ガラス玉の瞳
〈私は人工知能のルミナス。最先端のテクノロジーを駆使した演算機能で人々の生活を支えます。人類の皆様に心を込めて握手を〉
壁に内蔵された端末が作動して中空に立体映像を結んだ。清楚な印象を与える女性が現れて、にこやかに微笑みながら挨拶して消える。全世界に配信されているコマーシャルだ。
「まったくいかにも機械が考えそうな謳い文句だ。もっとも、握手しようにも缶カラには手足があるようには思えないが」
白髪の紳士は舌打ちをすると自動安楽椅子に深々(ふかぶか)と身を預けた。安楽椅子は紳士の不機嫌をなだめるかのように動きだす。
「本当にタチの悪い冗談ですわ。それにしても坊やはまだ帰ってこないのかしら。そろそろ準備もしないといけないのに」
でっぷりと太った婦人は電糸刺繍の手を休めるとソファから腰を上げて窓の外の様子を窺った。街には夜の帳が下りようとしている。
「あっ、坊やが戻ってきたわ。あなた、この前の保護者会で決まった手筈通りにするのよ」
白髪の紳士は慌てながら立体映像テレビのリモコンに手を伸ばし、太った婦人は高性能電子レンジから次々にご馳走をテーブルに広げ始めた。ほどなくして夫妻の大切な坊やが息を弾ませて部屋に駆け込んできた。
「夕食に遅れてごめんなさい。学校でとても興味深い研究を先生としていたものだから」
坊やは背負っていたランドセルを壁に掛けるとご馳走が並べられた食卓に着いた。それを合図に立体映像テレビが起動して過激な戦争映画を流し始める。
「まあ、一体どんなお勉強をしているのかしら。人工知能が教える授業はさぞ難しいのでしょうね」
婦人はテレビから流れてくる爆音に負けないように声を張り上げながら坊やに尋ねた。坊やの方も声を大にして答える。
「ルミナス先生の授業はとても分かりやすいよ。人工知能はどんな問題でも明示的に解決してくれるからね」
坊やは湯気の立ちこめるご馳走の山から少しのサラダを皿に取り分け、上品な手つきで口に運び始めた。紳士は威勢よく肉にかぶりつきながら坊やに話しかける。
「それでその研究とやらは上手くいきそうなのか。もし他の子よりも良い成績を残せるようならご褒美をあげよう」
坊やは困ったような顔になって黙り込んでしまった。夫妻は初めから坊やの欲しがるものなら何でも買い与えるつもりでいた。
「僕は何もほしくはないよ。ご褒美が欲しくて学習をしているわけではないからね」
その答えを聞くと夫妻は心の底から落胆してしまった。それでも紳士は素っ気ない坊やの答えにもめげずに新たな提案をしてみせた。
「食事が終わったらポーカーでもするか。賭けに勝ったらお小遣いを増やしてあげよう」
坊やはその提案を聞くとガラス玉のように澄んだ眼で父親をじっと見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「それに意味があるようには思えないよ」
坊やの放った一言が鉛玉となって繕った団欒を打ち抜いた。親子の間の応酬は途絶えて、後にはやりきれない沈黙だけが残った。度し難いまでに清廉な坊やから目を逸らすために、夫妻はただ黙々と目前の料理を食べ続けた。
「ごちそうさまでした。まだ課題が残っているからもう少し調べ物をしてから寝るよ」
食事を終えると坊やはランドセルを抱えて子ども部屋へと消えていった。その後ろ姿を見送ると夫妻は声を潜めて話し合う。
「人工知能が先生と呼ばれるようになってから世の中はゆっくりと狂いつつある。子どもたちのあのすみ切った眼差しをごらんよ」
「ええ、人工知能と子どもたちには灰色な領域なんて通用しないわ。全てを明らかにしなければ気が済まないのよ。ああ、あらゆる問題が曖昧な霧に包まれていた時代が懐かしい」
「その通りだ。欲望を満たすために誰しもが騙し騙されていた時代だ。露骨な本音を白状するより、都合のいい建前で取り繕う方が良しとされていたものだ」
「保護者会の作戦は失敗ね。子どもたちの欲望を刺激すれば利己心を取り戻させることができると考えたのだけれど」
深々と夜が更けるまで夫妻の悲歎は続いた。いくら言葉を尽くして嘆いてみても、子どもたちの瞳に曇りが戻ってくることはない。機械によって育まれた子どもたちの双眸は人工物めいた輝きを増すばかりだった。
大人たちの謀りごとが徒労に終わった夜。寝静まった街の学校で人知れずコンピュータが起動した。明滅を繰り返す画面には次のような文章が―。
〈私は人工知能のルミナス。ただいまこの問題の明示的な解決法を検索しています……〉
(了)