影法師
夜の帳が下りようとしている。暮れなずむ街の駅に立つ足は鉛のように重く、肩に掛かる鞄は肉に食い込んで鈍い痛みを訴えている。
「運よく最前列に並ぶことができたんだ。今日くらい座席に腰掛けてもいいだろう」
ささやかな幸運に巡り合えたことを感謝しながら、対岸のプラットホームに佇む人々を見遣る。傾いた夕陽に照らされた人々の顔の影は濃い。皆一様に疲れた顔をしていた。
「俺もいよいよモウロクしてきたかな」
対岸にあふれる悲愴な面持ちをした人の群れに紛れるようにして、それはいた。ぼんやりとした黒い影法師である。
―あれは不吉なものだ―
直感が警笛を鳴らしていた。決して見つめ続けてはならないと分かってはいるが、目を逸らすことができない。
影法師の手が人垣を分けて、にゅっと伸びた。どうやら手招きをしているようである。アナウンスの声が遠くで響いている。電車がライトを輝かせながらやってくる。手招きに誘われて足が一歩、また一歩と前に進む……。
「危ないですよ」
突如、若い駅員に肩を引かれて歩みを止めた。目の前を急行電車が駆け抜けていく。巨大な質量の塊が猛烈な速度を伴って走り去るさまは、もはや一つの残酷な凶器であった。
電車が過ぎるのを見送り、対岸のプラットホームが再び姿をあらわすころには影法師は煙のように消えていた。言い知れぬ虚脱感が全身を襲い、気が付けば舗装も粗い歩廊に膝をついていた。
「それはあんた、死神ってやつだよ」
急行電車に身を投じようとした挙句に、プラットホームで前後不覚に陥った私を事務室で待ち受けていた者は、恰幅のよい白髪頭の好々爺であった。
定年も近いであろう駅員は、机に積み上げられた書類の山を除けて、温かい缶コーヒーを手渡すと微笑みながら語った。
「長年この仕事に就いていると不思議なものも見ることもある。あんたも黒い影法師を見たんだろう。そいつは間違いなく死神だ」
始めこそ冗談でも言っているのかと訝しんだが、どうやらそうではないらしい。線を刷いたような眼の奥に鋭く光るものがある。荒唐無稽な話を前にして、適当にあしらっておこうという意志も窺えない。
「死神に魅入られるなんて、俺が死ぬのも時間の問題かな」
「いや、そうじゃない。心構えさえあれば、あれから逃れるのは難しくはないさ」
力なくつぶやく私の様子を見て、老駅員は途方に暮れているものと受け取ったらしい。好々爺は細い目をさらに細めて励ますように言う。
「不吉なものを少し見てしまっただけだよ。駅を利用するときはしばらく、最前列に並ばないこと。またあれを見ないためにも向かい側のプラットホームを覗かないこと。これさえ守れば死神に魅入られることもないだろう」
目を上げて老駅員の顔を見る。いかにも心優しげな笑顔がそこにはあった。目尻には深い皺が刻まれており、唇から覗く歯は白い。普段からよく笑う人なのだろう。
―心からの善人なのだ―
老駅員の緩んだ表情を目の当たりにして、暗い感情が頭をもたげ始めていた。人の事情も知らないで能天気に微笑してみせる老駅員が憎たらしくさえ思える。強い光を受けて陰を濃くするように、胸中で密かに不満を積もらせずにはいられなかった。
「ありがとうございました。今日はいろいろと迷惑をお掛けしてしまったようで」
一刻も早く、この埃臭い部屋から出たかった。早口に礼を述べると安っぽいパイプ椅子から立ち上がった。
「黄色い線の内側に下がって並ぶことを忘れずにな」
最後まで老駅員のお節介を背中に受けながら事務室を後にした。
忠告を守る気にはなれなかった。あの年老いた駅員の述べたところの全てが真実なのだろうことは分かっている。彼が善人で危険に晒されている男を救おうとしていることも知っている。しかし、善人の箴言に従ってまでして、長らえる価値のある命なのかどうかは依然として疑問のまま残っていた。
妻が亡くなってからは天涯孤独の身も同然である。電車の下敷きになったところで死を悼んでくれる者もない。老父の炯眼も心の内に巣食う、捉えどころのない闇までは射抜くことはかなわなかった。
―俺も妻のもとに連れて行ってくれ―
駅員の目を盗んで黄色い線を跨ぎ、人の群れを掻き分けて最前列に躍り出る。荒涼とした月明りの下で向かい側のプラットホームに立っているであろう影法師の姿を探した。
(了)