チョコレートと失恋と冬の夜の海③
ある程度店を回って、創哉と穂波先輩に渡すチョコの目星がついた。取り置きができるそうなのでお願いし、バレンタイン前の土日に受け取ることにした。
「いいものが見つかってよかったね」
「はい。よかったです」
冷かしていたのは半時間ほどだったので、まだ時間までに余裕がある。この前は行けなかった笠折さんの行きたいところでも行こうか。そう提案しようと笠折さんのほうを見ると、視線をゆっくりそらされた。でもそれは無視とかではなくわざとらしい何かが含まれていた。
「――あ、少し忘れていたことがあったので、待っててください」
宙を見ながら笠折さんは言う。一緒に行くよと言うのはこの場合野暮なのだろう。
「わかった。じゃあ、すぐそこの本屋さんで待っているね」
僕の返事を聞くと安心したように笠折さんは頷いた。そして、踵を返して売り場のほうへ戻っていく。
完全に姿が人混みに紛れたのを見とどけて、僕は小さく息を漏らした。
「――僕はどうしようかな」
どうせなら手作りで渡したい。近いうちに板のチョコレートを買って、たくさん練習しよう。今の時代ネットでも調べられるけれど、レシピ本でも買おうかな。ひっそりと息をしているように建っている古書店と違い、駅の向かいにある本屋は大きい。笠折さんの忘れていたことがどのくらい時間がかかるのか分からないから、出入口の近くにコーナーがあるといいんだけれど。僕は足取りを軽くして百貨店から出た。
しかしいつまで経っても笠折さんは来なかった。連絡先は渡しているから何かあったらかけてきてもおかしくないのだろうけど、そんな簡単にかけてくる笠折さんではない。何かトラブルがあったのだろうか。それとも単に用事が終わっていないだけなのだろうか。はっ、まさか――。
急いで本屋から出る。時間にしては三十分ほどだったのに息が詰まる思いだ。幸いなことにサイレンの音は聞こえない。ざわついた空気もない。救急車で運ばれるようなことは起こっていないようだ。それだけでも安心だけど本当に何もないことを願う。
「笠折さん!」
ようやく見つけた笠折さんは、ソファが置かれている休憩スペースでうずくまっていた。遠巻きに見ていた人たちは連れである僕を見ると立ち去って行った。不埒な輩にナンパされなかったのは良かったけれど、冷たさのほうが感じられた。笠折さんにとっては知らない人に声をかけられなくて良かったのだろうけれど。
「……ごめん、崎村。随分待たせちゃったよね」
「笠折さん」
膝をついて顔を覗き込むと青い色をしていた。思わずとってしまった手が、屋内なのにとても冷たい。
「暖かいところに行こう。それとも、加瀬さんのところに戻る?」
少なくとも、こんな場所に留まる必要はない。約束の時間まではあと一時間もないけれど、温かい飲み物を飲む時間ならある。自販機で買って、くれない書房に戻ってもいい。こんな人通りの多い場所は心に良くないだろう。
笠折さんの返事を待つ。ほんの少し長い間があいて、笠折さんは小さくのどを震わせた。
「……ここで大丈夫。人目がないところだと、どうなっちゃうかわからないから」
「……分かった。じゃあせめて、温かいものを飲もう。自販機のでいい? それとも近くのコーヒーショップでテイクアウトしてこようか?」
「ここの自販機で大丈夫。それから、私も買いに行けるから大丈夫」
「うん、分かった」
ゆっくり笠折さんは立ちあがった。僕も立ち上がる。休憩スペースに設置されている自販機で温かい飲み物を買った僕たちは、またもとのソファに戻った。
「何か嫌なことあったの?」
「直接きますね……」
「だってそうじゃないと、言ってくれないと思って」
そう努めて明るく言うと、笠折さんはふっと目を細めた。
「……また、会ったんです。会ったというか、偶然近距離で見かけてしまったというか」
「また?」
嫌な予感がする。こんな風に不安げになっているのは文化祭の時以来だ。
「初恋の人が、女性と仲睦まじげにチョコレートを見ていたんです」
「……そう、なんだ」
――分かっていた。笠折さんをこんな風にさせるのは、いつだってその初恋の人なんだ。
「それを見て、私――、私」
笠折さんはペットボトルの紅茶のキャップを回して一口飲んだ。天井から吊り下げられている赤色の広告をぼんやり瞳に映して、またゆっくりと僕のほうを見た。
「おかしくなってしまったんです」
困ったように、今にも泣きそうに、笠折さんは笑った。
