ガ島撤退作戦
昭和十八年一月十七日、ガダルカナル島では最前線の戦況が緩和しました。アメリカ軍の攻勢がおさまり、銃砲声がほとんど聞こえません。
「敵の攻勢ゆるむ」
第一線部隊から同じような報告が相次いで第十七軍司令部にとどきました。アメリカ軍の攻勢に悩まされ、息詰まるような圧迫感の下にいた第十七軍司令部は精神的にやや解放されました。この戦況を第十七軍高級参謀小沼治夫大佐は次のように分析します。
「これまでの経験から推測すると、敵は前線の弾薬を撃ち尽くしたらしい。そうすると敵は攻撃を中止し、新たに弾薬を集積し始める。攻撃再開は十日ほど先になるであろう」
十日間の猶予ができました。戦場心理の不思議さで第十七軍司令部の空気が変わりました。撤退作戦に賛成する雰囲気になったのです。午後、参謀会議が開かれ、撤退作戦を実施することで第十七軍の参謀たちは合意しました。さっそく小沼大佐は司令部を発ち、第二師団および第三十八師団の司令部に向かいました。撤退命令を伝達するためです。
(暴言に耐えた甲斐があった)
井本熊男中佐は自分を慰め、撤退作戦実施のために必要となる命令起案を手伝い始めました。なにしろ第十七軍司令部の参謀は人数が減っているし、長いあいだの欠食で体力も弱っています。井本中佐は越権的だとは思いましたが、積極的に活動しました。なにしろ撤退作戦を立案したのは井本中佐です。誰よりも作戦には詳しい。
「方面軍作戦案では、まず傷病患者を後送し、次いで健常者を撤退させる予定でしたが、これはガ島の現実に合わない。非情なようでも、いまのうちに撤退可能な人員を正確に把握しておくべきです。参謀長、各部隊に歩行可能人数を報告するよう命令を出してください」
要するに身動きできぬ傷病兵を見捨てるのです。第十七軍参謀長宮崎周一少将は苦しげに答えました。
「やむを得まい」
一月十八日、井本熊男中佐は百武晴吉中将から呼び出されました。井本中佐が洞窟に顔を出すと、百武中将が懊悩の表情で座っていました。
「なんど考えても撤退作戦はむつかしい。努力はするが、できないかもしれない。これまで前へ前へと奮闘してきて、もはや軍は半身不随である。この撤退作戦が失敗した場合、わが軍は全滅だ。そうなると誰がガ島の真相を伝えるか。宮崎周一君は有為の参謀長だ。わが軍は彼でもっている。彼を何とかして生かしたいが、良い方法はないか」
百武軍司令官の表情には焦燥の色が濃く、よほど迷っている様子でした。
(まずいな)
井本中佐は憂慮しました。軍司令官の腹が定まらぬようでは全軍が動揺してしまいます。井本中佐はいつになく断ずるように言いました。
「閣下、いまは撤退作戦に邁進するほかありません。どうしてもダメなら、そのとき覚悟を決めれば良いと考えます。また、今この時期に後方に下がれと命じられて下がる参謀はひとりもおりません。閣下、決心はすでに定まりました。あとは断じて行うだけです」
翌未明、小沼大佐が軍司令部に戻ってきました。第二師団司令部も第三十八師団司令部も撤退命令を受け容れたといいます。
「第三十八師団は一月二十一日を期して玉砕するつもりだったらしい。だから参謀連中はみな撤退に反対した。しかし、最後は師団長閣下が大命に従うと決心してくれた。第二師団も同様だ」
師団長の決意は、転進命令となって最前線部隊へと伝えられていきました。
十九日、歩行可能人員数が各部隊から報告されてきました。それを集計すると次のようになりました。
第二師団 約五千名
第三十八師団 約三千名
第十七軍砲兵 約二百五十名
海軍守備隊 約千名
軍司令部 約百名
軍通信隊 約百名
合 計 約一万二千五百名
