傷痕
寒さが緩み、春が訪れるころになると腕の傷が痛みだす。
何十年も以前の傷だが、それが刻まれた経緯は今でも鮮やかに思い出すことができるから不思議である。あるいはこの傷は私にとってのある種のシンボルなのかもしれない。私は捲られたワイシャツからのぞく古傷を指先でなぞった。
忘れもしない、この傷が刻まれたのは八十四年の春の夜のことである。中学三年生を卒業しようとしていた私は親友と一緒に夜の中学校へと忍び込んだ。手に手にバットを携えながら学校の窓ガラスを割って回ろうとしたのである。頭の中では八十年代に一世を風靡したロック・シンガーの澄んだ声が大音量で流れていた。あの有名なフレーズ……。
一枚、二枚と私と親友は順調に窓ガラスを割って回った。そのガラス代がどこからやってきているのかなんて気にするほど私達は頭が良くなかった。ただ、あの天才的なロック・シンガーの歌声に従っているだけのつもりだった。自分達に都合の良いワンフレーズだけを抜き出し、彼が何を伝えたいかなどとは理解しようともせず、夢中になって窓ガラスを叩き割っていた。
夢のような反抗の時間は直に終わりを告げた。騒音を聞きつけた近所の大人が警察に通報していたからだ。駆け付けた警察のライトを見て、親友は私を置いてボロボロになった自転車で逃げていった。私は窓ガラスを割るのに夢中で、去っていく自転車の音に気が付かなかった。背後から影のごとく湧いて出た屈強な警察官に私は押し倒されるようにし捕まった。その時に床に散らばったガラスの破片で腕に傷を負った。中学三年生の夜、私のもとに残されたものは、莫大な窓ガラス代と十針近く縫うことになった腕の傷であり、代わりに手放したものは、親友との間に結ばれた信頼であった。
「すみませんでした。卒業も近かったので浮かれていました」
少年はうつむきながら呟くようにして私に謝罪した。私は学校の廊下で少年と一緒に割れた窓ガラスの前で一緒に立っている。少年が謝るまで、私は捲られたワイシャツからのぞく腕の傷をしきりになぞりながらぼんやりと思い出に浸っていた。
体育館の方から生徒達の笑い声が聞こえてくる。今日は「三年生を送る会」の日である。少年は相変わらずうつむきながら、大人しく私から叱責されるのを待っている。
「もういいから。三送会に行ってきなさい」
私は腕に刻まれた傷をワイシャツで隠すと少年に言った。普段から厳しい先生でいたためか少年は呆然としていた。激しい怒号の嵐が訪れるものとばかり考え、萎縮していたらしい。私はガラスの散らばった廊下にしゃがみこむと一人で片付け始めた。少年は一礼して廊下を駆けていった。
「廊下を走るな」、と叱った方が良い気もしたが去り際に残していった少年の笑顔にほだされて注意する気も失せてしまった。
「先生は甘いですね」
後ろから用務員さんが声をかけてきた。手には箒とちりとりを持ち、脇には割れたガラス片をまとめるための段ボールを挟んでいた。
「甘いですよ。もっとちゃんと叱らなきゃ、また繰り返しますよ」
私は一度隠したワイシャツの裾を捲り、腕の傷を用務員さんに見せると、かつての思い出を語ってみせた。
「ああ、先生もあの時代の方でしたか。それなら窓ガラスの一枚や二枚はなんともないでしょうな」
用務員さんは苦笑しながらそんなことを言った。しかし、その眉には皺が寄り、納得していないことは誰が見ても明らかであった。それも仕方がないことだろう。彼にとっては一大事なのだ。なにせ学校の事務と雑務の一切を取り仕切っているのである。
「窓ガラスの一枚や二枚などとは思っていませんよ。今日が三送会でないなら、こっぴどく叱っているところです」
私が腕をさすりながら体育館の方を見やると、ちょうど生徒達の歓声が上がった。下級生がなにか面白い出し物でもしているのだろう。私はそれを思うと微笑ましい心持になり、腕の傷の痛みが少し和らいだ気がした。
「彼らももうすぐ卒業です。私達の卒業からは何も得られませんでした。むしろ失ったものの方が大きいくらいです。だからこそ、彼らにはなにかを得た上で卒業して欲しいんです。たとえば友情とかね。私達、大人が水をさしちゃいけないのかもしれません」
「先生は甘いなぁ」
彼は元気にしているのだろうか。あの月明りもけぶるような春の夜に、ボロボロの自転車で颯爽と去っていった親友に私は思いを馳せた。
(了)
《参考》
作詞・作曲 尾崎豊 「15の夜 (TGE NIGHT)」 一九八三年一二月
レーベル CBS・ソニ―レコード (ソニー・ミュージックレコーズ)
規格品番 07SH1433