第12話 初対面
翌朝は大変だった。
なにしろ満室御礼状態だというのに、相変わらず宿の主、ノドが帰ってこない。
(まったく、もう!いったい、どこで油売ってるのよ、だめ親爺!)
できれば将軍さまのもとに出頭する前に、かつてアシャから取り上げた地図を誰に渡したのか聞き出したかったのに。ご禁制を破った罪で、生きるか死ぬかという前に、朝の仕事で忙殺されているありさまだ。
(こんな大変な日に、あんまりいつもどおりで我ながらびっくりするわ!)
通いの料理人や奉公人たちが来るまでの間、ノドがいなければ、宿のきりもりはアシャ一人の役目となる。太い三つ編みを振り乱して厨房で必死に働いていると、ふらりと長巾姿でテイが入ってきた。
キョウは将軍さまの朝のお仕度があると言って、夜が明けてすぐ双竜亭に戻ってしまっていた。通訳なしで、はたして言葉はどこまで通じるのだろうか。
「なにぼーっと突っ立ってるのよ。忙しいんだから、そこにいるなら手伝ってよ。鍋をかまどから降ろして。皿を運んで、料理を並べて!」
アシャの中で、もはやテイは客ではない。
次々と指示を出すと、相変わらず黙ったままでも意外にてきぱきと動いて仕事を助けてくれた。例の怪力を発揮して、重いものでも一度に運べるので作業の能率がいい。
追加客の兵たちは馬の世話があるとかで、手早く食事を済ませるとさっさと宿を出て行ってくれた。一気に人が減ったことで、どうにか手がすいて楽になる。
そうしてようやくやってきた奉公人たちに、説明もろくにできないまま後をまかせ、アシャは将軍さまの待つ双竜亭に向かって宿を後にしたのだった。
「おい、アーシャ。お前こんな大店に何の用なんだよ」
テイにつきそわれ、双竜亭に入ろうとしたアシャは、玄関の前でセンに呼び止められた。
「なあに。またあんたなの?」
「ご挨拶だな。お前の姿が見えたから追いかけてきたんだよ」
「あら何か用だった?」
「ああ、……なあ、俺の親父どこにいるか知らねえ?ここ数日姿が見えなくて……てっきりノドといるのかと」
アシャはきょとんとした。確かに隣の文使宿の旦那とアシャの親爺は、飲み仲間博打仲間でよくつるんではいるが。
「ごめん、知らないわ。うちの親爺もしばらく見てない」
「わかった。もし見かけたら、仕事が山積みだからとっとと帰るよう伝えてくれよな」
そう言いおいて、仕事を放ってきたからと、センは慌てて駆けて行ってしまった。どこの親爺もぐーたらで似たようなものなのね。アシャは肩をすくめて、絢爛豪華な双竜亭の門をくぐったのだった。
「……あの地図の持ち主だと名乗っている?テイがこの街で見つけたという、その『おかしな娘』がですか?」
「ええ。しかも、あの地図を描いたのは自分自身だと申し出ております」
椅子にかけた将軍の髪を、ていねいな手つきで櫛けずりながらキョウが答えた。すでに洗顔を終えひげをあたり歯をすすぎ、蒸したやわらかな布で寝汗をふき清めて新しい衣への着替えまで、万全の支度を整えている。
たとえ相手が自分では身体を支えられも動けもしない病人でも、世話はキョウひとりでまったく問題ないくらい手慣れていた。
「描いたというのは、誰かの指示や、支配のもとでという意味ですか?」
「いえ。おそらく独学、独力で」
微妙にひきつりながら答えるキョウに、将軍は目を丸くした。まったく想定外の報告だ。
「それが君たちの調査の結果ですか」
「はい。あの……なんというか、申し訳ございません」
「どうして君が謝るのですか」
不思議そうにする相手に、キョウは曖昧に笑ってごまかした。どうして謝罪がいるのかは、本人に会ってみてからのお楽しみにしておこう。
「地図を、ひとりで描いた。ふむ……城をひとりで建てたというくらい、信じがたい話ですねえ」
普通の上官なら、ふざけるなと怒鳴られてもおかしくないところだ。キョウはおずおずと相手の反応を伺ったものの、将軍は意外にも楽し気に笑っていた。
「面白いですねえ。会ってみましょう。すぐ連れてきなさい」
テイに伴われたアシャが部屋に入ってきたとき、もっと特殊な見た目を想像していた将軍は、いささか拍子抜けしていた。
普通の若い娘だ。顔立ちは愛くるしく整っているが、活気や勢いのようなものがより前面に出ていて、勝気な性質でまわりを振りまわす印象が強い。いかにも機転が利きそうな栗色の瞳がきらきらしている。
