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落第生万歳  作者: 胤田 一成
8/20

影法師

 夜の(とばり)()りようとしている。暮れなずむ街の駅に立つ足は(なまり)のように重く、肩に掛かる(かばん)は肉に()()んで鈍い痛みを訴えている。

「運よく最前列に並ぶことができたんだ。今日くらい座席に腰掛(こしか)けてもいいだろう」

 ささやかな幸運に巡り合えたことを感謝しながら、対岸のプラットホームに(たたず)む人々を見遣(みや)る。傾いた夕陽(ゆうひ)に照らされた人々の顔の影は濃い。(みな)一様(いちよう)に疲れた顔をしていた。

「俺もいよいよモウロクしてきたかな」

 対岸にあふれる悲愴(ひそう)面持(おもも)ちをした人の群れに紛れるようにして、それはいた。ぼんやりとした黒い影法師(かげぼうし)である。

 ―あれは不吉なものだ―

 直感が警笛(けいてき)を鳴らしていた。決して見つめ続けてはならないと分かってはいるが、()()らすことができない。

 影法師(かげぼうし)の手が人垣(ひとがき)を分けて、にゅっと伸びた。どうやら手招(てまね)きをしているようである。アナウンスの声が遠くで響いている。電車がライトを輝かせながらやってくる。手招(てまね)きに(いざな)われて足が一歩、また一歩と前に進む……。

「危ないですよ」

 突如(とつじょ)、若い駅員に肩を引かれて歩みを止めた。目の前を急行電車が駆け抜けていく。巨大な質量の塊が猛烈な速度を(ともな)って走り去るさまは、もはや一つの残酷な凶器であった。

 電車が過ぎるのを見送り、対岸のプラットホームが再び姿をあらわすころには影法師(かげぼうし)は煙のように消えていた。言い知れぬ虚脱感(きょだつかん)が全身を襲い、気が付けば舗装(ほそう)も粗い歩廊(ほろう)に膝をついていた。


「それはあんた、死神ってやつだよ」

 急行電車に身を投じようとした挙句(あげく)に、プラットホームで前後(ぜんご)不覚(ふかく)(おちい)った私を事務室で待ち受けていた者は、恰幅のよい白髪頭(しらがあたま)の好々(こうこうや)であった。

 定年も近いであろう駅員は、机に積み上げられた書類の山を()けて、温かい缶コーヒーを手渡すと微笑(ほほえ)みながら語った。

「長年この仕事に()いていると不思議なものも見ることもある。あんたも黒い影法師(かげぼうし)を見たんだろう。そいつは間違いなく死神だ」

 始めこそ冗談でも言っているのかと(いぶか)しんだが、どうやらそうではないらしい。(せん)()いたような眼の奥に鋭く光るものがある。荒唐無稽(こうとうむけい)な話を前にして、適当にあしらっておこうという意志も(うかが)えない。

「死神に魅入(みい)られるなんて、俺が死ぬのも時間の問題かな」

「いや、そうじゃない。心構えさえあれば、あれから逃れるのは難しくはないさ」

 力なくつぶやく私の様子を見て、老駅員は途方(とほう)()れているものと受け取ったらしい。好々(こうこうや)は細い目をさらに細めて(はげ)ますように言う。

「不吉なものを少し見てしまっただけだよ。駅を利用するときはしばらく、最前列に並ばないこと。またあれを見ないためにも向かい側のプラットホームを(のぞ)かないこと。これさえ守れば死神に魅入(みい)られることもないだろう」

 目を上げて老駅員の顔を見る。いかにも心優しげな笑顔がそこにはあった。目尻には深い(しわ)が刻まれており、(くちびる)から覗く歯は白い。普段(ふだん)からよく笑う人なのだろう。

 ―心からの善人なのだ―

 老駅員の(ゆる)んだ表情を()()たりにして、暗い感情が頭をもたげ始めていた。人の事情も知らないで能天気(のうてんき)微笑(びしょう)してみせる老駅員が憎たらしくさえ思える。強い光を受けて陰を濃くするように、胸中(きょうちゅう)で密かに不満を積もらせずにはいられなかった。

「ありがとうございました。今日はいろいろと迷惑をお掛けしてしまったようで」

 一刻も早く、この埃臭(ほこりくさ)い部屋から出たかった。早口に礼を述べると安っぽいパイプ椅子から立ち上がった。

「黄色い線の内側に下がって並ぶことを忘れずにな」

 最後まで老駅員のお節介(せっかい)を背中に受けながら事務室を後にした。


 忠告を守る気にはなれなかった。あの年老いた駅員の述べたところの全てが真実なのだろうことは分かっている。彼が善人で危険に(さら)されている男を救おうとしていることも知っている。しかし、善人の箴言(しんげん)に従ってまでして、長らえる価値のある命なのかどうかは依然として疑問のまま残っていた。

 妻が亡くなってからは天涯(てんがい)孤独(こどく)の身も同然である。電車の下敷きになったところで死を(いた)んでくれる者もない。老父の(けい)(がん)も心の内に巣食(すく)う、捉えどころのない闇までは射抜(いぬ)くことはかなわなかった。

 ―俺も妻のもとに連れて行ってくれ―

 駅員の目を盗んで黄色い線を(また)ぎ、人の群れを()()けて最前列に(おど)()る。荒涼(こうりょう)とした月明りの下で向かい側のプラットホームに立っているであろう影法師(かげぼうし)の姿を探した。



(了)


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