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薔薇のセレンディラ  作者:
第一章 地図を描く少女
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第1話 大熊亭の少女

落ちていく。天空から、ぐんぐん、まっすぐに落ちていく。

アシャは強い力でひきよせられていた。

はるか先の地の底から、何かが強く呼んでいるのを感じる。


ぶ厚い雲を突き抜けひきちぎって、下界をつつむ大気に身を任せる。

眼下いっぱいに、緑なす広大な景色が広がった。

みるみる大地が近づいてくる。



「落ちるのが早すぎるわ!もっとよく見せて!」


 自分の叫び声に驚いて、アシャは目を覚ました。

 見慣れた埃だらけの天井に伸ばした手が、力なく自分の胸の上に落ちてくる。着古した薄い寝巻きに包まれた、まるい乳房がぽよんと震えた。


「あ、あ…惜しい。夢でもいい、なんかすっごい光景が見られそうだったのに!」


 アシャは悔し紛れにぐしゃぐしゃと淡い金髪をかき回した。徹夜つづきで充血した栗色の瞳を荒っぽく手でこすり、両ほほをパンと叩いて強引に目を覚ます。

 次いで寝台の上にはね起きると、勢いよく屋根裏部屋から飛び出した。寝巻きに重ねた上っ張りの背の上で、大繩のような太い三つ編みが、右に左にぴょこぴょこと跳ねた。


「や、ばい。やばい。今日は親爺いないのに!」


 天から雲を突きぬけ落っこちるという、おかしな夢のせいで寝坊してしまった。 すぐに厨房に降りて支度を始めないと、今朝は急ぎの出立客がいる。大事ななじみ客をすきっ腹で送り出すのは、宿屋『大熊亭』の看板娘の名折れだ。


 かまどに火を入れ、昨夜から仕込んであった餡入りの焼餅(パン)を並べる。野菜をたっぷり入れた(スープ)が大鍋いっぱいにぐつぐつと沸くころ、朝いちばんの宿泊客が食堂に顔を出した。

 アシャは鍋をかきまわしながら元気に声をかけた。


「おはよう、ヨタさん。いつも早いわね」

「やあ、いい匂いだね」

「すぐ朝食ができるわ。出かける前に宿代と、昨夜の賭けの代金もちゃんと払っていってね」

「アッシャ嬢ちゃんにはかなわないね」


 無精ひげだらけの客は、大卓の籠の中から干した杏子の実をひょいと取り上げて口に入れた。もぐもぐしながら気まずそうに頬をかく。


「なあ嬢ちゃん、実はいま懐が寂しくてね…また、いつものじゃ駄目かい?」

「……いいわ」


 宿屋に泊まっておいて、しかも賭け事にまで乗って負けておいて、実は金がない、なんて良く言えたものだ。けれどアシャの方も、実は相手がこう持ちだすのを待っていたのだから、どっちもどっちだろう。

 アシャは玉杓子を片手にふり返ると、にやりと笑った。


「ヨタさん、いつも最新の公路図を持ってきてくれるから好きよ」






 公路図は、商人や旅人が日常的に使う細長い地図だ。

 たいていは大陸南路1番『南都(ナント)』にはじまり20番『()』までの街名が、一本線の上に西から東まで順に並んでいる。


 その旅路は実際には、山あり谷あり川ありと曲がりくねっているのだけれども、公路図にはあくまで等間隔なまっすぐな線と点だけで描かれている。そして街と街の間をつなぐ線のまわりには、びっしりと地名や集落、泉の場所、市場、神殿などの説明文が書き込まれているのが常だった。

 本物の公路図は役所に行かねば買えずしかも高価なので、(ヨウ)の民はたいてい、互いの地図情報をこっそり写しあっている。

 公路図の複製は違法だが、取り締まってもキリがないのか上からも黙認されていた。当然、情報が古くなったり、写し損ねたりは日常茶飯事。世の中には怪しげな間違いだらけの公路図がごまんと溢れている。

