本の精霊と告白と友達①
初めは高校の図書室。次は自転車で二十分の市立図書館。一昨日は高校の近くの本屋。そして今日は初めて訪れた、繁華街でひっそり息をしている古書店で。
――また会った。
夏休みに入ってから何度見かけただろう。薄幸そうな顔をした同級生。クラスは知らない。正直、学校でも図書室以外で見かけた記憶がない。学年色のネクタイが同じ色だから同級生と判断しているだけだ。
背伸びをして、上のほうにある本を取ろうとしている。台は近くにない。あと数センチ。届かないみたいだ。
この本ですか――なんて言って、かっこよく取れたらいいんだろうけど、勇気が出ない。結局自力で本を取り、さっさとレジへ向かってしまった。
本の精霊なのかと本気で思うくらい、不思議な同級生。別にどうこうなりたい訳ではないけれど、どうしてか気になった。
「全クラス探せばいいのに」
「それは違う。偶然出会うからこそ良さがあるだろう」
「調べまわるほうがよっぽど健全だよ。ストーカーにだけはなるなよ、佑飛」
中学からの友人、竹蔵創哉は肩をすくめた。失礼な奴だな、と思わず顔をしかめたけれど、実際ストーカーになった時悔しいから否定の言葉は紡がなかった。それに何だか「逃げている」と指摘されたような気がした。
「その子がどんな子か知らないけどさ、おまえが他人に興味示すこと滅多にないから新鮮だわ。仲良くなれるといいな」
創哉はそう言うとグラスに残っていたメロンソーダを飲み干し、再びプリントに視線を戻した。
夏休み最終日午後三時、僕と創哉はファミレスで数学のプリントに取り組んでいた。
方程式というものは難解だ。どれだけ意味の分からない文字が並んでいても、イコールでつながれている限り答えが出てしまうことだ。もちろん、習っていないだけで例外があるかもしれない。それでも、自分が間違えない限り宿題に出された数式は答えが出てくる。
僕と本の精霊との距離。この差はゼロになるのだろうか。それとも、イコールではなく不等号で結ばれてゼロよりも大きい値になるのだろうか。
氷が解けて薄くなったアイスティーを口に含む。すぐに飲み込まず数秒口の中で転がしてふと、声を聞いてみたいと思った。図書室も図書館も、声を出してはいけない場所。本屋や古書店は、用事がなければ声なんて発しないし、発するところを運良く聞けるとは思えない。
明日から新学期だけれど、果たして会えるだろうか。一学年全員で約二百八十人。自分のクラスの人以外とあまり交流がなく、親しいと言えるのは創哉と部活の先輩くらいしかいない。ほんの少しだけ、交友関係を広げていればよかったと思う。
「佑飛、最後の問題解けたか?」
「なんとか。公式使ったらいけるはず」
余裕をもって始めたはずなのに最終日まで残ってしまったプリントを片付けながら、明日が待ち遠しいという不思議な感覚に包まれていた。
会えたらいいなとは思った。あわよくば声を聞けたらとも思っていた。今日の星占いは三位だった。でも、ここまでしてくれだなんて、頼んでいないだろう神様。
本の精霊が今、隣に立っている。
始業式は体育館で行われるため、移動で混雑する。特に式が終わった後体育館から出る時は酷く、気を遣う。一応学年が高い順から教室に戻るようになっているので、一年生しか周りにいないのだけれど。創哉はスイスイと人込みを抜けていくが、僕にそんな技術はない。結局列の最後のほうになり、体育館シューズから上履きに履き替える人待ちで立ち止まることになった。
そんな中、ふと首を左に傾けると、そこにいたのだ。
――思ったより、身長低くないな。昨日見かけた時は背伸びしていたから小さいように感じたけれど、平均近くあるだろう。それでも、線の細い身体が身長まで小さく感じさせる。
無言でただ前を向いているところから、一人で教室に戻ろうとしているのだと分かった。一人で行動するのが好きなのだろうか。それとも、僕みたいに誰かとはぐれただけなのだろうか。分からないけれど、集団で急に後退してきた時押しつぶされないよう、守る決意を固めた。
まあそんなことはなく、靴を履き替えて顔を上げたらもういなかった。これが体育館に入る時だったなら、何組の列に並ぶか見ることができたのに、と思うも仕方ない。
「崎村」
名前を呼ばれ思わず肩が震える。振り返ると何故か二年生の穂波知世先輩がいた。
「先輩、もしかして待っていたんですか?」
「ああ。土産を先に渡しておこうと思ってな。ご当地ストラップだ」
「うわあ、ありがとうございます」
「棒読みは隠す努力をしろ」
頭をペチンと叩かれ、ストラップを渡される。何度見ても可愛いとは思えないゆるキャラがリンゴにしがみついている。青森にでも行っていたのだろうか。
「先輩、今お土産をくれるってことは、今日部活ないんですか?」
「ああ。どうせ来週締め切りだし無理に集まらなくてもいいだろう。部室に行ってもパソコンは一台しかないのだからな」
