地獄騒動
見渡すかぎりの焦土に亡者の列が遥々(はるばる)と続いている。地獄の茹だるような暑さに堪えかねて皆一様に怨嗟の呻きを漏らしていた。
それもそのはずである。浮世でいくら罪を重ねた咎人であろうとも、沙汰が言い渡されるまでは呵責を被る要はない。亡者たちはいわば因果のない苦痛に苛まれているのである。固く閉ざされた閻魔省庁の門扉は一向に解き放たれる気配がない。
閻魔省庁の書記官である司録と司命はすれ違う亡者の剣呑な目つきから、事態が急を要すると覚ると、道服の裾を翻して省庁の渡り廊下を駆け抜けた。
上役である閻魔大王に事の次第を報せなくてはならない。省庁が機能を失えば亡者たちが暴動を起こす可能性すらある。そうなればいくら頑強な鬼といえども多勢に無勢。最悪の場合、地獄の釜の蓋が動きかねない。司録と司命は省庁の広大さを恨めしく思いながらも、ついに最後の扉の閂に手を掛けた。
「大王に謹んで申し上げます。省庁の前に亡者が列をなしています。直ちに門扉を開く必要がございます。やや、これはいかがいたした?」
司録と司命が恭しく口上を述べて、深く垂れていた頭を上げると、そこには思いがけない光景が広がっていた。
御簾は打ち落され、文台はひっくり返され、硯箱は中身をぶちまけられている。大王の御前に控えているはずの鬼も慌ただしげにあちらこちらを走り回り、閻魔大王に至っては気色を失って呆然と立ちつくしている。二人の書記官は顔を見合わせると奇しくも全く同じ疑問を口にした。
「一体全体、これはどうしたことか?」
肩を落として意気消沈していた大王は二人の官吏の姿を認めると素っ頓狂な声を上げながら駆け寄り、言葉に詰まりつつも経緯を話し始めた。
「浄玻璃の鏡のリモコンが見つからないのだ。今朝がたから鬼たちにも探させているのだがどこにも見当たらない。亡者たちが列をなしていることは知っている。だが、彼らの生前の所業を詳らかにするための鏡の電源が入らないままに省庁に招き入れるわけにもいかないだろう」
二人の書記官に縋りつくように言い訳をしてみせる大王の顔にはかつての威厳に満ちた面影はない。行方知れずになったリモコンと共にどこかへと失せてしまったのだろう。
「大王、どうか落ち着いてください。昨日のことをよく思い出すのです。最後にリモコンを手にしたのはいつのことだったかを教えてください」
司録と司命は強いて明るい声を絞り出しながらも閻魔大王に問い掛けるが、状況が好転する様子はない。首を傾げるばかりで芳しい回答が見込めない大王にかぎりを付けると賢い書記官たちは黙って傍らを離れ、忙しなく辺りを駆け巡る鬼の群れに紛れていった。
「あったぞ。あったぞ!」
幾ばくかの無為な時間が過ぎ去った後に、一匹の鬼が歓声を上げた。手には高々(たかだか)とリモコンが掲げれている。
「でかした。でかしたぞ!」
司録と司命は急いで鬼の手からリモコンを奪うように取ると浄玻璃の鏡に向けてボタンを押した。しかし、鏡が反応を示すことはない。二人の脳裏を過った考えは同じだった。
―まさか電池が切れているのかー
書記官の悄然とした気色を見て取ると屈強な鬼たちの間にも動揺が走った。これでは亡者たちを裁くことはできない。亡者たちの怒りは頂点を迎えようとしている。外から聞こえてくる呻きは罵りに変わりつつある。一触即発の雰囲気が省庁の内にも漂い始めたころ、それまで黙って座っていた閻魔大王が司録と司命のもとへ歩み寄ってきた。
「大儀であったがもはやこれまでである。これより先のことは他言無用であるぞ。苦肉の策ではあるが、亡者たち全員を極楽に送ることにする。鬼たちは速やかに省庁の門扉を開放するように」
前代未聞の裁きを行なうと提言した上役に地獄の書記官は猛然と反対をした。それでは閻魔省庁の存在意義を失うことになる。司法機関が地に落ちてしまえば次に起きることは分かりきっている。問題を先送りにするだけでは解決とはいいがたい。いったいどうしてそのような判決を下すことにしたのか。
閻魔大王は渋面しながらも、なおも食い下がっては理由を問い質そうとする書記官たちに向かい、声を潜めてため息交じりに言うのだった。
「お前たちの言い分はもっともだ。だが、仏を欺くのは容易くとも衆生を騙すとなると後が怖い。それより早く電池を買いに……」
(了)