グレーガール
『 戦いで一番大切な事はなにか 』
俺は横からスッと差し出された紙切れをまじまじと見つめ、そして隣の鎌田をチラッと見た。中肉中背で髪はやや茶色がかっている。今時の若者を地で行く大学生だ。プリントと参考書を交互に見つめ、ペンを走らせていた。
もう一度紙切れに目をやる。鎌田の書いた 『 戦い 』 が果たして物理的なものなのか、それとも比喩に近いものなのか、俺にはわからなかった。俺みたいな学生に待ち受けている戦いというなら、それは今行われている試験の類のこととも見てとれる。下らないと思いながらも俺は 『 カンニングしあえる人間 』 と書き、鎌田に返した。
すぐに横から紙切れがやってくる。 『 カンニングを見て見ぬ振りする教授だろ 』 確かに、と納得しながら俺は続きを見る。 『 そういうことじゃなくてよ、昨日のことを思い出せ 』
あれか、と俺はその時を思い浮かべる。昨日のこと、という文言だけですぐにわかった。夜に近い夕方、鎌田と一緒に繁華街を歩いていた時のことだ。ただそれがなんの関係があるのか、俺には見当がつかない。右足の踝がズキっと痛んだ。ヘルニアと鎮静剤が戦っているのがわかる。
*****
すれ違う寸前だった。腕を組んでいる男女が視界に入ってきたのはわかった。こんな繁華街では男女のカップルなんて珍しい事ではない。だから普通だったら何も思うことなく、その男女は俺の視界から消えるはずだった。違った。自分では思ってなくても体は覚えているのか、目が自然にその男女のカップルの女のほうに動き、目が合った。俺の 「 あれ 」 と美咲の 「 なんで 」 という声が重なる。君の友達かな、と見知らぬ男の声が続く。
あらら、と隣の鎌田が混乱気味の声を出した。俺と鎌田、美咲と見知らぬ男。この組み合わせが一体何を意味するのか把握するのに時間が掛かってしまった。美咲が男と組んでいた腕をゆっくりとほどいた。
友達かい、と男が美咲に尋ねる。美咲は小声で「 まぁ 」 と言うだけだった。彼女の格好が俺と過ごすときよりも華やかに見えるのは気のせいではないだろう。ピンクのワンピースから覗く脚に目が行ったが、すぐに視線を戻した。
男は俺とほぼ同年代か年上に見えたが、いかにも金回りが良さそうな雰囲気を醸し出していた。黒のジャケットとジーンズを履いていて、その長身からは自信がみなぎっているのがわかる。だが、手に持っている携帯電話にキラキラとしたシールやデコレーションが施されていて、それがこの男の何かしらの欠点を表しているようにも見えた。
「 あんたどうして 」
美咲が俺を凝視する。俺は 「 お前こそ 」 と返すのが精一杯だった。付き合い始めの頃はお互いにニックネームで呼んでいたものの、今となっては 「 あんた 」 「 お前 」 という可愛げのない代名詞で呼び合う仲にまで冷え込んでいる。おまけに今のこの状況だ。これが果たして男女交際と言えるのか、判断が難しい。
僕はこういうものです、と男が名刺を手渡してくる。あまりに自然に渡してくるので俺と鎌田は不意を突かれたように一瞬固まった。この男は今の状況を掴んでいるのか、と俺は汗をかきながら、ぎこちなく名刺を受け取り顔を近づける。笠井豊という名前が上品に印字されていた。医療関係の機器を開発しています、と男は勤め先を口にする。うっすらと聞き覚えのある企業だった。
「 行きましょ 」 と美咲が男の腕に手を回した。
俺はちょっとちょっと、と引き止めるがその後がなかなか出てこない。もういいでしょ、こういうことよ、とでも言うような彼女の圧力を感じたが、それでもやっと 「 待てよ。その、なんだ、何か言うことないのかよ 」 と俺は早口で言う。動揺が丸見えだ。
彼女がうーん、と大袈裟に考え込む仕草をした。彼女が考え事をする時はいつもうーん、と唸る。付き合っていた頃は愛おしさが勝っていたが、今は苛々の原因にしか見ることができない。
「 そうね 」 と彼女がこちらに向かって歩き出す。そして 「 じゃあね 」 とすれ違いざまに言った。また明日、というニュアンスは微塵も含まれていなかった。
