妄想通夜
鉛色の空から水が滴り、玉となって紫陽花の花を飾るころ、友人のKが死んだという訃報を受け取った。
「ああ、とうとう死んだか」
私は薄墨色の葉書を手にして、涙の代わりに独り言を零した。我ながら薄情者だとは思う。しかし、一人の友人の死を悼むにはあまりにも長い時間が経っていた。際限なく広がる未来に胸を躍らせ、比喩ではなく学び舎のあちらこちらを飛び跳ねて回っていた青い時代はとうに過ぎ去ってしまっていた。
希望に満ち溢れた時代は失われ、代わりに厳しい現実が立ちふさがっている。私は財布の中身をあらためたが、Kの仏前に供えるだけの金がないことを確かめると、くさくさした思いでせんべい布団に横たわった。
警察官になったKが大型トラックにはねられて重傷を負い、病院の集中治療室で意識不明の重体になっているという話は、もう三年ほど前から聞き及んではいた。しかし、Kの身体は周囲が想像する以上に強靭であった。頸椎を激しく損傷したせいで、運良く昏睡状態から醒めたとしても、四肢の自由は絶望的と医師から診断されてもなお、Kは生きようとした。長い眠りからとうとう目覚めることはなかったが、実に三年という歳月を彼は生きたのである。
それに比べて私はどうであろうか。生きるという恩恵を賜っていながら、死んだように日々を過ごしている。それどころか折にふれて、自ら死にたいとすら願う始末である。
私は枕元に置いたペットボトルの水で、鬱々(うつうつ)とした気分を払いのけるために二粒の錠剤を腹に流し込んだ。開けられた薬のアルミ包装を眺めていると、虚しさと情けなさが一挙に押し寄せてきた。香典を包めないという理由の他にKには合わせる顔がなかった。
「お前、弱えなあ」
学生時代、体育の授業でKと柔道の組手をしたことがある。警察官を志すだけあって、Kには柔らの心得があった。しかし、小柄な彼は当時から目方だけは滅法大きかった私を組み伏せることはついにできなかった。
色白の肌を真っ赤にして挑みかかっても、私の足を払うだけの膂力が足りなかったのであろう。私は体重にものをいわせた乱暴な組手でKを何度も畳の上に投げ飛ばした。武道に対して真摯に向き合う者に、辛酸を浴びせかける暗い喜びがそこにはあった。Kはそれでも笑っていた。私の意地悪にも屈せず、幾度も果敢に挑戦してきた。
「お前、弱えなあ」
私は今、その言葉を改めねばなるまい。三年間という長い歳月を病院の硬いベッドの上で戦い抜いたKは決して弱者ではなかった。彼を指さして意地悪く嘲笑した事実を拭い去りたい気分であった。むしろ弱いのは私の方である。たった一度きりの失敗をいつまでも引きずり、こうして薬に頼って健康な身体を持て余しながら床に伏せっている私こそ、糾弾されるべき存在である。許されるならば、あの日、愚かにも馬鹿にしてしまったKに対して謝りたかった。
「今からでも葬式に行こうか、そうして棺に納められたKの前で手を合わせて謝ろうか」
何度も逡巡したが、先ほど服用した薬のせいで眠気が襲ってきた。夢と現の狭間で私は幾度もKに頭を下げた。薬で誤魔化した浅い睡眠と覚醒を繰り返しながら、私はまたもや無為な時間を過ごした。
生きているという事実が私の犯している罪であった。集中治療室で戦い抜いたKに私の命をくれてやることができたのなら、彼の味わった苦しみを少しでも肩代わりしてやることができたのなら、私の罪は幾分か赦されただろうか。
考えれば考えるほど、日々を怠惰に過ごしている私にはKの棺の前に立つ資格はないように思われて仕方がなかった。
「お前。弱えなあ」と思い出の中のKが私を指さし屈託なく笑っていた……。
「よう、Kの葬儀が終わったよ」
一通の電話が私を現実に引き戻した。葬儀に参列していた友人のYの声が浅い眠りで重くなった頭の中で電話越しに低く響いた。
「どうだった?」
「道場の後輩もみんな来て、泣きながら送ったよ。それにしても変な声だな。お前も泣いてたのか?」
Yから指摘されて私はようやく、自分の声が奇妙なほどひしゃげていることに気が付いた。頬に指を当ててみたが涙の跡はなかった。
「泣いてないよ。でも泣いていたような気がする……」
電話が切れると同時に私の中でKの葬儀は終わった。一人ぼっちではあるが私は確かに葬儀に参列していたような気がした。雨に打たれる紫陽花の花はまだまだ窄みそうにない。
(了)