第14話 残りの半分
「私はね、アシャ。好奇心がとても強いたちなので。必要な情報が足りなかったり、話のつじつまが合わなかったりすると、こう、すっきりしなくて胸がどうにもモヤモヤするんですよ」
そう言って将軍は、実際に左手で胸の上をさすって見せながら、椅子の上で居心地わるそうに身じろいだ。キョウがそっと手を伸ばし、背の下の枕をずらして姿勢をたて直した。
「なるほど、あなたは自身の力のみで地図を描くことができる。罪の重さはしかとは認識していなかった。そして過去に描いた地図が世に出てしまったことを知って、本意でないので回収したいと強く望んでいる。それは分かりました」
どうやら、こちらの主張はのんでもらえたらしい。アシャはひとまずほっとした。そもそもアシャが描いたのではなく、どこからか手に入れた地図を不正に持っていたのではないかと疑われたら、証明するのはたいそう難しいだろう。
「しかし、あなたはこのキョウから、地図作りの禁制破りは死刑だと聞いたのでしょう?逃げ出しもせず、生命の危険もかえりみず取り返しに来たというには、今のお話では動機としてせいぜい半分です。納得できません」
アシャはむうと黙り込んだ。
納得できてもできなくても、それが動機なのだから仕方がない。ついでにいうと、もし逃げていたら逃げ切れたとでも、見逃してくれたとでもいうつもりだろうか。こんな大勢の兵を動かし、あっという間にアシャの身辺を調べあげ、天性の狩人みたいな二人を使役しておいて。
それこそありえない。
「でも、本当にそうなんです。私は、あんな下手な地図を誰かが持っているのが我慢ならなくて……」
「なら、こちらからくわしく聞いても?」
将軍はわずかに首をかたむけ、やんわりとした声で尋ねかけた。優雅な耳飾りがさらりと揺れた。
さあ、何を聞かれるんだろう。アシャはごくりと息をのみながらうなずいた。
「では、あなたに問います。……都で見つかったすべての地図には、実は共通のある印が描きこまれていました。この事実は伏せてありますし、手持ちの地図からは消してありますから、テイやキョウはこのことを知りません。あなたはそれが、何の印かわかりますか?」
「……は?」
思わず間の抜けた声がでる。あんまりにも予想外のことを聞かれて、混乱したアシャは一瞬、頭の中が真っ白になっていた。
それは、わからなくは、ない。だって本当に自分で描いた地図だし。そうだ、言われてみれば、確かにそんな印も描いた。そういう習慣があるにはあったのだが、今の今まですっかり忘れていたのだ。
「それは……薔薇です。地図の片隅に、薔薇の花を描きこみました」
「ほう。それは何故?薔薇の花の意味は?」
「べつに理由とか意味なんて……あ、いえ。し、署名です」
なにしろ、今しがた思い出したばかりの遠い過去の話だ。細かいところまで、そんなすぐには無理だ。かといって相手が相手だけにいい加減な返答はできない。アシャは記憶の糸をたぐりよせながら必死に答えた。
「画家が、自分の絵に署名するみたいに、私もしてみようと思ったんです。でも、その……」
「そこで本名を署名すれば、いざという時に己の身が危うくなる。賢いあなたは用心のために、自分だけにわかる特別な印をつけた、というわけですか」
「……はい」
都合が悪くて口ごもった部分を、将軍はずばりと言い当てた。アシャは背中に冷や汗がつたうのを感じた。
以前からきわめて違法であると知りつつ作図していたことが、あっけなくバレてしまった。賢いなんて皮肉もいいところだ。アシャはがっくりと肩をおとして認めた。将軍は楽し気に笑みながら、なおも続けた。
「さすがですね。ご名答。あなたの言うとおり、発見された地図にはみな薔薇の印が描きこまれていました。これらの地図は長年、誰が描いているのか不明のままだったので、この印にちなんで製作者は『薔薇の地図師』と呼ばれています」
「だ……っ!」
(だっさ!!!!!)
