第10話 夜這いと毒
その夜更け。合鍵を片手に足音をしのばせたアシャは、キョウとテイの二人が宿泊している部屋に音もたてず押し入った。
窓は閉まっていて室内は真っ暗だ。手燭をかかげて部屋を見まわすが、卓にも床の上にも荷物らしきものはない。肝心の地図はどこか。懐に入れたままま眠っているとしたら、ちょっと厄介なのだが。
二人は上掛けもなしで、着衣のまま寝台に横になっている。その懐をそろりと探ろうとして、伸ばした手をふいにつかまれた。
「きゃっ」
アシャは悲鳴をあげ、手を振り払って飛びのいた。二人は寝台からゆっくりと身を起こした。アシャが焚いた香の効果で寝ぼけたわけではない。はっきりとした意思のある動きだ。
キョウは長巾で顔を覆って煙を防いでいた。テイはそれすらしていない。香が満ちた室内に素顔をさらしたまま、寝台からふらりと降りると窓に歩み寄って両側に大きく開いた。吹き込んできた風で煙が流れ、もやもや曇っていた部屋の空気がすっきりときれいになった。
(ええ、なんでこいつら寝てないの?)
アシャは焦った。庭の木に雷が落ちたって朝までぐっすりの効果のはずなのに。
「こんばんは。大胆なお嬢さん」
寝台に腰かけたキョウが朗らかに声をかけてきた。
「寝てなくて残念だったね。毒が効きにくい体質なんだよ僕たち」
「毒じゃないわ。ただの眠り香よ」
「ものは言いようだね。この煙って、量をもうすこし増やしたら、二度と目覚められない類の匂いだと思うけど」
たんなる眠り薬なのに、ひどい言いがかりだ。しかもテイは無防備なままで、まったく平気な顔をしている。遠慮しないでもっとたっぷり盛っておけばよかった。
「なにが目的?寝巻き姿の若い娘さんが、夜中にひとりで客の部屋に忍び込んでくるなんて、ただ事じゃないよね」
「とぼけないで。あたしにあんな地図を見せておいて、何しに来たはないでしょ」
こうなっては、とぼけても仕方がない。目的といったらただひとつ、恋しい地図との逢瀬だ。アシャは卓の上に灯を置き、開き直って手のひらをずいと突き出した。
「どこに隠したの? もう一度よく見せてちょうだい」
「だめだよ。あれは僕たちがお世話になっている方から託された、大事なものなんだ。そう簡単には渡せない」
「何も盗ろうってんじゃないわ。ちょっと見せてもらうだけよ」
「それでも、だめ」
「なによケチね。いいじゃないの、見たって減るものでもなし」
『こっちの女はみんなそういう言い草なのか?減らなければなにを求めてもいいと?』
アシャが意地になって食い下がっていると、黙って聞いていたテイがふいに口を開いた。
『仮におまえ、減るものじゃなし、脱いで見せろと言われたって、そうはしないだろう?だったら俺たちも、たとえ減らなくたって、しないことはしない』
テイの異国語は、さすがに全部は聞き取れなかった。アシャが目線で促すと、キョウはしぶしぶといった様子で通訳した。
「僕が言ったんじゃないからね……だから、きみがいう理屈は、減らなきゃいいなら脱げというのと同じだし、きみはそれができるのかと」
「なんですって!」
だから、自分ができないことはこっちにも言うな、という結論まで聞かず、アシャはかあっとなった。
テイの真意はもちろん、強引すぎるアシャに節度を求めることにあった。ただ残念なことに遠回しすぎた。間にキョウをはさんだ要求は、アシャにはまっすぐ挑発としか伝わらなかった。
「よくもそんな口をきいてくれたわね!地図のために、あたしがどこまでできるか、ためしてみる?」
腕を振りかざした時、はらりと寝巻きの肩ひもがほどけて、薄い布に包まれた豊満な胸があらわになりそうになった。
