1.皇太子の名前はアッザーム
――いづれの女帝陛下の御代で御座いましょうか、後の賢帝と呼ばれる文武両道、見目麗しく、賢き皇太子がお生まれになりました。
男性の出生率が低く、男性は生まれても体が弱くて、病気にも罹りやすく、死にやすい世のこと。
月の帝国と呼ばれる巨大な帝国が大陸のほとんどを治めていて、その属国に、北に蜜の国、西に太陽の国、東に日の国と呼ばれる島国があって、他にもたくさんある属国の中でもその三つが特に月の帝国に重用されていた。
皇帝や貴族の当主も当然女性で、男性は守られて家の中で良夫賢父として家事や、家庭のことをすればいい。
貧しい家の女性は男性から種をもらうために金を出して体を買うようなこともまかり通っていた時代。
月の帝国の皇帝陛下も当然女性だったが、女性特有の苦しみに悩んでいた。
初めに皇帝陛下が生んだ子は男の子だったが、育つことができずに三歳の年で亡くなった。次に生んだ女の子は流産で死んで生まれて来た。やっと健康な女の子を生むことができたときには、皇帝陛下の体は女性として役に立たないものになっていた。
たった一人健康に生まれたアッザームと名付けられた皇太子を、皇帝陛下は大事に大事に育てた。
甘やかされて育てられているはずなのに、アッザームは幼い頃から弁えた態度を取る子どもで、将来はどんな賢帝になるかと期待されていた。
アッザームのことで問題が持ち上がったのは、最初の夫をもらうために閨事を教え、後に側室になるはずの男性がアッザームと床を共にしたときだった。
このままアッザームに子どもが生まれれば、皇帝陛下はアッザームに皇帝の座を譲って、自分は死んでしまった息子と生きて生まれてこなかった娘の供養をして生きるつもりだったのだ。
それが、できなくなった。
アッザームは閨事を教えて、後に側室になるはずの男性を退けたのだ。
その男性は切り捨てられたのだとか、拷問にかけられたのだとか、酷い噂が庶民や属国の間に広まった。
皇帝陛下はそれを重く受け止めて、アッザームの最初の夫は月の帝国内で選ぶのではなく、属国から選ぶことにした。
属国から来た夫ならば、関係性もあるので賢いアッザームが傷付けるとは思えないし、穏やかで優しいと噂の日の国の当主、橘家の男性ならばアッザームが受け入れるかもしれないと思ったのだ。
橘家は皇帝陛下の後宮にも男性を送り込んでいる。
褐色の肌に厳つい体付きの月の帝国の女性とは違って、日の国の橘家の男性は細身で顔立ちも女性と見まがうほどに整っていて、知的で穏やかな性格をしていることで知られていた。
皇帝陛下は橘家の男性を皇太子アッザームの夫として差し出すように命じた。
日の国、橘家では月の帝国からの要求を受けて、大騒ぎになっていた。
皇太子のアッザームは閨事を教え、後には後宮で側室となるはずだった男性を拒み、殺すほどの男性嫌いなのだ。
例え、日の国の橘家の男性がたおやかで美しいとはいえ、男性としてすることには変わりはない。拒絶された挙句に殺されてしまっては、死にやすい男性を大事に育ててきた意味がなくなる。
「兄上、どうしてもいかねばならないのですか?」
橘家の長男、千里は妹の海里と向かい合っていた。十八歳になる千里の二つ年下の海里は十六歳。そろそろ他家から夫をもらってもいい年齢だった。
「皇太子殿下はまだ十四歳であらせられる。床入りは早すぎたのかもしれない」
「兄上が代わりに床入りをなさるのでしょう?」
「王太子殿下が納得なさる年まで、床に入っても何もせぬと誓えば、殺されることはないかもしれない」
「そんなことは分かりませぬ。月の帝国の命に逆らえないのが悔しい」
泣き伏す海里を千里が慰めていると、当主の母が部屋に入って来た。
畳の上に座布団を敷いて座り、母が千里の手を握る。