*****
「 そしてお前と美咲ちゃんは別れ、幸せに暮らしましたとさ 」 昔話を語るかのような口調で鎌田が言う。 「 めでたし、めでたし 」
「 馬鹿にするだけならさっさと帰れ 」
「 俺は馬鹿にされる方だからな、たまには馬鹿にする側に回ってみたいんだよ 」 鎌田がスナックをボリボリと口に入れる。
試験も終わり俺のアパートで駄弁ることになったが、部屋に入るなり鎌田が美咲の私物を漁るのには参った。まだ所々に彼女の品が散乱している。同棲生活の名残りだ。
「 そういえば戦いの話はどうなった 」 どうでもいいけどな、と内心で思いながらも言ってみる。
「 引き際だ 」 鎌田がニヤリと笑った。
「 引き際 」
「 戦いで一番大切なことはなにか。大抵の奴は体力とか知力、馬鹿な奴は勇気なんて言いやがる 」 一拍置いて鎌田がまくしたてる。 「 自分に体力や知力がどんなにあったって、それを上回る奴は絶対にいる。勇気なんてのは能無しのロマンチストだけが口にする台詞だ。俺が言いたいのは、自分の力量を考えて、手に負えなかったら引けってことだ。自分の力量を考えないでお構いなしに突っ込んでいく奴ほど、敵から見ればカモってわけよ。自分の実力を把握して手に負える戦いをする。それが本当に賢い奴の共通点だ 」
「 それと昨日の事と何がつながる 」
「 男女生活及び夫婦生活は戦いだ 」 鎌田がさらにスナックを口にふくんだ。 「 多分な 」
「 お前が能無しのロマンチストに見えるのは気のせいか? 」
「 当たらずとも遠からずだな。俺はどちらかと言えば能無しの部類かもしれない。だがロマンチストと言われるのは心外だな。俺は現実主義で、利己主義だ。とにかく俺が言いたいのは、お前は引き際を間違えたんじゃないか、ってことだ 」
「 またそれか 」
「 お前らはまだ続けられるんじゃないか、ってことだ。完全に仲直りしろとかって話じゃない。お互いに半信半疑になりつつ付き合ってみるのもいいもんだ。様子見と言ってもいい 」
「 あっちがその気になるとは思えない 」
「 そうか 」 鎌田が何かを企んでいるような笑みを浮かべる。そして部屋の端に置いてあった化粧水を手に取った。「 んじゃこれを俺にくれ 」
「 なんでお前に 」
「 もう必要ないだろうが。美咲ちゃんの化粧水だろ、これ。彼女はもうお前に興味はない。お前に会いたくない。お前の部屋に私物を取りに行きたくない。んじゃ俺がバイト先の女の子にプレゼントしたって問題はない 」
「 そこまでは言ってない。取りに来るかもしれないだろ 」 鎌田の手から化粧水を抜き取った。
「 その時、果たしてお前は何をするかな? 彼女に頭下げる様子が簡単に思い浮かぶんだが 」
俺は悔しい事に何も言い返せなかった。頭を下げるとまではいかなくても、よりを戻さないかと提案することはありえるような気がした。被害者は俺にもかかわらず、だ。
腕を組んで考えていると鎌田が俺の肩をバン、と叩いた。 「 大丈夫だっての。案外あっちだってお前との生活に慣れちまって、フラッとなって急造の男とくっついただけだと思うぜ。今は休戦状態だと思えばいい。大抵そういう時は武器火薬を貯蓄しておくもんだ。そこで 」
「 そこで? 」
「 プレゼントなんてのを用意できたらもう完璧だな。何かないか 」
プレゼント、プレゼント、と俺は頭の中で復唱し今までの同棲生活を思い出す。ああでもない、こうでもない、と悩みに悩んだが遂に一つの場面が思い浮かんだ。
*****
これか、と鎌田がショーウィンドウを覗き込む。視線の先にはボーリングのピンの形をした、人の顔ほどの大きさのトロフィーが飾ってあった。
提案してきたのは美咲だった。 「 なんかぶっ飛ばしたいっていうかさ 」 と言う彼女は腕を弧状に振り、ボールを投げる仕草をした。その時は彼女の可愛らしさに見とれていた記憶がある。
