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落第生万歳  作者: 胤田 一成
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 遠くで生徒たちが部活動に励む声が響いている。(あかね)(いろ)に染まりゆく職員室に残されているのは、この公立中学校で教頭(きょうとう)を務める中井(なかい)(かおる)のただ一人。夏季休校中とはいえ教職員は多忙であり、猫の手も借りたいほどである。中井教頭(なかいきょうとう)はカップの珈琲を飲み干すと、深いため息をつきつつも椅子から立ち上がった。

 斜陽の影も色濃い廊下を渡りながら中井教頭(なかいきょうとう)は考える。この夏に辞職した国語科の非常勤講師である金田勉(かねだつとむ)のことを。秋から始まる授業の引継ぎを一通り済ませると金田(かねだ)は煙のように姿を隠してしまった。責任感の強い青年だと見込んでいただけに、まさか私物の整理もしないまま、雲隠(くもがく)れしてしまうとは、中井教頭(なかいきょうとう)も思ってもみなかったところであった。精神病を(わずら)ってしまったという噂であるが、現場を(まか)されている身としては迷惑なことこの上ない。

 ―これほど弱いとは思わなかった―

 非常勤講師とはいわばボランティアやインターンシップのようなもの。正規職員になれば相応(そうおう)の苦悩や面倒も(ともな)ってくる。非常勤講師の過程で精神を病んでしまうようなら、この職にはそもそも向いていなかっただろうと中井教頭(なかいきょうとう)は思う。

 ―精神を病んだと言っていたが、それで(すべ)てのしがらみから解放されるのなら(うらや)ましい限りだな―

 心無(こころな)見解(けんかい)ではあるとは分かっているが、中井教頭(なかいきょうとう)には精神疾患というものは、責務から逃れるために(こしら)える、()(わけ)であるようにしか思えなかった。金田(かねだ)もまた、都合(つごう)()い理由を思いつき、そびえ立つ壁から逃げたに過ぎない。中井教頭(なかいきょうとう)からすれば金田(かねだ)は甘ったれの小僧であり、苦難を前にして挑みもせずに逃亡した裏切り者であった。

 裏切り者の代償は教頭(きょうとう)が支払うことになった。金田(かねだ)の残していった教材や私物を整理する(つと)めを負う羽目(はめ)になったのである。国語科準備室は彼のアトリエと化していた。書写の授業を受け持っていた金田(かねだ)は放課後になると、この部屋に(こも)り、黙々(もくもく)と筆を振るっていたらしい。アトリエを整理するのに、ほぼ丸一日を(つい)やしたことを考えると、これから向かう先への足取りは自然と重たくなるのであった。

「お疲れ様です。甘ったれ君の尻ぬぐいですか。大変ですね、手伝いますよ」

 職員用ロッカールームの戸を引くと部活動指導を終えたばかりの教員たちが着替えをしていた。いまだ若い彼らの(ひたい)に輝く汗を見る度に中井教頭(なかいきょうとう)(みずか)らの老いを()()めずにはいられない。自分にはもう生徒たちと共に校庭を駆け回る機会は訪れないのだろう。

滅多(めった)なことを言うもんじゃないよ。彼なりに頑張ってくれた結果なんだから」

 管理職として一応(いちおう)の注意をしたが、

 ―やっぱり甘ったれだよな―

 胸中(きょうちゅう)は皆同じらしいことを知って少なからず安堵(あんど)した。

 ロッカールームは数少ない教員たちの(いこ)いの()でもある。久しぶりに足を運んだが相変(あいか)わらず雑然(ざつぜん)としていた。各々(おのおの)の個性で(いろど)られているが、雑多(ざった)な中にも一つの調和があり、不思議な居心地(いごこち)()さがある。子どもを中心として(にぎ)やかに(いとな)まれる工房。中井教頭(なかいきょうとう)はそのような印象を(いだ)くと共に、一方で金田(かねだ)の手によって(いろど)られたアトリエである国語科準備室の荒涼(こうりょう)とした様相(ようそう)を思い出し、密かに比較せずにはいられなかった。

 金田(かねだ)の名札の貼られたロッカーの前に立つと中井教頭(なかいきょうとう)は心中に去来(きょらい)する暗雲(あんうん)を払うような思いで戸を開けた。

 ロッカーにはほとんど何も入れられてはいなかった。一冊の(あか)じみた本と一本の()びついた(きり)。それで全部であった。

 中井教頭(なかいきょうとう)はこの本に見覚えがあった。教育現場に似つかわしくないその本は(まぎ)れもなく聖書である。何度も(めく)られたのだろう。折れたり、切れたりしている箇所(かしょ)もいくらかある。中井教頭(なかいきょうとう)付箋(ふせん)の挟まれた(ぺーじ)を開いてみた。薄い紙が破けそうになるほど執拗(しつよう)に赤鉛筆で囲われた(せつ)があった。


「死は勝利にのまれた。死よ、お前の勝利はどこにある。死よ、お前の刺はどこにある」死の刺は罪である。また、罪の力は律法である。


 中井教頭(なかいきょうとう)背筋(せすじ)を冷たいものが(つた)った。(あか)()りから()()斜陽(しゃよう)が、(きり)(さび)を赤々(あかあか)と照らしている。それは(こころざし)(なか)ばで(ひざ)(くっ)した若い講師の血の残滓(ざんし)であった。誰とも分かち合うことなく築き上げた世界の中で、孤独に懊悩(おうのう)する若者の姿がそこにはあった。ロッカーの中には狂気(きょうき)()められていた。解放された(よど)みは、今や行き場を求めて()()で始めた。最終下校時間を告げるトロイメライが夕陽(ゆうひ)に染まる校内に静かに流れ始めた。                    


 (了)




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