「そなたにはつらい思いをさせてしまうかもしれない」
「いいのです。私は十分に生きました。この年まで自由にさせてくださっていたことを感謝しています」
十八になっても千里がどこにも嫁いでいないのは、母の思惑もあった。いつか月の帝国の皇帝陛下から命が下るのではないかと橘家当主の母は思っていたのだ。
実際に命が下ったときに、彼女が喜んだのかどうかは分からない。
皇太子が男性嫌いだなどということは、それまで全く分かっていなかったのだ。
「こんなことなら、兄上はどこかの藩主にお婿に行ってしまえばよかったのです」
「海里、もう言わないで欲しい。私は月の帝国でしっかりと勤めて来る」
「兄上……死なないでください」
涙ながらに願う妹と、表情が崩れないように口を真一文字に結んでいる母に、千里は畳に手をついて挨拶をする。
「橘千里、皇帝陛下の命を受け、月の帝国に行ってまいります」
それが千里と母と妹との別れだった。
大量の婿入り道具が用意されて、それと共に船に乗って千里は月の帝国に向かった。
月の帝国までの海の旅は厳しく、何度も船酔いに悩まされたが、海賊に襲われることもなく、無事に千里は月の帝国の南端に着くことができた。
そこから陸路に変えて、水の少ない荒野をラクダに乗って十数日、ようやく辿り着いた帝都に、千里は目を丸くしていた。
煌びやかなタイルで装飾された建物がたくさんあって、屋根も独特の丸い形をしている。金で装飾された城に通される前に、千里は髪に布を被せられた。
「この国では男性は家族や伴侶といる場合以外は、髪を隠さねばなりません」
頭に布を巻くのは慣れなかったが、皇帝陛下に謁見するのに失礼があってはならない。布を整えて千里は皇帝陛下の御前に連れて行かれた。
絨毯の上で正座をして深く頭を下げていると、皇帝陛下が謁見の間にやって来て椅子に座ったのが分かった。足元しか見えないが、靴と白いズボンの間に見える褐色の肌は、艶がなく筋張っている。
「楽にするがいい。私がこの帝国の皇帝だ」
「日の国の橘家より参りました、千里でございます」
「よく来てくれた。日の国のものは肌がとても白いのだな。これならば我が娘も気に入るだろう」
誕生日を迎えて十五歳になっているとはいえ、皇太子のアッザームはまだ少女である。結婚には早すぎるのではないかという思いが千里になかったわけではないが、それはアッザームと話し合えば解決するかもしれない。
「私にとってはただ一人の大事な娘だ。甘やかして育てすぎたと言われるかもしれぬが、あの子は賢い子。必ず私の思いを分かってくれる。どうか頼んだぞ、千里」
「心得ました」
深く頭を下げた千里は結局皇帝陛下の顔を見ることはなかった。
婿入り道具を与えられた部屋に全部詰め込むと、部屋は少し狭くなった気がした。
婿入り道具の中に危険なものが入っていないかは皇帝陛下と千里が会っている間に調べられていた。
その日は千里は来たばかりなので、ゆっくりと休ませてもらった。
翌日が正式な床入りの日となる。
この床入りが無事に済めば、千里は皇太子アッザームの最初の夫となることができる。
ハンマームと呼ばれる蒸し風呂に入って汗を出し、垢すりと濃くはないのだが髭を剃毛をしてもらって、全裸で検分役に危険なものを持っていないかを確認されて、皇太子アッザームと床を共にする。
寝室は皇太子の宮の床入り専用の寝室だった。
絨毯の上に正座をして持って来ていた書物を読みながら待っていると、夜半にアッザームがやって来た。
急いで本を片付け、平伏すると、開口一番アッザームは告げた。
「自分の部屋に帰れ!」
「皇太子殿下!?」
「私は誰とも床を共にせぬ! さっさと消えろ!」
硬い表情のアッザームに、千里は前途多難な雰囲気を感じ取っていた。