いざボーリング場に行きリンクに入ろうとした時、美咲が 「 ねぇ 」 と俺の肩を叩いた。美咲が指差した方向を見ると縦長のショーウィンドウがあり、そこに景品が飾ってあった。シューズ、ピン、特注品のボウリングの球などが赤い敷物の上に鎮座していて、目に見えない光がこれらを照らしているようでもある。美咲が 「 これ可愛い 」 とその中の一つを指差し、 「 取れるまで帰さないからね 」 と満面の笑みで無茶な注文をされたのを思い出す。今思えば、あの頃が一番波に乗っていた時期だったのかもしれない。
「 お前いいトコに目を付けたな。こういうのが一番喜ばれるんだよ 」 ショーウィンドウをトントンと突付きながら鎌田が言う。 「 でもこういうのが一番面倒なんだよ 」
「 面倒というか厳しいよな 」 ワンゲームのスコアが二百点以上でもらえるらしい。俺達にとって絶望的な数字に見えた。
少しだけやるか、と俺達は受付に足を進める。
「 そういえば研究室の連中には言ってないよな 」 俺はちょっと気になっていた事を聞いてみる。俺と鎌田は同じ研究室に所属している。鎌田が飲み会の席で俺に彼女がいることをばらすと、他の連中は 「 いいなぁ 」 であるとか 「 なんでお前みたいな奴が 」 とかいろいろな反応を示したものだ。
いち、に、さん、とリズム良く鎌田がボールを投げる。球は無駄な回転がかかり、ガーターへと吸い込まれていった。 「 何を言ってないって? 」
「 あいつとのギクシャク感じ 」
「 もう気づいてるだろ 」 鎌田が戻ってきたボールを掴んでアプローチに進む。
「 そういうもんなのか 」
「 少なくともお前の倦怠感みたいなのは気づいてるだろうな。お前と美咲ちゃんは、研究室の連中からすれば憧れと嫉妬の対象なんだぜ。あいつとあいつがくっつくか否か、とか面白半分、妬み半分で賭けをしててもおかしくない 」 鎌田がファールライン手前でしゃがみこみ、小さい子供がやるように両手でボールを転がした。ゆっくりと、ゆっくりと進む。
「 許せないな 」
「 そういう奴らなんだよ 」
「 いや、お前の投げ方が 」
ボールは両側のピンを残し、暗闇に消えていった。
その後も意気は上がらず、俺は足がチクリと痛むのを感じながらボーリング場を後にした。
*****
一週間近くも通っているとそれなりに仲が良くなるようで、受付の男性従業員が 「 ついにやりましたね 」 とトロフィーを持って現れた時には涙腺が緩みそうになった。
重いので気つけてください、と従業員から渡されたトロフィーはその可愛げとは裏腹にかなりの重さがあった。これがスコア二百点分の重みか、とトロフィーを上下させたが右脚の裏がズキッと痛むのを感じ、俺は慌てて鎌田に渡した。やったな、と自分の事のように喜ぶ鎌田がいつも以上に子供に見える。
せっかくですから奢りますよ、と従業員がドリンクバーに向かっていく。俺と鎌田は近くのベンチに腰を下ろした。太ももがチクリと痛む。
「 これで美咲ちゃんもびっくりするぜ 」
「 その前に戻ってくるかどうかが問題だけどな 」
この一週間、美咲が俺の前に姿を現すことはなかった。俺のほうは美咲に電話をする気も起きず、ただひたすらボーリング場に通った。結局このまま会えなければ今までの努力は全くの無駄ということになるが、それなりに楽しめたのも事実だ。ましてやトロフィーを受け取った時のあの達成感はそうそう味わえるものではない。
「 美咲ちゃん、顔を出すタイミングが分からずにいたりしてな 」
「 それは今の俺が一番当てはまると思う 」
美咲にトロフィーを渡す青写真を描き、少しにやけていたかもしれない。ちょっとトイレ、とベンチから何気なく腰を上げようとした。だが、俺は腰を上げることはできず青写真も脳内から消えた。代わりに右下半身に激痛が走る。前にも経験したことのある痛みだ。声を出すこともかなわず、俺は四つん這いの姿勢になった。歯を食いしばり、なんとか立ち上がろうと試みたが、体がそれを拒否している。今までの経験からして、もうこうなると無理だった。やっちゃったな、と俺は観念して楽な姿勢を探す。鎌田と従業員がただならぬ雰囲気で駆け寄ってくるのがわかる。
*****
コンコン、と病室のドアが叩かれ俺はどうぞ、と入室を促した。薄手の紫のジャケットを羽織った美咲が現れる。小さなショルダーバッグを肩にかけていた。不安と呆れが一緒くたになった表情に見える。
