ある亀の思索
爬虫類綱カメ目イシガメ科イシガメ属に分類される亀。和名をクサガメというが我はかねてよりこの名前に甚だしい憤りを抱いている。この和名は我らの同胞が刺激を感じると四肢の付け根から強い臭気を発し、外敵から逃れようとするという生態をして命名されたようである。
しかし、我のごとく人間の主人によって育まれ、適切な食事を摂り、適温な水質を泳ぐことで、この忌むべき習性は全く解消される。
一部の連中がワキガであるという一事をことさらに取り上げて、我々のごとき飼い亀のことなど一向に顧みぬ態度。臭くない亀は名を持ってはならぬ、とでも言いたいのだろうか。あまりに短絡的で浅はかな思考に失笑千万。全くもってけしからん。
我が主人であるイノウエ氏はそのけしからん人間の代表ともいえる。しかし、この名前の件については一考の余地を残しているといえよう。イノウエ氏は我のことを頑としてクサガメなどという不名誉な和名を授けられた亀と認めようとしない。とうの昔に成体となった我をいまだにゼニガメという、あの風情の漂う懐かしい幼名で呼ぶのである。
ゼニガメとはクサガメ乃至二ホンイシガメの幼体だけに授けられる誉れ高い名であって、決して我のごとく成体となって久しい亀が名にし負うものではないのだが、彼がその事実を知っているか否かは怪しいものである。我としてはいつまでも嬰児扱いされているようで密かに恥を感じているのだが、イノウエ氏がそれを覚る気配はない。
イノウエ氏は我のことをしばしば「ヤナギ」と呼ぶ。それが愛玩動物として飼われるものに押される烙印であることは知っている。所謂、渾名というやつである。
頬に差す斑紋は目にも鮮やかな青柳色、甲羅も新緑の葉色を思わせる柳茶色であるから、そのように呼ばわれるのかと思っていたが、我が主人の感性はそれほど高尚ではなかったらしい。信奉する恩師の姓名一字に因んで名付けたに過ぎないと知ったときは、我ながら情けなくなってしまった。それにしても敬愛する師の名前を自らが飼う愛玩動物に授けることが、不敬にあたるかもしれないとは考えを巡らせなかったのだろうか。我が彼の師ならはっきり不快である。
もうお気づきだろうが我はこの主人、イノウエ氏を嫌悪している。そればかりか侮蔑しているといっても過言ではない。
イノウエ氏には誰しもが多かれ少なかれ備えているだろう徳というものが先天的に欠落しているのである。もっともこのような表現は本意ではない。それは彼に対する同情とかではなく、徳無き者という表現が、其れ即ち悪党だ、という誤解を往々(おうおう)にして生じさせるからである。悪徳もまた徳なのである。イノウエ氏は悪徳すら持ち合わせていない。
我からすればイノウエ氏は世紀のぼんやり者である。熱くも冷たくもない、いつまでも生ぬるい者こそが彼である。三十センチ四方のプラスチック製の水槽が我の知る世界の全てであるが、彼のごとき半端な人間はこの世に二人といないと断言できる。
イノウエ氏には生き物を慈しむという心が欠けている。幾日も食事を与えるのを忘れていると思いきや、食べ切れぬほどの馳走を無闇矢鱈にばらまいたりする。水が糞尿で濁ってきても知らん顔をしていると思いきや、突如として高価なろ過機を与えたりすることもある。当人は恩師の名を授けた亀を充分に愛でているつもりでいるらしいが、たまったものではない。斯様なむら気のある愛情を注がれても、こちらとしては迷惑なだけである。
我が主人は愛情を自身に都合の良いように解釈している節がある。早々(そうそう)に恋人に見限られ、逃げられたのも当然の顛末といえよう。イノウエ氏はこれをきっかけに人間不信に陥り、挙句の果てには職を辞した。今や、彼は全くの腑抜けとなり、ひたすら自身の境遇を嘆きつつ日々を過ごすばかりである。
目も当てられぬような主人であるが、それでもかつては秀才として認められていたことは確かである。彼はしばしば恩師の名を冠した我の前にかしずき、自身の至らなさを懺悔することがある。恩師が寄せていた期待を裏切り、堕落した己を恥じる気持ちはあるらしいが、それも長続きしたためしがない。彼の告解は口ばかりの反省であり、己が行いを正そうという気概は窺えない。
とどのつまり、我が主人であるイノウエ氏は全くもっておめでたい人なのだ。眉間に皺を寄せて常に何かを深く憂慮しているようであるが、その実態は驚くほどの空虚なのである。最近は文机に向かって熱心に書き物をしているようであるが、それが実を結ぶことは決してないだろう。絶望と落胆を繰り返しながら、彼は何処にも辿り着くこともなく、うろうろと低徊し続けるに違いない。偉大な師の名を頂に冠した水槽の中の亀のごとく……。
(了)