ウヰスキー・ラベル
黒々(くろぐろ)とした髭をたくわえたナイトクラブのマスターが一個のグラスを磨いている。七十年代の名残が所々に見られる隠れ家のような店構えをしたナイトクラブには、ダーツマシンよりピンボールの方が似つかわしく思えた。繁盛はしていないようだが、マスターはどこか超然としていて、店の雰囲気もたっぷりとした余裕を感じられる。
愛想のない主人と面と向かい合って酒を飲もうとする客は滅多にいないようで、カウンターでは閑古鳥が鳴いていた。私の他に一人の外国人らしい青年が座っているだけだ。テーブルに肘をついて物思いに耽りながらウイスキーグラスを傾ける姿はさすがに絵になっていた。
私は少しばかり他人との会話に飢えていた。新人賞に応募した小説が無惨にも一次選考で落第してしまい、意気消沈していたこともある。小説とはまるで関係のない話題で気分を晴らしたかった。酒の酔いが普段より気分を大きくしていたらしく、私は言葉も通じるかわからない青年に声をかけた。
「お国はどこですか?」
私のたどたどしい英語を聞いて、青年はにっこりと笑みを浮かべると流暢な日本語で返事をした。
「日本語で大丈夫ですよ。生まれはイタリアですが国を転々(てんてん)と渡っています。流れ者というやつですよ」
極東の言葉を巧みに使いこなして話してみせる様子に感心していると、青年ははにかんで俯いてしまった。その仕草は流れ者というにはあまりに可愛らしいものだった。
「ウイスキーの語源を知っていますか?」
青年はグラスの縁を指でなぞりながらつぶやいた。私が知らないと答えると、青年はぽつりぽつりと琥珀色の酒の由来を語り始めた。青年の口ぶりは不思議にも懐かしげで、遥かに遠い過去の出来事がにわかに血潮の通った話として息を吹き返したようだった。
「ウイスキーの語源はゲール語でウシュク・ベーハー(命の水)が由来だといわれています。ウイスキーの歴史はアルコールの蒸留技術と共に発展していきました。
十三世紀のイタリアでとある修道僧がワインの蒸留に成功したことが全ての始まりです。この蒸留酒はラテン語でアクア・ヴィテ(命の水)と呼ばれて欧州で広く親しまれました。それが海を越えてアイルランドに渡り、先ほど述べた通りの名前に変わって、今日のウイスキーになったというわけです。以来、この琥珀色の酒は人々を魅了し続けているのです」
青年はそこまで語るとグラスに残された酒を一気に煽り干した。彼は熱い吐息を漏らすと声を潜めて話を続けた。私はおとぎ話を聴く幼子の素直さで彼の話に熱中していた。
「アクア・ヴィテを蒸留した修道僧については面白い話があります。彼は悪魔と契約を結び、永遠の命を手に入れたという噂です。
十三世紀の欧州ではワインは教会にとって神聖なものです。悪魔は修道僧に永遠の命を与える代わりにこの聖なる酒を堕落させる作戦に打って出たわけです。当時の欧州では蒸留技術は錬金術や魔法のように考えられていました。旧約聖書のレビ記には魔法や占いを行なう者は神の怒りを招くとされています。
一介の修道僧がワインを蒸留するということは禁忌に近いものだったのです。悪魔は歳若い修道僧に快楽の味とそれを叶えるための知識を教えて唆したのです。修道僧が醸造した酒は完成と共に忽然と姿をくらましてしまったそうです。そして今もどこかで、その蒸留酒を素にしたウイスキーが密かに世に流れているという話です。
修道僧は悪魔の酒が命の水と呼ばれて世界中に広がっていく様子を見て、深く後悔しました。永遠の命を得た修道僧は数多あるウイスキーの中から悪魔の酒を見つけ出すために、いまだに地上を彷徨っているそうです」
私は酒に酔った頭で青年の言葉を思い出していた。自分は「流れ者」だと青年は言った。その現代には似つかわしくない表現が示すところが今になって明らかになったようだった。
青年はそのまま椅子から立ち上がって一礼すると、酔いを感じさせない足取りでナイトクラブを後にした。遥か昔から一本の酒を探し求めて放浪を続けているという修道僧の遍歴に思いを馳せながらタバコに火を点した。
それまで一言も語らずに黙々(もくもく)とグラスを磨いていたマスターが、カウンターに一本のウイスキーボトルを置いた。紫煙に目を瞬かせながら、ラベルに踊るロゴを凝視していると、それはやがて歪に曲がりくねり、不可思議な像を結んでいった。誇らしげに鷲鼻を掲げる白髪の老人の姿がそこにはあった。
―ああ、これが噂の悪魔の酒か―
私の思案顔を見るとマスターは満足そうにうなずいた。心地良い疲労感に包まれながらどっしりとしたカウンターに突っ伏して瞼を閉じる。私はじきに深い眠りに落ちていった。
(了)