人形師の午後
暖かな秋の陽射しが木漏れ日となって降り注ぎ、公園のベンチと車いすに腰掛けた老夫妻を照らしている。
一陣の風が銀杏の木を揺らしながら吹き抜けた。車いすに座る老婆の膝に落ちた木の葉を優しく払って、年老いた紳士は穏やかな微笑を浮かべた。その繊細微妙な仕草は深い慈しみに満ちたものだった。
晴々(はればれ)とした秋の空はどこまでも高い。老婦人の澄んだ瞳は飲み込まれそうな天空をじっと見つめている。彼女の手は老紳士によって固く握られている。まるで風船が飛ばされないように繋ぎとめているかのようだった。
「あの、すみません―」
和やかな秋の昼下がりにはふさわしくない、みすぼらしい格好をした青年が、ベンチに座る老夫妻におずおずと声をかけた。
「ここでならあなたに会えると聞きました。あなたの正体は知っています。今日は僕のお願いを叶えてもらうために来ました」
老紳士は青年の不躾な言葉を微笑みで迎え入れた。一切の動揺をみせない老人を前にして、青年は多少の居心地の悪さを感じながらも言葉を継いだ。
「僕はあなたの秘密を暴いて破滅させることもできるということをお忘れなく。この公園を待ち合わせの場所に定めたことが運の尽きでしたね」
青年は目を血走らせながら噛み付くように言い放つと、老人の隣に荒っぽく腰を下ろした。コートのポケットに忍ばせたナイフが彼の気持ちを大きくしていた。
「それで君の願いとは何ですか?」
老人の枯れ木のような外見からは想像できないほどに豊かな声だった。青年は気圧されまいとコートの下で冷たく息づくナイフを意識した。老人は愛妻の世話に余念がない様子で、かいがいしく手を動かしている。
「仕事の依頼を引き受けてほしいのです。ただ、僕にはあなたにお支払いできるほどの金がないのです」
老紳士は婦人が被っている帽子の傾きを直すと、、歳若い脅迫者の方を振り向いた。老人は青年の熱に浮かされたような鬼気迫る形相を認めると軽いため息を漏らした。
「君のような青年から仕事の依頼が来るとは思いませんでした。それで誰をどうして欲しいのですか。有耶無耶な状態で依頼を引き受けるわけにもいかないのです」
青年は槌を落とすかのように、はっきりとした声で老人に訴えた。
「わたしの、恋人を、殺して、欲しいのです」
老人は青年の明確な殺意を満足げに頷いて聴き入れると、懐から革の手帖を取り出し、青年の恋人の情報を訊ねては素早く万年筆を走らせた。老人が仕事の手筈を整えている傍らで、青年はしきりに恋人の不貞を呪い続けていた。青年の恨みは深かった。
老人はぱたんと軽い音を立てて手帖を閉じると、それが合図だったかのように青年はうなだれていた頭を上げた。老人は何事もなかったかのように車いすに座る妻の世話をはじめようとしている。
「素敵なご婦人ですね」
老人は青年の賛辞に顏をほころばせた。そして世間話をするかのような気軽さで次のような魔訶不思議な話を打ち明け始めた。青年は話が進むに伴って気色を失っていった。
「まったく美しいものでしょう。これは精巧に作られた人形なのです。私が初めて殺めた女性に似せてかたどった依り代なんです。生きていれば彼女はきっとこのような美しい婦人になっていたはずです。
私が彼女を殺めたのは、ちょうど君くらいの歳の頃の出来事ですから、ずいぶんと長い時間が経ったことになります。私は金が欲しくて仕方がありませんでした。そこで一人の女性を誑かして結婚し、この公園で待ち合わせをして絞殺したのです。遺産が目当ての殺人でした。
私の両親はとある財閥に大きな負債を抱えていました。私は財閥に代償として引き取られて育った捨て駒のような人間なのです。生き残るために何でもしました。
私は妻を愛していましたが組織の意思には勝てませんでした。やがて財閥は私に仕事を斡旋するようになりました。私も闇に葬られないように必死になって仕事を覚えました。
時代は移ろい財閥も力を失いつつあります。私の仕事も減って生活にも多少の余裕ができました。気を抜くと忘れ去ってしまいそうになるほど豊かな時代が訪れました。
私は生き抜くためとはいえ妻を殺めたことを後悔しています。一日たりとも罪の意識に苛まれない日はありません。私は自身を慰めるために妻の人形を作りました。それが袋小路の苦悩から逃れる唯一の方法でした。
私は終わりが訪れるまで妻の依り代にかしずき続けるつもりです。ありえたかもしれない一つの形を夢に見続けながら、最後に待ち合わせを交わした公園で妻を思いながら息を引き取りたいのです」
(了)