デュシャンはお好き?
薄暗がりの中で裸の女が倒れている。
備えられた間接照明の光は乏しく、部屋の隅に不気味な影を落としていた。カーテンに映じた女の陰影が、ぬらりと蠢いた気がした。風はないはずである。ましてや女が動くはずもない。彼女はすでにこと切れているのだから。
仰向けに倒れた女の胸は微動だにしない。ただ、豊かに熟した肉の果実がこぼれているだけである。暖色の明かりを受けて、その白肌は薄く輝いているようにすら見える。それは遠く海を渡って来た舶来の肌であった。
逆巻く金色の産毛が見えるほどに注視したが、女の胸が再び鼓動に打ち震える気配はない。私は壁に穿たれた「覗き穴」から引き剥がすようにして顔を離した。
言い知れぬ満足が胸の内に広がるのを感じつつ、懐からタバコとライターを取り出した。暗闇の中で火が灯る。ずいぶんと長い間、部屋の光が壁の穴から漏れないように心を砕いてきた。いまだにその癖が治る様子はない。
隣室から水が流れ落ちる音が聞こえてくる。あの青年は顔を洗うために捻った水道の蛇口を閉めることなく逃げ去ったようだ。彼は私と彼女の関係の上では邪魔者でしかなかったが、最後に良いものを残していってくれた。
薄い壁越しに水のせせらぎを感じながら、私は「壁の穴」が紡ぎ出した不可思議な物語について思いを馳せる。
全ては壁に空いた「覗き穴」を見つけ出したことから始まった。それは備え付けの家具に隠されるようにして壁に穿たれていた。穴といっても些細なものである。罅割れといった方があるいは適しているかもしれない。
故意に空けられたものなのか、偶然に空いてしまったものなのか、詳しい経緯は知る由もないが、おそらく以前にこの部屋を賃貸していた者が関与しているのだろう。
わざわざ大家に相談してまで調べたり、業者に委託してまで修繕しようという気は起らなかった。目を凝らしてようやく気が付くほどの微細な綻びであったし、何よりそれを塞いでしまうのは勿体ないという俗っぽい好奇心が働いた。安いだけが取り柄の木造アパートの一室に急遽、非日常に通じる道が拓けたようで、私は年甲斐もなく胸をときめかせていた。
覗きという行為が罪深いものとして忌み嫌われていることは知っていた。しかし、見つけてしまった穴を封印しなかった時点で、遅かれ早かれ道を踏み外すことは宿命づけられていたのかもしれない。
隣人が私と同様の冴えない中年男性であったなら――あるいはこの国のありふれた女性であったなら、これほどまでに心を奪われることはなかっただろう。しかし、彼女はそのどれにも当てはまらない存在であった。
もっとも私が彼女について知っていることはそう多くない。欧州からの交換留学生であり、東京の大学で美術を学んでいることぐらいしか分かっていない。鼻が痛くなるほど顔を壁に押し当てて凝視してみたが、限られた視界では彼女の全体像を捉えることは、遂にかなわなかったのである。
初めて彼女の部屋を覗き見たときの感動は今も鮮明に覚えている。壁一面を飾る絵画――万華鏡のような彩の嵐に思わず眼が眩んだ。そして、その芸術の森で踊る小さく美しい妖精こそが彼女であった。
私が彼女に抱いた感情は憧憬であった。彼女は私を美術の城に導く気高き師であり、決して手の届くことのない恋人でもあった。私は「覗き穴」を通して彼女の前にかしずき、頭を垂れて礼賛した。私は充分に幸福であった。
それをあの青年が全て覆してしまった。彼は私の聖域を蹂躙し、美の妖精を一人の女へと貶めた。野獣のように互いの肉体を求め、もつれ絡み合う男女の姿がそこにはあった。眠れぬ夜が続き、瞼を閉じれば浅ましい幻影が浮かんでは消えていった。
タバコの灰が膝に落ちた。微かな灯火が暗闇に描いてみせたものは、男女が交わる淫らな影ではない。
「デュシャンはお好き?」
彼女に囁いた言葉を反芻する。私の身体を打ったしなやかな四肢の感触を思い出す。唇に触れた耳朶の柔らかさ、濡れた長い睫毛、上気した頬を思い出す。そして最期に私の両手は彼女の華奢な首に絡みつき――。
私はこよなく美しい静止画に紛れ込んだ異物を取り除こうとしたまでである。かつての彼女の姿――美を司る女神の姿を取り戻すために行動しただけである。あの青年は私と彼女が紡いだ、一つの愛の形を前にして、理解を示そうともせずに逃亡した。殺人者の容疑が掛けられることを恐れたのだろう。
いずれ彼女の肉体は朽ち始め、辺りを腐臭で満たすに違いない。しかし、それまで彼女は私だけのものである。決して誰にも邪魔はさせないつもりだ。
(了)