10.アッザームの嫉妬
写本の技術者と製本の技術者には皇太子の宮に通ってもらって、千里は二冊の本を作り上げた。一冊は美男と野獣の物語で、一冊は日の国の見目麗しい皇女の物語だった。
美男と野獣の物語は最後まで野獣は野獣のままで、美男と愛を貫き暮らしていく結末にした。
日の国の見目麗しい皇女の話は、病で正室を亡くした皇女が正室との間の子どもを匿ってもらって産んで、正室の菩提を弔いながら生きていく物語にした。
出来上がった本はハンマームに持って行って、入口のところで蜜の国と太陽の国の絵が描ける妾に渡して、絵を描いて返してもらった。
妾達への報酬としては、絵の端に自分の名前を書くことを許したのだが、それで納得してくれたようだった。
出来上がった本を持って皇太子の宮の寝室で待っていると、アッザームは不機嫌そうな顔で部屋に入って来た。この国の女性の色である白に刺繍を施した寝間着を着ていて、千里の前に来るとアッザームはクッションの上にすとんっと座った。
「千里も座れ。話がある」
「私もアッザームに話がありました」
千里もアッザームの前に正座すると、アッザームはちらちらと千里の方を見ている。頬が若干膨らんでむくれているような気がする。
「そなた、女性をこの宮に呼んで何をしておる! そなたの妻は私なのだぞ!」
「そうなのです! その件で話がありました」
憤っているアッザームの前に二冊の本を差し出すと、アッザームは拍子抜けしたような顔になっている。
「これは……私が書き直せと言った物語か?」
「そうでございます。やっと本にできました」
「では、連れ込んでいた女性とは?」
「写本と製本の技術者に頼んでおりました。挿絵は後宮の妾にお願いしました。美しくできておりますから、ぜひ読んでください」
受け取った本を見ているうちに、不機嫌そうだったアッザームの金色の目が輝いて、喜びに彩られる。
ずっとアッザームが読みたがっていた物語が出来上がったのだ。
「この文字は月の帝国の文字……本当に私のために作ってくれたのだな」
「そうですよ。挿絵も見事なものでしょう?」
美男と野獣の物語は動物を描くのが得意な蜜の国の妾に頼んだ。野獣の姿が恐ろしくよく描けている。日の国の皇女の話は美男美女を描くのが得意な太陽の国の妾に頼んだ。皇女も正室も、皇女を匿うことにした男性も美しく描かれている。
「素晴らしいな。こんな素晴らしい贈り物は受け取ったことがない。嬉しいぞ、千里」
「喜んでいただけたら幸いです」
「そうか、この本のためだったのか……なんだ。私と閨事ができないから、他のものとしていたわけではないのだな」
聞こえないように小さく呟いて胸を撫で下ろすアッザームだが、しっかりとそれを千里は聞いていた。
アッザームは千里が他の女性を皇太子の宮に呼んで浮気をしていたと勘違いしていたようだ。それで嫉妬されていたのならば、それだけアッザームが千里のことを思っている証拠になる。
素直なアッザームが可愛くて千里は自然と笑みが零れた。千里が微笑んでいると、アッザームもつられたのかにこにことしている。
「母上から聞いた。千里は私の体のことを考えて、十八まで子どもを生まなくていいようにしてくれようと進言していたのだな」
「出過ぎた真似を致したかもしれませんが、医学的な検知から見ても、体が成熟していない時期の妊娠は危険ですので」
「母上には千里のようなものがいてくれなかった。母上は孤独だったのだな。だから私への愛情の伝え方も分からなかった」
千里と触れ合い、皇帝陛下からも愛情を受け取るようになって、アッザームは前よりも大人びた気がしていた。
千里が嫁いできてからそろそろ一年に近付く。アッザームも十六歳の誕生日を目前にしていた。
「アッザームは変わられました」
「そうであろうか。私が変わったのではなくて、母上が変わって、千里がそばにいてくれるようになったというだけかもしれぬ」
「皇帝陛下も変わられました」
「千里……母上から聞いた。そなたが母上に私への愛情を言葉にして伝えるように言ってくれたのだったな」