笠折さんが笑ったところを見るのは、これが初めてだった。
「私の初恋は中学の時だったって話はしたよね」
「うん。聞いたよ」
「どんな人だったかは言ってなかったよね」
そうだ。笠折さんが初恋の人と遭遇した時、僕はいつも後から笠折さんを見つける。直接見たことはない。大人、とは言っていたけれど。
「彼は五つ上の大学生で、中学二年の秋から中学三年の夏まで私の家庭教師をしてくれた人です」
「大学生……」
大学一、二年生くらいだろうか。確かに中学生と大学生では、子どもと大人だろう。
笠折さんは目を閉じた。まるでまぶたの裏に思い浮かべているように、それでもつらつらと言葉が紡がれていく様子を見ると、鮮明に覚えているのだろうか。
「私、友達がいなかったんです。私がおかしかったから。私が、自分自身を否定してしまったから。自分から距離をとってしまったから」
笠折さんは目を開けた。
「家庭教師の先生が来る日。その日のためだけに、毎朝ちゃんと起きて、学校に行って勉強して、頑張って生きていました。親も直くんも、とても大切な存在だけれど、生きがいにはならなかったんです」
恋をしているとき。好きな人がいたとき。その時が、その日々が、おそらく人生で、一番幸せで一番眩しい時だった。だからもう、幸せを感じるときなんて来ないよ。
笠折さんの言葉が脳で反芻される。
今なら僕にも分かる。好きな人が占める心の割合がどれほど大きいかを。朝起きるのがどれだけ楽しくなるかを。風邪をひかないよう気をつけるかを。会えない日も、会える時のために頑張ろうと思える力をくれることを。
――でも。
「彼はとても優しい人でした。だから私は、勘違いしてしまいました」
「……勘違い?」
笠折さんは苦し気に顔をゆがめた。
「教え子以上の感情をもってくれるんじゃないかと、思ってしまったんです」
また自嘲を浮かべる。世界から居場所がなくなったかのように、小さく痛々しく笑う。
「崎村ってさ、凄く真っ直ぐ――ほんとにまっすぐ、私に気持ちを向けてくれてるよね」
突然僕の話になって思わず目を見開いてしまった。笠折さんはそんな僕を気にせず、言葉を続ける。
「それが怖いの。すごく怖いの。私の知ってる恋じゃないから。私は私が分からない。どうしたらいいかわからない」
おそらくとても勇気のある告白だったのだろう。僕は少し間をおいて、尋ねた。
「笠折さんの知ってる恋って、どんなの?」
「――秘めるもの。言ってはいけないもの。気づかれてはいけないもの」
「一方通行ってこと?」
「……少なくとも私にとっては、そうです」
「どうして、伝えなかったの?」
「え……?」
驚いたように、傷ついたように僕を見る。
そうだよね。僕がこんな冷たい声で、厳しいことを言ったことなかったもんね。でも、やっぱり。むかついてしまったから言う。
「告白しようと思わなかったのは、その人が大学生だったから? それとも、何か別の理由?」
「それ……は」
「確かに大学生が未成年と付き合うのって世間体は悪いよね。でも、伝えるくらいはできたんじゃない?」
「……なんで崎村、怒ってるの」
「僕が少数派なことは分かっているよ。何度もアタックするのは確かに勇気がいることだと思う。ううん、一回だけでも十分に怖いことなんだろうね」
それでも。
「笠折さんの奥ゆかしいところも、時々とても行動的になるところも、僕は好きだよ。友達相手に頑張ろうとしている姿をとても好ましく思うし、応援したい」
――それでも。
「笠折さん」
名前を呼ぶ。
「今日は楽しかった?」
ぐらつくように目の前の瞳が揺れる。ああ、やっぱり。
「言い返せない時点で、ダメだよね」
僕は醜い笑みでそう心を打ち砕いた。
「今が楽しいなら、何も言わないんだけどね」
何も言わない笠折さんに、次々と傷をつけていく。
「勝手に終わった気になって、全然引きずっていて、今の日々が楽しくないくらいなら言ってしまえばいいじゃないか」
溢れ出る。
「心の底から楽しめないなら、周りを見れないくらいなら、忘れられないくらい囚われているのなら、言ってしまえばいい」
嫌な自分が溢れ出る。
「どうしたらいいのか分からないなら、創哉や穂波先輩と友達になっても分からないなら、四か月僕と過ごして何とも思っていないのなら」
涙の代わりに、酷い言葉が溢れて止まらない。
「思いを伝えたら、いいじゃないか」
大好きな人の虚を、嫌いなところを、正確に突いてしまった。




