2.皇太子の夫の名前は千里
顔を上げた千里はしっかりとアッザームの姿を見詰めていた。
十五歳になったばかりと聞いていたが、上背は千里と同じくらいあるだろう。日の国の人間は肉食をしないので属国の中では特に小柄だと言われていた。
豊かな緩やかに波打つ燃えるような真っ赤な髪を背中に流し、金色の目をぎらぎらとさせている様は、アッザームの名に恥じない迫力があった。
刺激しないようにと千里は絨毯の上に座ったままアッザームに穏やかな声で話しかける。
「私は橘千里と申します。皇太子殿下はまだ十五とお聞きしております。閨事を覚えるにはまだ早いやもしれませぬ」
「母上は……皇帝陛下は、早く私に子を産ませたいのだ! 子を産めば自分が皇帝位から退き、隠居できると思うておる!」
「皇太子殿下が私と共に床入りしても、何もせぬと誓います。ですので、今日は休まれませんか?」
これが通れば千里も問題なくアッザームの夫として扱われるようになるし、アッザームも次の男を宛がわれるようなことはなくなるはずだ。
悪い取引ではないと思ったのだが、アッザームの表情は尚も硬い。
「男など信頼できぬ! そう言って、私を床に入れて無理矢理に体を繋げようとするのであろう!」
激しい気性なのだろう。千里を睨み付けるアッザームに千里は着物の袖を捲って自分の腕を見せた。
白くて細い千里の腕は、アッザームのものよりも腕力が劣っているのは間違いなかった。
この世界では男女の体格差がない。月の帝国など肉食を好む地域の人種は体ががっしりとして大きく、日の国など肉食を好まない地域の人種は体が細く筋肉もついていなかった。
特に家の中で大事に育てられる男性は筋肉質ではなく、見目麗しいことの方が重視されていた。
「ご覧ください、私と皇太子殿下と、どちらが力があるかは分かり切ったこと」
「そう言って油断させて、私が寝入った隙にことを済ませてしまおうと思っておるのだな! 私には分かっておるのだ!」
どこまでも疑り深いのは、皇太子アッザームが賢いからかもしれなかった。言葉に惑わされぬのは、どんな場面も想定して行動ができることに相違ない。
「それでは、私を切りますか?」
噂で皇太子アッザームは閨事を教える男性を切り殺したと千里は聞いていた。
日の国から月の帝国まで嫁いできたのだ。このまま引くわけにはいかない。
問いかけるとアッザームが眉を吊り上げる。
「殺されたいのか?」
「殺されたくはありません。誰もがそうでしょう?」
皇太子殿下に殺された男性も。
口に出さなかった一言もアッザームには悟られただろう。
最後の手段として、千里は持って来ていた本の中から物語が書かれたものを取り出してアッザームの足元に座った。
「分かりました。私のことは切っても構いません。最後にお願いがございます」
「最後の願いか。何か申してみよ」
「私は王太子殿下と結婚して子ができたらたくさんその子に本を読み聞かせてやろうと思っていました。私を切るのならば、その前に、せめて本を一冊読み聞かせさせていただけませんでしょうか?」
日の国でも千里が学問をするのを周囲のものたちは笑った。物語を読むのを、子どものようだと嘲った。それでも千里は物語を読むのを辞めなかったし、学問をするのをやめなかった。
学問など男には必要ないと言われても、千里にとって学問は世界を広げる手段だったのだ。城の中の狭い部屋に閉じ込められて、庭しか外の世界を知らぬ千里にとっては学問が世界への扉だった。
「物語……? 私は物語など読んだことがない。それは子どもの読むものであろう?」
「物語はよいものですよ。心を自由にさせます」
「それを読めばそなたが満足するというのであれば、読んでみるがいい」
物語を読み聞かせたいという千里の言葉に、アッザームは拍子抜けしているようだ。最後の願いなのでどんなおねだりをされるかと構えていたのだろう。
紐で閉じてある本を一冊手に取って、千里は声に出して読み始めた。
「昔々、あるところに翁と媼がおりました。翁が竹を取りに竹林に行くと、一際輝く竹が生えておりました」
読み進めて行くと、アッザームが興味深そうに絨毯の上に座り込んで本を覗き込んでいる。本は全て日の国の言葉で書かれているので、アッザームには読めないようになっていた。
「竹から生まれた男子は輝くように美しく、たくさんの求婚者が現れました」
「男子も気の毒よの。美しいだけでたくさんの女に狙われて」
「男子はそこで女を受け入れるわけではありません。女たちに無理難題を仕掛けるのです」
「なに!? それはどのような無理難題なのだ?」
初めて聞く異国の物語にアッザームは夢中になっている。長い物語を読んでいると、アッザームが欠伸をしてうとうとと眠りそうになっていた。千里は本を閉じて絨毯の上に手をついた。
「もう眠そうですね。どうか、首をお切りください。日の国の橘家には何のお咎めもないようにお願いいたします」
するりと髪に巻いていた布を解いて首を晒した千里を、アッザームの金の目が驚いたように見つめていた。
「そなた、髪の色が茶色なのだな」
「私は色素が薄いのですよ」
「日の国のものは黒髪かと思っておった。よく見たら目も茶色ではないか」
「色素の薄いものが美しいと思われたのでしょうね。それで、皇帝陛下は皇太子殿下に私をと命じたようです」
色素の薄さに驚いているアッザームの肌は褐色であるし、髪も燃えるような赤で、目は金色である。
「首は取らぬ」
「え?」
「そなたは面白い。物語の続きを明日、読み聞かせてもらわねばならぬ。求婚者たちがどうなったのか、私はまだ聞いておらん」
「それでは、今日は?」
「そなたに私をどうこうできる腕力はないであろう。寝る」
寝台に横になったアッザームの隣りに千里も横になる。緊張していたのもあるし、長旅の疲れもあったので、千里はすぐに眠ってしまった。
自分の隣りで豪胆にもすやすやと健やかな寝息を立てて眠っている千里を見下ろしながら、アッザームは呟いた。
「何故、この者は、『打ち首に』などと言ったのだ? 無理矢理にされたら、私も怒り狂うかもしれないが……さすがに殺しはしないのに」
日の国との関係性もあるし、遠い属国から嫁いできた夫を褥で殺したとあればアッザームの名にも傷が付く。
どうしてこのようなことになっているか分からないまま、アッザームも布団を被って眠ってしまった。
翌朝、アッザームと共に起こされた千里は、アッザームが皇帝になるために勉強に行っている間に、皇帝陛下に呼ばれていた。
居住まいを正して、髪も布で隠した千里に、皇帝陛下は非常に満足している様子で告げた。
「我が娘との婚姻が滞りなく済んで安心した。そなたならば孫の顔を見せてくれることだろう」
「恐れながら、皇帝陛下」
「なんだ、申してみよ」
「皇太子殿下の男嫌いは直ったわけではありません。しばらくは私だけにしておいた方がよいのでは」
「そうだな。私も若い頃に無理をさせられて、子どもを死なせてしまって後悔しておる。娘にはそんな思いはさせたくない。千里、頼むぞ」
「心得ました」
これで皇帝陛下からも許しを得て千里はアッザームのたった一人の夫となった。
アッザームが皇帝になるころには後宮を持って側室も持たなければいけないだろうが、それまでは千里がアッザームのことを守れる。
男性嫌いのアッザームがどうしてそうなったのか。本当に閨事を教える男性を殺したのか、千里はもう一度調べ直さねばならないと思っていた。