「やだっ」
口では威勢よく啖呵をきったものの、実際にそうなるとまさか全開にするわけにもいかない。アシャはあわてて胸元を手で押さえた。
「うわっ」
アシャも驚いたが、相手はもっと驚いたようだ。二人はぎょっとなり、音がしそうな勢いであとじさっていた。
「み、見た?」
「見てない!な、なにも」
「本当?」
地図はいくら見ても減らないが、乙女の素肌は見られたら減るのだ。アシャはじとっと二人をにらんだ。特にキョウは見るからに動揺して、怯えているようにさえ見える。それが余計にあやしい。
「駄目だ。それ以上、ちかよらないで」
キョウは寝台に立てかけてあった錫杖を手に取り、きっさきをアシャにむけて身構えてきた。アシャはさらにかあっとなった。
「なによ失礼ね!ひとをケダモノみたいに!」
「ご、ごめんね。いまさらだけど僕はセレンに身を捧げた巫子なんだ。神殿の戒律で、女性と、その、そういう接触は厳しく禁じられていて……」
「あらそう大変ねぇ。破ったらどうなるか試してみましょうか?」
相手がひるんだことで逆に勢いを得て、アシャが胸元を隠したまま、さらにずいと身を乗り出す。キョウをかばうように、テイが二人の間にわって入ってきた。
『止せよ』
テイはキョウを背にして立つと、自分の長巾をアシャの身体にばさりと投げかけてきた。
『大丈夫か、キョウ』
『大丈夫なものか。さっきの神経毒の比じゃない。心臓が止まるかと思った』
『冬眠あけの熊に襲われる方がまだマシだな』
『玉示にあった警告はこれか。陽帝のご加護の、なんという霊威か』
「あんたたち、なんか言った?」
「『いいや、なんにも』」
苛々と上から口調で問うアシャに、二人は首をふりながら声をそろえて答えた。
『ともかく落ち着け、お前の目当てはこれだろ』
ようやくテイが問題の地図を取り出した。アシャはテイの長巾を肩にかけて体をかくし、蝋燭の炎を近づけてその手元を照らした。暗闇のなか浮かび上がった地図を、穴があくほどじっとみて確認する。
「やっぱり間違いない、これあたしのよ。返して」
「返す?これはきみのものじゃない」
取り返そうと手を伸ばしたアシャよりさらに早く、地図は再びすっとテイの懐に片付けられてしまった。アシャは悔しさのあまり暴れだしそうだった。
「いいえ、違うのよ。どうしてあなたたちが持ってるのかは知らないけど、それはもともとあたしの地図なの」
「きみのものというなら、これをどうやって、誰から手に入れた?」
「それは最初からあたしのものよ。誰からももらってないわ」
「ごまかさないで。この『経』の街のどこかに地図工房があって、そこで専門の職人を働かせて作ってるんだろう。そこでのきみの役割は?なんの目的で?これまで何枚くらい作って誰に売った?」
アシャに迫られる恐怖が薄れたのか、キョウはだんだんと詰問口調になっていた。次々と質問されてアシャは戸惑った。
(工房?職人?目的?意味がわからない)
「それはあたしが描いたのよ。編み物とか刺繍と同じ。趣味の作品よ」
アシャは胸をはって言い切った。
そう、あたしが描いたのだ。たった一人で、誰の手も借りずに。
目的?刺繍とちがって、飾ることも使うことも売ることも許されていない。描くことそのものが、それだけが目的だ。
「あたしは自分が描きたいから描いたのよ」
堂々と宣言するアシャに、キョウが心底から面食らったように聞き返してきた。
「趣味?まさかそれだけ!?」
「そうよ。それだけよ。他に何があるっていうのよ」
『なんとなく、そんな気はしてた……』
傍らでなりゆきを眺めていたテイが額をおさえ、脱力した声で、ぼそりとつぶやいた。