 信頼性の高い真新しい公路図はアシャにとって、一晩の宿賃と引き換えにしても惜しくないだけの価値があった。






 前日の宿泊客がすべて旅立って行くのを待ちかね、アシャは宿の裏手から庭へと飛び出した。宿屋の壁にとりつき、胸元からとり出した一枚の粗末な紙を広げる。今朝方なじみ客のヨタに見せてもらった公路図の情報を写したものだ。


「ふ……ふふ……っ」


 ぐふっと声がもれた。顔がにやけ、含み笑いが抑えきれない。明るいうちからはしたないが、この、手に入れたばかりの地図を満喫する機会は、通いの使用人が勤めにくる前、つまり今しかなかった。

 いったい誰が知ろう。明るくって働き者と街で評判の、大熊亭の看板娘・アシャが、子どものころからひた隠しにしてきた秘密の趣味。それは『地図』だった。

 アシャにとって公路図……地図とは、単なる地理の情報源というだけではなかった。それは何よりも愛しい夢のかたまり、尊い宝物。心ゆくまで眺め、描いてあるものをすみずみまで味わい、自作の地図へと描きあらわし、ともかくありったけの方法で愛でるものだ。

 毎日毎晩、アシャは自分の時間をすべて地図に注ぎ込んだ。たとえ睡眠不足でふらふらになっても、人目をしのんで体力の続くかぎり地図を描きつづけた。それは何ものにも代えがたい最高に幸せな時間、命の糧とさえいえる。


「6番『(イツ)』の大橋の名前が変わってる。嵐で傷んだって聞いてたけど、とうとう架け替えたのね。……描き直さなくっちゃ……」


 アシャはほうと息をついて目を閉じ、陽の国の全体像を脳裏に思い描いた。





 国土の中央を流れる貞女川に沿うようにして、大陸南路が西から東に大きく伸びている。中央の森林地帯をはさんで平行に、北方には同じく大陸北路。二つの大道を南北に繋ぐのは、都に近い西から西方旅道、中央街道、東方御道の3本。

 アシャの頭の中で、この国の主要な大道は、三段梯子を横に倒したような形で成り立っている。そこへ手に入れた地理情報をどう組み込んでいくかが腕の見せ所だ。

 次は大きく全体を描いてみようかしら。それともここ、17番『(タツ)』の街を中心にしてみようかしら。

 一本線の公路図を広々とした平面図に置き換えるのは、頭の中で、あるべきものをあるべき場所にただしく配置していく喜びがあった。何度やっても楽しい、胸躍る作業だ。


「本番は、夜まで我慢しなきゃだけど。人が来る前に、少しだけ……ほんのちょっとだけならいいよね……?」


 アシャは前掛けから取り出した細い棒墨で、板張りの壁に伸ばした紙の上に黒々と線を描きこんだ。せっかくの写しだが惜しくはない。内容はすべて頭に叩き込んである。

 ハアハアしながら手を動かしていたアシャは、玄関の呼び鈴が鳴る音で我に返った。舌打ちしそうになるのをぐっと堪える。通いの料理人か掃除の手伝いのおばさんか……テイセラ神殿で朝の礼拝をしてから来るはずなのに。いつもより早いじゃないの。いまちょうど良いところだったのに!

 悶々としながら、描きかけの地図をたたんで胸元に戻す。なおも鳴り続ける鈴の音に、はーいただいま、と大きく返事をして玄関に向かおうとしたたアシャは、ふいに視線を感じて振り返った。

 アシャがいま立っているのは宿屋の裏庭。周囲は板塀と建物に囲まれていてどこにも抜け道はない。葉を茂らせた木立の向こうは隣家の屋根だ。誰も入ってくることはできない。はずなのに。


 アシャは気味悪そうに視線をめぐらせて、肩をすくめた。


「今、誰かいた?……まさかね」


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