クリアランス
安西幸彦は人気のない大学の講堂で読書に耽っていた。彼の優秀な脳髄の中で失われた歴史や文化が鮮やかな色彩を伴って息を吹き返す。前時代の産物となって久しい紙の情報媒体が愛おしかった。
《呼吸器官の能力が低下しています。ミストを吸飲して除菌を行なってください》
未知のウイルスが世界を蝕み始めて、数十年が経とうとしていた。世界医療機構はいまだに治療法の発見には至っていない。空気感染と飛沫感染を防ぐという名目で配給された高性能マスクがアラームを鳴らした。
「本ばかり読んでいると埃で肺がやられるぞ。ライブラリにアクセスすればいいものを」
安西が振り返ると級友の本馬健斗がデスクに寄りかかるようにして立っていた。彼のレッドのマスクにはステッカーが貼られていた。それは、学生たちが結成した地下組織に所属していることを示している。
「今朝のニュースを見たか。我々の同士の一人の柴田太一が逮捕された。国家転覆を目論む虞犯としてな。明らかに政府の横暴だ」
本馬のマスクが怒気を含んだ荒い息のために膨らんだ。健康管理と感染予防のために配給された高機能マスクはクリアランスごとに色によって明確に区別されている。世界医療機関は公的に否定しているが、マスクカラーが差別を生んでいることは確かだった。レッドは決して望ましい色ではなかったが、学生の間では大きな意味を持っている。それは虐げられる者の勲章のようなものだった。
「定例会で柴田の解放運動を行なうことが正式に可決された。柴田とはもうずいぶんと長い付き合いになる。お前も参加しろ」
安西は読みかけていた本を閉じると深くため息をついた。吐息に反応して高性能マスクが警告音を鳴らす。安西のマスクカラーはレッドを下回るブラックに近いものになりつつある。安西は自身の無力を沈黙に乗せて訴えているようだった。
「気を落とすなよ。まだ感染が決まったわけではないんだ。きっと本ばかり読んでいるから埃が肺臓を侵食しているだけだ。ミストを吸えばよくなるはずさ」
本馬の根拠のない励ましの言葉が講堂に空しく響いた。安西は閉じた本の表紙に飾られた金文字を指でなぞりながら頑なに沈黙を守っている。本馬は精一杯の善意を否定されたような気分になった。
「読書なんて方法に頼らなくても情報は手に入る。ライブラリにジャックインすればいいだけだ。高い学費を支払っているんだから利用しなければ損というものだ」
本馬の口ばかりの説得を聞きながら、安西は片頬を引き攣らせる皮肉な微笑を浮かべた。人を食ったような態度が本馬には気に入らなかった。それは階級闘争に臨もうとする者が抱くにふさわしい感情ではなかった。
「俺はお前の健康を心配してやっているんだぜ。柴田の解放運動を頑張ればみんなもお前のことを見直すはずだ。なあ、その命を俺に預けてみないか。生まれ変わってみないか」
本馬は息を荒らげながら熱っぽく語ったが、安西が首を縦に振ることはついになかった。本馬は級友の拒絶を前にして怒りを抑えることができなくなっていた。
「お前はいつだって俺達のことを馬鹿にしているんだろう。お前は何に情熱を傾けているんだ。お前が読み耽っている本はみんな死んでいるんだよ。散っていったんだよ」
本馬の拳がデスクを叩いた。安西が俯いて咳をするのもかまわずに本馬は激しく糾弾した。アラームは危険域を警告している。
「堕落してんだ。お前は、堕落してるんだよ」
長い沈黙の後に本馬は絞り出すような声で宣告した。安西は咳が治まると低く笑いながら睨みつける本馬に向き合った。
「腹を立てているのなら横っ面でも殴ってみたらいいだろう。君は熱っぽく語ってみせるくせに、僕に触れようともしないんだね。自分も感染するかもしれないと危ぶんでいるんだ。頬を叩くことすらできない者と抱き合って痛みを分かち合うなんでできると思うかい。熱くもなければ冷たくもない現実が真綿で首を絞めるように、世界を侵食している。世界は緩やかに死につつあるんだよ。それなら、僕は散っていった夢を見ながら死にたいんだ」
本馬は抑えがたい怒りの感情をそのままに、足を踏み鳴らしながら講堂を後にした。決別した級友の後ろ姿を見送ると、安西は手にしていた本を広げて空想の世界に遊び始めた。
《呼吸器の機能が著しく低下しています。速やかに医療機関で処置を受けてください》
人気のない講堂に高性能マスクの警告音が鳴り響いている。安西はしばらく考えたすえにマスクに手を掛けて脱ぎ捨てた。観測対象を失ったマスクはアラームを止めた。安西は深い安堵に包まれながら自分だけの世界に没入していった。
(了)