思わず声がもれそうになるのを、口に手をあててぐっとこらえる。まさか自分にそんなださださな異名がつけられていたとは、あんまりだ。アシャは恥ずかしさに息絶えそうだった。二人のやりとりをテイとキョウが心配そうに見つめているが、それにかまっている余裕さえなかった。
黙り込んでしまったアシャに、将軍がけげんな表情で訊き返した。
「だ?」
「だ、だ、大それたことをしてしまったと、今では深く悔やんでおります!」
アシャは無理やり言葉を繋げて返答した。将軍は首をふった。
「本当に悔やんでいますか?……たしかに身元が知られないよう用心していたのは本当でしょう。しかし私が見るところ、あなたにはとうに大人と同じかそれ以上の常識と分別がある。ならぬことはならぬと分かっていたはずです。それでも地図を描くことは止められなかった。そして共通の印をつけた。どうして?この薔薇は、あなたにとって何ですか?」
「ただの目印、です……」
「本当に、それだけですか?」
「あ、いえ……ええと」
アシャは困惑した。どうして将軍さまは、こんなつまらないことにこだわるんだろう。
「あの薔薇は、たまたま何か……私の名前のかわりに記すものを探していて、身近なものにあった印を適当にそのまま写しました」
「身近なものとは具体的に何ですか?」
「それは、その、布地の刺繍です。私が拾われた時のおくるみの布……それをずっとひざ掛けとして使っていたんですが、その布にあった薔薇の意匠を使いました。でもしばらくだけです。特に気に入った数枚にだけ印を入れましたが、不安になったのですぐ止めました」
「不安とは?」
また質問だ。こんな昔のこまかいことまで聞いて、一体なんになるのだろう。相手の意図が読めないからろくに対策もうてない。アシャはだんだんと、保身を計算する余裕をなくしていた。
「不安は……誰かに知られた時のことです。だって禁じられていることをやっているんですから。地図の数が多くなれば隠しづらくなります。大熊亭は私が育った家だけど、主は親爺です。奉公人もいるし客だって大勢出入りする。秘密を隠すには、とても不向きなんです」
「ああ、そういえばあなたは捨て子だったそうですね。それでも大熊亭の主に拾われたのは運が良かった。もしも同じ宿でも花街の宿に売られていたら、おそらく地図を描くゆとりはなかったでしょう」
どこか独り言のような将軍のつぶやきを、アシャは他人事のようにぼんやりと聞いていた。
果たして本当にそうだろうか?……いや、自分は、そうなったらそうなったで、たくましく適応して地図を描いていたはずだ。
どこに拾われてもどんな境遇にあってもそれは間違いない。自分が生きる場所、進む先をゆるぎなく示すもの。地図。
「将軍さま、お言葉ですが私は、地図を描いていない自分なんて想像できません」
「死刑になってもですか?」
「それでも……地図を描くのは、私にとっては息をするのと同じくらい自然なこと。ものごころついた時から、私はずっと地図を描いて生きてきました。これからもそうやって生きていきたいんです。どうかお願いです。私から地図を取り上げないでください」
思いのまま地図を描く自由が欲しい。
それはアシャの本心だった。アシャは必死で訴えた。目の前のこの病んだ貴人がどういうわけかアシャの地図を持ち、帝の命で製作者を探しにきたというのなら、それを赦す権利もきっと持っているはずだ。いまはただ、そこに賭けるしかなかった。
「そこまで言うなら、それはもはや、趣味とは言えませんね。アシャ、あなたにとって『地図』とはいったい何なのでしょう?」
アシャの懇願にも、将軍は心を動かした様子はなかった。いまだ納得いっていない、どこか不満そうな表情を浮かべて、再度アシャに質問してきた。
「え……と」
いざ、あらたまって問われると、難しい。アシャだって自分にとっての地図が、編み物や刺繍と並べて考えられるものだとは思っていない。
アシャは口元に手をあてしばらく思案してから答えた。
「うまく説明はできませんが……地図を描いていると、あたし生きてるって感じがするんです。このために生まれてきたんだって。その、証なんです」
「あなたの、生命の証?」
「そう……です」
アシャはぎゅっと両手を握りしめた。話しているうちに、大熊亭の暗い室内で、テイの手に握られた地図を見せられた時の恥ずかしさや怒りが、まざまざと脳裏によみがえってきていた。
「だから、ここへも来たんです。自分の分身のような地図が、あんな姿で残っているのが許せないから。だって、とても未熟だから。本当に下手だから。あの頃のあたしはあんなおそまつな出来で満足して、これが自分史上の最高傑作だわっていい気になって、わざわざ署名がわりの目印までつけてあの数枚の地図だけ焼き捨てないで残したんです。だから取り上げられて出回ってしまったの。そんなもの、今さら見たくなかった……!」
キョウもテイも、堰が切れたような勢いで話し始めたアシャを驚いた表情で注視している。けれども一気にあふれだした思いはもう、止まらなかった。
「見るたび思い知る。すっごく良く描けたと思って鼻高々でした。私が消したいのは、本当に許せないのは、あんな拙い地図を描いて悦に入っていたあの日のあたし自身なんです!」
「あきれるほど身勝手ですね。あなたの描いたこの地図のために、これまでどれだけの人間が振り回されたかわかっていますか?」
責めるような内容に反して、将軍の口調はかわらず穏やかだった。アシャは静かに首をふった。そして顔をあげ、まっすぐに将軍の目を見つめて答えた。
「分かっています。ご迷惑をおかけしました、申し訳ありませんでした……と口で言うのは簡単です。でも違いますよね。将軍さまのお聞きになりたかった残り半分とは、つまりそういうことでしょう?」
体裁も計算もない、むきだしの本心。地図が禁じられてさえいなければ、軍の調査や介入なんてありえなかったはずの、アシャだけの心の問題。本当は、それだけのことだったのだ。
「そのとおり。たとえどんなに非常識で理不尽で納得いかなくても、私がもとめるのは真実ひとつ。いままさに、あなたが私に示してくれたものです」
そう言って将軍は椅子に背を預けると、ふうと深く息を吐き出した。
「……私や私の仲間たちが数年かけて追ってきたものの正体が、これでようやくはっきりしましたね」