そのことも皇帝陛下はアッザームに伝えていたようだった。アッザームはそれを聞いて何を思ったのだろう。
「感謝している、千里。そなたがいなければ、私はずっと母上に捨てられたと被害妄想に陥っていた」
アッザームの逞しい手が千里の手を握る。この一年でアッザームは千里よりも背が高くなって、手も大きくなっていたが、アッザームから千里に触れてきたのは初めてだった。
暖かな手を握り締め、千里は緩々と首を振る。
「私だけの功績ではありません。皇帝陛下が自ら変わろうとして、それをアッザームが素直に受け入れたからです。これは皇帝陛下とアッザームの絆があってのことです」
全て千里のおかげだというアッザームに恐縮する千里だが、アッザームが皇帝陛下と和解できたことは本当によかったと思っていた。
その月の昼間に、アッザームが馬を連れて来て、千里は庭で馬に乗せてもらった。
鹿毛の馬は大人しく、千里がおっかなびっくり乗っても、静かに立っていた。アッザームが馬を引いて歩いてくれると、鹿毛の馬も歩き出す。
庭を一回りして馬から降りると、千里はびっしょりと汗をかいていた。
涼しい格好で過ごしているが、月の帝国の帝都は一年中暑さが続く。日差しも強く、髪を隠す布も日差しを遮るためにあったのではないかと思うくらいだった。
「千里、どうだ、いい馬だろう?」
「私でも乗れましたね」
「この馬をこの宮の厩舎に置いておく。千里の馬ということにせよ。千里、この宮に何かあれば、この馬に乗って逃げるのだ」
いつになく真剣にアッザームが言うのに、千里は眉をひそめた。
逃げなければならないような事態が起きるのだろうか。
「何か心配なことがあるのですか?」
「叔母上が……私の従弟を側室に迎えるようにとうるさいのだ。本来ならばその従弟が私の正室となっていたはずだと言われておる」
月の帝国の皇帝は大抵が月の帝国の皇族を正室として迎える。初めの夫となるべき人物は、皇太子の後継者を産ませることが多いので、正室となることが多い。
千里もアッザームとの間に子どもができればアッザームの正室として迎えられるだろう。
それがアッザームの叔母、皇帝陛下の妹にとっては面白くないのだろう。
「叔母上は祖母が亡くなってから、祖父が再婚した先で作った子ども。母上と父を同じくしているが、皇帝の血は引いていない。それだけに、自分の息子に皇帝の血を引く子どもを作らせたいのだろう」
「従弟と申しますと、アッザームよりも年下になりますよね?」
「十一歳だ」
「十一!?」
年齢を聞いて千里も驚愕せずにはいられなかった。
十五歳のアッザームに子どもを生ませようという皇帝陛下の考えもどうかと思っていたが、アッザームよりさらに幼い十一歳の従弟を正室として迎えて、子作りをさせようというのも信じられない。
「この国はどうなっているのですか。子どもが子どもを作っても、親としてきちんと教育できるとは思えない。何より、低年齢での妊娠、出産は危険だとあれほど言っているのに」
「日の国ではこうではないのか?」
「日の国では男女共に十六歳を超えるまでは結婚を許されておりません。妊娠、出産は十八歳から二十歳を超えるまでは推奨されておりません」
それだけ妊娠、出産時に女性にかかる負担は大きいと千里は医術で習ってきた。男性もまた、一定の年齢以上にならなければ子どもを作ることができないと千里には分かっている。
「十一歳で結婚など言語道断です」
「この国を変えることができるだろうか?」
「アッザームならできます。この国で低年齢での結婚が許されないように、法令を整えて行くとよいかと思われます」
低年齢での結婚が危険だということは教育が行き届いていないと分からない。
教育面でもこれはこの国の課題であったし、法令面でも築いていかねばならぬ大事な決まり事であった。
「国民に医術を習わせてください。男性が子どもを作ることが可能になる年代もしっかりと教えてください」
無知こそがこの国を狂わせている。
周囲から何を言われても学問を貫き通してこの国にやって来た千里からしてみれば、月の帝国の教育はあまりにも稚拙だった。