「 持病の管理くらい自分でなんとかしてほしいんだけど 」 美咲がベッドの脇から俺を見下ろした。
俺は体の向きをゴソゴソと変える。 「 なんで来たんだ 」
「 なんとなく 」
「 そりゃ、どうも 」
水持ってきたわよ、と美咲がバッグからペットボトルを取り出す。そこの物入れに、と俺は端にある引き戸式の収納庫を指差し美咲はボトルを入れた。 「 鎌田君から聞いたわ。一週間近くボーリングやってたんだってね 」
「 おかげでかなり腕が上がった。ヘルニア発症のおまけ付きだけど 」
「 それだけ強がりが言えるなら大丈夫ね 」
「 笠井さんとはどうなってるんだ? 」
俺はありったけの勇気を振り絞って言ってみた。なるべく軽い感じで言ったつもりだったが、声が若干震えていた。
「 どうなってればいいの? 」 などと返されないだろうか、と俺は戦々恐々としていたが、それはなかった。しかし彼女が色っぽい口調で 「 あの人はね、私が欲しいものをなんでも手に入れてくれる 」 と言うのには驚いた。なんでも、の部分が妙に強調されている。
「 俺とは、大違いだな 」 と動揺を隠し、自虐的に答える。確かにあの笠井という男は俺とは違い、金に困るような格好はしていなかった。 「 それで? 」
「 あの人が本気を出せばこんなものだって手に入れられるのよ 」
彼女がバッグに手を入れ、書類を取り出した。 「 診療予約 」 という文字が見える。 「 なんだそれ 」
「 あの人お勧めの整形外科医の診療予約票よ。しかもほぼ無料の。なかなか取れないものらしいの。でもあの人は仕事のコネがあったみたい 」
仕事のコネ、と聞いて俺は笠井に名刺をもらった時のことを思い出す。医療関係の機器を開発しています、と言っていた彼は俺と美咲の関係をどこまで知っていたのかはわからなかった。
「 彼が俺のために? 」
「 あの人があんたを助ける義理なんてないじゃない 」美咲が当たり前でしょ、という顔をした。
「 それじゃ、なんで 」
美咲の口が吊り上がった。それが天使の微笑みにも悪魔の微笑みにも見えるのは、気のせいとも思えない。こんな顔もできるのか、と自分の知らないものを見せ付けられているようにも感じる。 「 言ったでしょ、あの人は私の欲しいものをなんでも手に入れてくれる。私がヘルニアの持病を持ってるって嘘ついたら喜んで取って来てくれたわ。その後、私が別れを切り出した時のあの男の顔といったら 」
フフフ、と美咲が不気味に笑った。 「 あんたもいい加減腰の方ほったらかしにしてないで、ヘルニアの手術受けたら? 今までみたいに薬で抑えるよりずっといいんじゃない? 」
「 その気遣いには感謝する。だが、ちょっと待て。笠井って男から騙して手に入れたってことだよな、その診療予約。だったらその笠井が黙ってないんじゃないか? 」 俺は遠慮がちにチラッとドアを見た。笠井が物々しい足音を響かせ、今にもこの病室に押しかけてきそうな気がした。外で 「 どうかしましたか 」 と看護士の声が聞こえたが、特に誰かがやってくる様子はない。そういえば鎌田はトロフィーをアパートに持っていっただろうか、とふと思った。
「 別れ際に言ってたわ。 『 僕が花で君が蜜を吸いにくる虫なら、僕は花としての役割を果たしただけだから 』 だって。馬鹿馬鹿しい 」
「 お前、いろいろと怖いな。見る目が変わりそうだ 」
「 じゃあ見る目が変わるついでに、私達もう一回やり直さない? 」
美咲があまりに唐突に言うので俺は固まってしまった。もう一回やり直さない、と美咲の声が俺の中で反芻する。俺も彼女とこうやって話をする前は、よりを戻したい、と伝えようと思ってはいた。しかし男を騙した今の話を聞いて、彼女とよりを戻す事に俺の中で疑問符が打たれた。結果的に俺のためにやったとはいえ、男を平然と騙す女を本当に信用していいのかどうか。
