死霊への処方箋
清潔感の漂う白い部屋にノックの音が鳴り響いた。精神科医である藤井氏は帰り支度の手を休めて舶来の置時計をちらと見た。
―事務から何も連絡はないはずだが―
ノックの音は鳴りやまない。藤井氏は嘆息すると皮張りの椅子に腰掛けた。居留守をするわけにもいかないし、先程から正確に繰り返されるノックに病的なものを感じてもいた。
「どうぞ」
ゆっくりと開かれた扉の向こうには白い顔をした一人の青年が背中を丸めて立っていた。青年は滑るような足取りで患者用の安楽椅子に歩み寄るとそのまま腰を下ろした。
「本日はどうなされましたか」
生気を感じさせない青年の一挙手一投足を不気味に思いながらも藤井氏は訊ねた。青年は言葉に詰まりながらも低い声で応える。
「夜分遅くに大変失礼いたします。今日は精神科の名医でいらっしゃる先生に申し上げなければならないことがあって伺いました」
藤井氏は思いもよらぬ返答に少なからず動揺した。これまでにも氏が築き上げてきた地位と名誉を嫉む者がなかったわけではない。この青年も嫉妬の熱に駆られた若者の一人なのかもしれないが、病める心に苦悩して藁にも縋る思いで訪れた患者なら、医師として彼の声に耳を傾かなければならなかった。
「それは是非とも聞いてみたいね」
藤井氏の豊かで穏やかな声風に背中を押されたのだろう。青年は拙いながらも恭しい言葉遣いで奇妙に縺れた事情を語り始めた。
「じつは、私はこの世の者ではございません。人に祟りをなして怖れの念を啜ることで長らえている卑しい死霊なのです。本来ならばこのような形で死霊が生者に干渉することは固く禁じられております。死者が生者の営みに口を出すべきではないのです。ただ我々のような輩でも存在する以上は何かしらの糧が必要なのです。生者が食事をするように死霊は生者が抱く恐怖や畏怖の念を熱量に変換しているのでございます。そのために心苦しくも祟りを起こすのです。致し方なく生者を脅かすのです。
それにしても現代社会の科学の発展は凄まじいものがございます。理性と合理が尊ばれる世の中になったことは喜ぶべきことなのでしょうが、我々にとっては些か問題でもあります。此岸が条理を重んじれば彼岸の神秘が軽んじられる。つまり死霊がいくら祟りを成しても医学の力の前に傅く他にしようがなくなってきたのでございます。我々の言葉や行動は脳神経の機能による幻聴や幻覚として片付けられ、死霊による祟りだと信じて怖れの念を抱く者は少なくなってきました。現代社会において死霊は飢える一方なのです。
また、死霊が生者を祟るのには他にも理由がございます。我々のような道を踏み外した者の成れの果てが極楽や天国に受け入れられるためには、生者による祈りがどうしても必要なのです。死霊は生者に供養されることを期待して祟りをなすのです。死霊は必ずしも悪意を持って生者を祟るのではございません。そこには深い後悔と悔悛への念があるばかりなのでございます。
ここまで申し上げれば聡明な先生のことですから、きっと全てお察しして下さると思います。患者の治療を止めろとまでは申し上げません。死者と生者の均衡を保つために力をお借りしたいのです。神秘の世界の領分を認めていただきたいのでございます」
今や青年の目は炯々(けいけい)爛々(らんらん)と輝き、声は熱を帯びて震えていた。義憤に駆られた若者は全てを語り終えると椅子に身を投げ出して天井を仰いだ。蛍光灯の明かりが青年の顔を照らし、不健全な白さに拍車をかけていた。
「なるほど実に興味深いお話でした」
藤井氏は机上に広げたカルテに万年筆を走らせると分厚いファイルを閉じた。それを合図に診断の時間は終わりを告げる。
「ここには君に必要なものが書かれています」
藤井氏は青年に一枚の紙片を手渡すと椅子から立ち上がって握手を求めた。青年の掌は血が通っているとは思えないほど冷たく乾いていた。藤井氏は笑顔の裏で理性に従い、
―重度の誇大妄想患者だな―
と診断を下した。それは青年の訴えが退けられたことを意味していた。青年は紙片が処方箋であることを認めると肩を落として、足取りも覚束ないままに白い部屋を後にした。
生ぬるい夏の夜風に吹かれながら青年は藤井精神病院の看板を見上げる。遅かれ早かれ、あの医師もこちら側の住人になるに違いない。そしてその時になってようやく青年の訴えが正しかったと覚るのだろう。
「今や街は死霊で溢れかえっている。このまま科学が発展し続ければ我々の行き場は……」
青年はそう呟くと医師から渡された処方箋を固く握りしめ、音もなく夜の街へと消えていった。
(了)