僕たちは文芸部に入っている。三年生がいないため、穂波先輩が部長を務めている。他にも何人かいるが――幽霊部員ばかりであまり会ったことがない。ちなみに創哉も一応文芸部ではあるが、弓道部と活動日が被っているため滅多に来ない。
「この調子で原稿集まるんですか?」
十月末にある文化祭で部誌『木犀』を発行する。内容は小説、詩、短歌俳句……と、様々だ。ちなみに僕は小説を出す予定である。
「締め切り日と製本作業時にはちゃんと来るから問題はない。いつもは兼部している人が多いから出席率が低いだけだ」
「水曜日は他の文化部も活動日のことが多いですし、日を変えたらいいのに」
「何を言っているんだ。私はそこを見越して活動日を水曜日にしたんだ」
「人払いする気満々じゃないですか」
お土産は渡すが、基本的に穂波先輩は人間嫌いである。まさか活動日まで調整していたとは。呆れた目を向けると不敵な笑みで返された。
「ま、うちは原稿さえ落とさなかったらいい部活だからな。ちゃんと締め切りまでに完成させろよ」
そう言って穂波先輩は先に行ってしまった。僕も早く教室に行かないと。
夏休みの宿題が回収され、短いホームルームが終わる。明日から通常授業かと思うと、今日が最後の夏休み気分なのだろう。
さて、どうしようか。今日の部活はなくなってしまった。締め切りまでに完成させろと言われても、残っているのは推敲作業だけだ。まあ、推敲したらしたで書き直したくなる部分が見つかるだろうから、早く取り掛かるに越したことはないんだろうけれど。
今日も図書館によってみるか。それから、高校すぐの本屋も覗いてみるか。本の精霊に会えるかは運次第だが、確率は上げていきたい。学校中を調べ回る気はないが、本のある場所を訪れるくらいなら許されるだろう。偶然とは言えないが、必然も偶然も結果は同じだ。
「崎村、ちょっといいか」
「ハルちゃん先生?」
「ハルちゃん先生じゃない。春河先生だ」
担任のハルちゃん先生――もとい春河櫂悟先生に声をかけられる。男なのにハルちゃんと呼ばれているのは、単に先生が高校生と間違うほどの童顔だから。
「崎村、今日おまえ暇だろ?」
「暇かと言われたら暇じゃないです」
「ホームルームが終わって五分経つが、席で一人たそがれている姿はどう見ても暇だろう」
うっ。痛いところを突かれる。
「いつも手伝いを頼んでいる生徒がいるんだが、今日は少し遅れるらしくてな。俺も職員会議があるから、代わりにこの箱持っていってほしいんだ」
受け取った段ボール箱はずしりと重く、何が入っているのと聞くと「古本だ」と返された。
「先生、これ図書委員の子に渡したらいいんですか?」
「いや、そいつは図書委員じゃない。場所も図書室じゃなく、国語科準備室に頼む。場所分かるか? 二号棟四階にあるんだが」
「分かってますよ。ハルちゃん先生はそんな人が滅多に通らない奥まった教室で、いたいけな生徒を……」
「勘違いするな! ああもう、とにかく持って行ってくれ。明日ジュース奢ってやるから」
「はーい」
ハルちゃん先生が生徒にそんなことする人じゃないって分かってはいるが、いじって否定されないと逆に心配になる。段ボール箱をしっかり抱え、教室を出た。
二号棟四階、国語科準備室。こんな部屋必要か? と疑問になるが、同じ規模の社会科準備室には大量の資料や大学の過去問が置かれていたし、たぶん同じように散らかっているのだろう。
「失礼します……って誰もいないのか」
手伝いの生徒、遅れるって言ってたしな。
中は予想していたよりも整頓されていたが、本棚は本やファイルでぎゅうぎゅうだ。
箱は机の上でいいのだろうか。ようやく重みから解放される。ゆっくり下ろし、ふうと息をついた。
外から野球部の声が聞こえる。もうランニングしているのか。暑くないのだろうか。そうぼんやり考えながら、窓のほうへ足を運ぶ。一年の教室も一号棟の四階にあるから高さはあまり変わらないけれど、方角は違う。
ここからなら確か、海が見えるはず――。
「失礼します」
風鈴が風に揺られて鳴いたような、澄んだ声。
それでいて、少しかすれて大人びた、ハスキーな声。
普通なら両立しないだろう。でも、両立して、互いに殺すことなく綺麗な響きを持った声が、部屋を突き抜けた。
「あ……」
――会えたらいいなとは思った。あわよくば声を聞けたらとも思っていた。今日の星占いは三位だった。でも、さっき会えたのに、それだけで三位の効力は使い切ってもおかしくないのに――頼んでいないだろう神様。
本の精霊が今、教室の入り口に立って僕を見ている。
「ああ、あなたが。春河先生が言っていた人ですね。職員室から戻る途中すれ違ったので、話は聞いてます」
ああ。
本の精霊が僕に向けて話しかけてくれている。
本を選んでいるときとは違う優しい表情で。
椅子を引いて鞄を置くときの所作がとても美しくて。
何より、同じ時間を共有できたことが夢のようで。
その大きすぎる多幸感に、僕は、舞い上がって――。
「重かったのに、どうもありがとうございま――」
「好きです付き合ってください」
僕は告白をしていた。