若い娘なのに化粧気がなく髪飾りひとつつけていない。飾り気がないというより、動きやすさを優先しているのだろう。働き者で、宿屋の看板娘として有名らしい。なるほどよく働きそうな手だ。その指先に、あまり見かけないいびつな膨らみと、皮膚の奥まで染み込んだ墨のような汚れが見てとれた。
(ほう。指だけ見ると、いっぱしの職人風ですね)
すらりと背が高い。16と聞いていたが胸も腰も年齢以上によく育っている。長く伸ばした金の髪もつややかだ。これだけ条件がそろっていて、まったく女性的な雰囲気や魅力を感じないのがいっそ不思議だった。
(さて、なかなか美しいお嬢さんだと思うんですが、ねえ)
どちらかというと、森の中を散策していて見知らぬ動物に出会った時のような。手を出しても襲われはしないだろうけれど、ちょっと距離をおいて様子を見てみようと感じる時のような。好奇心と警戒心の二つが同時に動いている。
なにより、禁制破りの刑についてはすでに伝えてあるらしいのに、少しも緊張したり怯えたりしている風はない。見た目どおりの娘であるはずがなかった。
もしキョウが将軍の心を読んでいたら、両手に握りこぶしを作って、それこそがタイカの警告ですよ!と断言していたかも知れない。
「はじめまして、お嬢さん。私はカイル・リールセン」
と、その将軍は名乗った。はるか目上の相手から平民である自分に名乗りを受けて、アシャは心底びっくりした。
(しかも名字。いまこの人、名字を名乗ったわ!)
陽の民はほとんどが名字を持たない。どこそこの何某、または誰々の子の誰それという風に、地名や家族構成で名乗る。それは都へ行っても変わらない。かなり身分が上になっても、所属とか肩書で名乗るのが普通だと聞いている。
名字を持てるのは、そしてそれを名乗ることが許されているのは、本当に一部の、ごく限られた高貴な方々だけなのだった。それも、それも。
(なにこの、古本屋の店主が膝に猫乗せて、日向ぼっこしながら店番してるみたいな、ほんわかした雰囲気のおじさんは)
馬車からよたよたと降りてきた姿を遠目に見ただけのアシャは、はじめて面会がかなったその人を前にして、驚きを隠せないでいた。
やはり四十代半ばくらい。若いころは相当もてたんじゃないかという、優しい落ち着いた雰囲気の美丈夫だった。予想通り半身が不自由なのか、やや傾いた不自然な姿勢で長椅子にもたれかかっている。昨日とはまた違う、着心地よさそうな長衣に身を包んでいた。いずれも都で流行の色に、今様の意匠だ。
(旅先にどれだけ衣装を持ってきてるのかしら。はっきりいって、女の私よりよっぽどおしゃれだわ)
耳朶から伸びた、長い濃紺の房飾りが首筋で揺れていた。男物の装身具は貴人の証だ。爪の先まで整えられたつややかな指には、耳飾りとおそろいの色で、珍しい石をあしらった指輪が光っていた。
身動きできない病人の世話がどんなに大変か身にしみて知っているアシャは、すみずみまで手入れの行き届いた将軍さまの様子にただただ感心した。キョウはこの支度のために、まだ暗いうちから宿を出たのか。どんな思いでここまでつくしているんだろう。
「私は……アシャです。大熊亭の主の娘です」
アシャはぎこちなく頭を下げた。正式な礼儀など知るわけもない。
「よろしく、アシャ」
将軍は、アシャの名前を正確に発音した。アッシャでもアーシャでもない。深みのある、ほれぼれしそうな良い声だった。話しながらも少しずつ椅子からずれていく身体を、まんまるの枕のようなものを背にかませて、キョウがこまめに直していた。その様子を、椅子の隣に寄りそって、テイが静かに見守っている。
アシャは三人の様子をじいっと見つめていた。
これが、この亜人の少年たちの主なのか。そして、現在の地図の持ち主。都から、お役目でアシャをはるばる探しにやってきた人。
「見たとおり、右半身に麻痺があるのでね。こんな格好で失礼しますよ」
「とんでもございません」
アシャはふるふると首を振った。そして背筋をぴんと張った。
こんな、なりで。ふうわりした笑顔で。いきなり大勢の軍隊を引き連れてきて街で指折りの大店に陣取って、セレンディラ二人を子犬みたいに懐かせている。
こんなんでしかも『将軍』て肩書が本物なら、よっぽど幸運に恵まれたか、もしくは相当な食わせものか。どちらにしても、ただ者じゃないわ。
(心してかかるのよ、アシャ)
アシャは真剣に、自分に言い聞かせた。