どうなの、と美咲が急かしてくる。このまま別れれば、美咲はあの診療予約をどうするのだろうか。俺にくれるのか、それとも破り捨てるのか。物欲で判断するのは御法度だと思いながらも俺は想像せずにはいられなかった。ヘルニアには今まで本当に苦しめられてきた。いろいろな所で抑制が掛かってきた。重量物の運搬、あぐらでの着座、彼女との夜の生活。挙げればきりがない。
俺は鎌田の言葉を思い出す。 「 半信半疑になりつつ付き合ってみるのもいいもんだ。様子見と言ってもいい 」
今や俺の中で彼女は白と黒の中間のグレーのようなものだ。疑わしきは罰せよ、か? やり直しても今回のようなトラブルがまた起きるかもしれない。もしかしたら今度起こすのは俺かもしれない。曖昧な関係が続いていく可能性は充分にある。
でも、この後また昔のようにニックネームで呼び合うようになったとして、さらに二人でボーリング場に行き、下手さ加減を披露しあったりしたら今直面しているこの状況はただの笑い話で終わってしまうだろうな、と思った。あんなこともあったね、そんなことあったか、笠井さんはどうしてるかな、と。それはそれで、いいのかもしれない。
もういいだろう、と自分に言い聞かせる。これ以上頭を働かせても、堂々巡りになるだけだ。そしてろくに考えもせずに 「 毎日見舞いに来てくれるならな 」 と気取って言ってみた。
美咲が歯を見せて笑う。 「 調子に乗らないでよ、さっさと治せっての 」
俺はまだ彼女の事を完全に許してはいないし、疑っている部分もある。だが、もう少し引き際は見極めようと思う。できれば、それが来ない事を願う。
*****
「 毎日見舞いに来てくれるならな 」
健次のその一言と美咲の笑い声がドア越しから聞こえた時、鎌田は胸を撫で下ろした。今までの苦労が報われた瞬間だと。ドアにくっつけていた耳を離す。ちょっと前に 「 どうかしましたか 」 と看護士に不審がられた時の恥ずかしさは、もう鎌田の中から消えていた。
健次と美咲が倦怠期にあるのは鎌田もなんとなくわかっていた。なんとかしなくてはならない。美咲と笠井のデート現場を健次と目撃した翌日、鎌田は美咲に電話を掛けた。ほっといて、と言われるのがオチだと駄目もとで掛けた。実際には全然駄目ではなかった。
「 あの人、携帯に母親のプリクラ貼ってんのよ。マザコンって感じ? 」 と彼女は笠井の事をあの人呼ばわりしていた。知り合ってどれくらい経つのか鎌田にはわからなかったが、少なくとも笠井という男は美咲とはそれほどうまくいっていないことはすぐにわかった。健次との生活に飽きて急造の男とくっついたという鎌田の仮説もあながち的外れではなさそうだった。
別れたら、と鎌田が言う。 「 でも頼み事なんでも聞いてくれるしねー 」 と美咲はうーん、と唸り、悩んだ。 「 健次とやり直したら 」 と鎌田がもう一押しする。
「 できることならそうしたいけど今更無理でしょ 」
「 それじゃ、そのマザコン男とやってく自信があるんだ? 」
「 あるわけないじゃない。ただ、何か利用価値はないかな、ってだけ 」
まさか美咲の口から 「 利用価値 」 なんていう言葉が出てくるなんて微塵も思っていなかった鎌田は一瞬たじろいだが、そこでピンときた。 「 無いこともないな 」
「 何か考えがあるの? 」
「 男の気を引くにはプレゼントが一番だと相場は決まってる。単純だけどな。謝罪の言葉とか目に見えないものよりも実体のあるほうがはるかにわかりやすいってわけだ。で、そのプレゼントを調達するためにはどうすればいいか。あとは美咲ちゃんの演技力の問題、とでも言っとこうか 」
鎌田は笠井に同情した。美咲に別れを告げられたのもそうだが、彼女に送ったものがその元彼に渡るとは思ってもいないだろうし、思いたくもないだろう。
よし、と鎌田は心の中でガッツポーズをし、病室から離れる。
研究室の連中に不快な報告をしなきゃな、と鎌田は浮き足立っている。健次と美咲はまだ別れない。賭けは俺の勝ちだと。俺は現実主義で利己主義だ、と早くも賭け金の計算を始めている。 「 そういえばあのボーリング場覚えてるか 」 と健次と美咲の生き生きした話し声も鎌田には届いていない。
ありがとうございました。