがおそるおそる手に持って将軍の眼前に広げた。
将軍は真剣な表情になって、用意してあった過去の地図と現在の地図とを見比べていた。
「これとこれが同じものなのですか?」
「そうですね。6番『溢』の大橋の名前と位置を少し変えてあります。将軍さま方も都から来るときにここを渡ってこられたのではないですか。関所があって、とても取調べが厳しいと聞いていますが」
「え、ええ。そうですね」
あいまいに返事しながらも、将軍は心ここにあらずといった風で、呆然として地図に見入っている。
「正直、この二枚がとても同じ場所を描いた地図とは……思えません。そもそもこれは、地図なのか……」
将軍のつぶやきに、キョウがうなずいて同意した。
「古い方と比べると、地図というよりこれはまるで風景画のようですね。将軍さま」
「そうです。記号や文字が少ない。まるで目で見たままを紙に写し取ったような……それも横からではなく、真上から」
「はい。今回は、地上を真上から見た光景を意識して描きました」
アシャははきはきと答えた。なにしろ会心のできだったのだ。
道や街の地理情報は盛り込みつつも、平地は低く丘陵は高く、川は曲がりくねって流れ、森はあおあおと茂って山はそびえ立つように見えるように。
アシャの頭の中にある世界をあるがままに描くには、将軍が提供してくれた画材は正にぴったりだった。まだまだ改良の余地はあるけれども、ここ数年では一番の傑作ができた。アシャは達成感でいっぱいになっていた。
「将軍さま、いかがでしょう?」
前回の地図を描いたのがアシャ自身だと納得してもらえただろうか?
どきどきしながら返事を待つアシャに、将軍は黙り込んだまままったく応えなかった。テイやキョウが不思議そうに視線を向けるのにも気づかないようで、ただ一心に地図をみつめている。
やがて一言ぽつりとつぶやいた。
「……困りましたねえ……」
「将軍さま?」
アシャが重ねて問うと、ようやく相手ははっとなったように顔をあげた。
「その地図に、なにか問題がありましたか?」
「ああ、いや……たったいま自分のこの目で見たものが、いまだ信じられないだけです。なるほど、あなたは本当に自身を磨き上げ、はるかな高みまで技を究めておられるようだ。素晴らしい……本当に素晴らしいできばえです」
たった今、目の前で描きあげて見せてもまだ半信半疑だとは。
疑り深い御仁だなあとアシャは思った。
けれどそれ以上に、アシャの心を強烈に揺さぶったのは、そのあとの将軍の誉め言葉だった。
なにしろご禁制の地図だ。描いたものを、これまで誰かに見せたこと自体が少ない。さもなければ、相手によっては怒られたり、怯えられたり。怪訝な目で見られたり、頭おかしい子あつかいされたり。
アシャは生まれて初めて、自分の作品をきちんと誰かに見せて、評価してもらえたのだった。
しかもこんな手放しで称賛されるなんて。
思い通りの地図が描けた時の満足感とはまた違う。目の前にきらきらと明かりが灯ったような、嬉しくて誰かれなしに自慢して歩きたいような、はじめて味わう喜びと感動がアシャを満たしていた。
(嬉しい……こんな褒めてもらえるなんて思わなかった。さっきもすごい優しい言葉をかけてくださったし、将軍さまって、もしかしてすごい良い人なんじゃ?)
現金なものである。油断のならない食わせものから一転して、すばらしい好人物へと。将軍さまに対するアシャの評価は、みるみる急上昇していた。
(もし、もっと描いてくれって言われたらどうしよう……いや、迷うことないわね。描くわ!全力で!将軍さまのためなら何枚でも!)
「正直、これほどとは予想もしていませんでした。たいへん貴重なものを見せていただいた」
「ありがとうございます。お褒めにあずかり光栄です。これからも毎日精進して、いつか万国全図をこの手で描いてみたいと思ってます!」
口に出してからはっとなる。なにしろ有頂天なもので、よりどりみどりな死刑の話は都合よく忘れてしまっていた。『こいつ信じれない』という視線をむけてくる少年二人の無言の非難を、アシャは完全に無視して胸を張った。
「ほう、国宝の万国全図のことまで知っているんですね」
「ヨアンじいさんに聞きました。小さい頃からの憧れなんです。将軍さまは、ご覧になったことは?」
「何度もありますよ」
よもやまさか無いだろうと思っていたのに、さらりと肯定される。
思わず身を乗り出して相手に飛びつきそうになったアシャは、一瞬にしてテイに取り押さえられていた。でなければ、羨望と悔しさのあまり、将軍さまの足元にすがりついておんおん泣いていただろう。
(なんてえ羨ましい……あたしなんてどんなに頑張っても、万国地図をおがむどころか一生かかっても所蔵してる地図院にさえ近寄れもしないのに。将軍さまは見たことがある。それも、一度ならず何度も、なんて。複数!複数回よ!……雲の上の人だろうとは思ってたけれど、まさしく天上人だったのね!)
嫉妬と羨望の視線をギラギラとたぎらせ涎を垂らさんばかりのアシャに、将軍が楽し気に目をほそめて訊ねる。
「見てみたいですか?」
「え?」
「描く前にまず、本物を見てみないと始まらないでしょう。あなたが万国全図を見てみたいと望むなら、その夢がかなうよう、こちらも協力しますよ。アシャ、私とともに都へ来ますか?」