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落第生万歳  作者: 胤田 一成
7/20

デュシャンはお好き?

 薄暗がりの中で裸の女が倒れている。

 備えられた間接(かんせつ)照明(しょうめい)の光は(とぼ)しく、部屋の(すみ)に不気味な影を落としていた。カーテンに(えい)じた女の陰影(いんえい)が、ぬらりと(うごめ)いた気がした。風はないはずである。ましてや女が動くはずもない。彼女はすでにこと切れているのだから。

 仰向(あおむ)けに倒れた女の胸は微動(びどう)だにしない。ただ、豊かに熟した肉の果実がこぼれているだけである。暖色(だんしょく)の明かりを受けて、その(しろ)(はだ)は薄く輝いているようにすら見える。それは遠く海を渡って来た舶来(はくらい)の肌であった。

 逆巻(さかま)金色(こんじき)産毛(うぶげ)が見えるほどに注視(ちゅうし)したが、女の胸が再び鼓動(こどう)に打ち震える気配はない。私は壁に穿(うが)たれた「覗き穴」から()()がすようにして顔を離した。

 言い知れぬ満足が胸の内に広がるのを感じつつ、(ふところ)からタバコとライターを取り出した。暗闇の中で火が(とも)る。ずいぶんと長い間、部屋の光が壁の穴から漏れないように(こころ)(くだ)いてきた。いまだにその(くせ)が治る様子はない。

 隣室(りんしつ)から水が流れ落ちる音が聞こえてくる。あの青年は顔を洗うために(ひね)った水道の蛇口(じゃぐち)を閉めることなく逃げ去ったようだ。彼は私と彼女の関係の上では邪魔者(じゃまもの)でしかなかったが、最後に良いものを残していってくれた。

 薄い壁越しに水のせせらぎを感じながら、私は「壁の穴」が(つむ)()した不可思議な物語について(おも)いを()せる。


 全ては(かべ)()いた「覗き穴」を見つけ出したことから始まった。それは備え付けの家具に隠されるようにして壁に穿(うが)たれていた。穴といっても些細(ささい)なものである。罅割(ひびわ)れといった方があるいは適しているかもしれない。

 故意(こい)()けられたものなのか、偶然(ぐうぜん)()いてしまったものなのか、詳しい経緯(いきさつ)()(よし)もないが、おそらく以前にこの部屋を賃貸(ちんたい)していた者が関与(かんよ)しているのだろう。

 わざわざ大家に相談してまで調べたり、業者に委託(いたく)してまで修繕(しゅうぜん)しようという気は起らなかった。()()らしてようやく気が付くほどの微細(びさい)(ほころ)びであったし、何よりそれを(ふさ)いでしまうのは勿体(もったい)ないという(ぞく)っぽい好奇心(こうきしん)が働いた。安いだけが()()の木造アパートの一室に急遽(きゅうきょ)、非日常に通じる道が(ひら)けたようで、私は年甲斐(としがい)もなく胸をときめかせていた。

 覗きという行為が罪深いものとして忌み嫌われていることは知っていた。しかし、見つけてしまった穴を封印(ふういん)しなかった時点で、遅かれ早かれ道を踏み外すことは宿(しゅく)(めい)づけられていたのかもしれない。

 隣人が私と同様の()えない中年男性であったなら――あるいはこの国のありふれた女性であったなら、これほどまでに心を奪われることはなかっただろう。しかし、彼女はそのどれにも当てはまらない存在であった。

 もっとも私が彼女について知っていることはそう多くない。欧州(おうしゅう)からの交換留学生であり、東京の大学で美術を学んでいることぐらいしか分かっていない。鼻が痛くなるほど顔を壁に押し当てて凝視(ぎょうし)してみたが、限られた視界では彼女の全体像を(とら)えることは、(つい)にかなわなかったのである。

 初めて彼女の部屋を覗き見たときの感動は今も鮮明に覚えている。壁一面を(かざ)る絵画――万華鏡(まんげきょう)のような(いろどり)(あらし)に思わず眼が(くら)んだ。そして、その芸術の森で踊る小さく美しい妖精こそが彼女であった。

 私が彼女に抱いた感情は憧憬(どうけい)であった。彼女は私を美術(びじゅつ)(しろ)に導く気高(けだか)()であり、決して手の届くことのない恋人でもあった。私は「覗き穴」を通して彼女の前にかしずき、(あたま)()れて礼賛(らいさん)した。私は充分に幸福であった。

 それをあの青年が全て(くつがえ)してしまった。彼は私の聖域を蹂躙(じゅうりん)し、美の妖精を一人の女へと(おとし)めた。野獣のように互いの肉体を求め、もつれ(から)()う男女の姿がそこにはあった。眠れぬ夜が続き、(まぶた)()じれば浅ましい幻影(げんえい)が浮かんでは消えていった。


 タバコの灰が(ひざ)に落ちた。(かす)かな灯火(ともしび)が暗闇に描いてみせたものは、男女が(まじ)わる(みだ)らな影ではない。

「デュシャンはお好き?」

 彼女に(ささや)いた言葉を反芻(はんすう)する。私の身体(からだ)を打ったしなやかな四肢の感触を思い出す。(くちびる)に触れた耳朶(じだ)の柔らかさ、濡れた長い睫毛(まつげ)、上気した(ほお)を思い出す。そして最期(さいご)に私の両手は彼女の華奢(きゃしゃ)な首に(から)みつき――。

 私はこよなく美しい静止画(せいしが)(まぎ)()んだ異物(いぶつ)()(のぞ)こうとしたまでである。かつての彼女の姿――()(つかさど)女神(めがみ)の姿を取り戻すために行動しただけである。あの青年は私と彼女が(つむ)いだ、一つの愛の形を前にして、理解を示そうともせずに逃亡した。殺人者の容疑が掛けられることを恐れたのだろう。

 いずれ彼女の肉体は()(はじ)め、辺りを腐臭(ふしゅう)で満たすに違いない。しかし、それまで彼女は私だけのものである。決して誰にも邪魔(じゃま)はさせないつもりだ。


 (了)


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