この数字は井本中佐を驚かせ、悲喜交々の感情を生じさせました。ラバウルで撤退作戦を検討していたときには二万四千名を撤退させる計画でした。そのため駆逐艦だけでは運びきれないという懸念がありました。海トラを使いたいという海軍の言い分にも一理あったわけです。しかし、この人数であれば駆逐艦だけで充分に足ります。とはいえ、撤退可能人員が一万二千名に過ぎないという事実は悲惨でした。のこる一万二千名は激しく衰弱して身動きできない状態で生存しているということです。実に惨憺たる数字です。ともかく、この数字を基礎として具体的な撤退作戦を立案せねばなりません。
作業は徹夜になりました。戦線を維持しつつ、撤退が円滑に進むように、どの部隊をいつ、どこへ移動させるか、それを決めていきます。第十七軍の小沼大佐と杉之尾中佐、そして井本中佐は徹夜で頭脳を働かせました。第十七軍としての撤退命令はこの夜のうちに完成しました。
翌二十日、第十七軍から第二師団および第三十八師団への命令下達が行われました。その場所は、密林の中に張られた天幕内です。
「軍はエスペランス方面に機動して後図を策す」
これが作戦の主題です。後図とは乗艦撤退のことです。作戦の概要は次のとおりです。第三十八師団は二十二日の日没後、現陣地を出発して、後方のエスペランス岬付近に兵力を集結させる。第二師団は二十三日の日没後、主力をもって現陣地を出発、セギロ川左岸に集結する。殿軍の矢野部隊は東正面のコカンボナ付近に布陣して戦線を維持する。
そして、最初に撤退する第三十八師団はガ島最西端のエスペランスおよびカミンボに集結し、海軍の駆逐艦を待つ。駆逐艦は第三十八師団を収容し、ブーゲンビル島へと後退する。以後、第二師団がエスペランス岬へと後退し、やはり駆逐艦で撤退する。殿軍の矢野大隊は、戦線を維持しつつ後退して撤退する予定だが、敵軍の追撃が激しい場合には撤退を助けるために残置されるかもしれない。
命令下達に際し、第十七軍参謀長宮崎周一少将は特に次の注意を与えました。
「撤退作戦は難事中の難事である。これが実行にあたる各級指揮官は冷静、沈着、周到、掌握等の諸点に関し最善を尽くせ。前後左右の部隊間の連絡を確実にとれ。事態は真に非常事中の非常事である。各兵団長、部隊長におかれては大局に鑑み、最後まで責任を痛感し、最後まで最善を尽くせ。撤退不可能な状態にある将兵の処置に関しては、伝統の武士道的道義をもって、遺憾なき処置を講ぜられたし」
いよいよ作戦が始まります。井本熊男中佐は心配でたまりません。一月二十一日の未明、コカンボナ方面から激しい砲声が聞こえてきました。井本中佐は気になって眠れません。
(敵軍が攻勢に出たのではないか)
居ても起ってもいられず、井本中佐は小沼治夫大佐の幕舎を訪ねました。小沼大佐は毛布にくるまって寝ていました。気の毒とは思いましたが、井本中佐は小沼大佐を起こしました。
「小沼大佐、あの砲撃音をお聞きになりましたか。敵の攻勢ではありませんか」
起こされた小沼大佐は不機嫌な顔でしばらく銃砲音に耳を澄ましていましたが、「たいしたことはあるまい」と言って、すぐに毛布にくるまり、鼾をかき始めました。
(さすがだなあ)
井本中佐は舌を巻きました。戦場にしばらく居ると肝が据わるものらしい。戦場の勘というものでしょう。これが井本中佐にはありません。井本中佐は机上の作戦立案には自信を持っています。しかし、実際の戦場での指揮官としてはまったく未熟であることを自覚しました。
朝になると井本中佐は第二師団司令部と第三十八師団司令部を訪問し、その部隊の実情を視察しました。タサファロング付近では第三十八師団と海軍守備隊の様子を見ました。その様相は鬼をも泣かせる惨状です。身動きできぬ傷病兵が自決したという話題があちらこちらから聞こえました。痩せた身体で墓穴を掘り、戦友の遺体を埋めている兵隊たちがいます。誰もが骸骨のように痩せており、あたかも陽に照らされた地獄のようです。海軍守備隊の一角には民間船員たちの溜まり場がありました。彼らは戦時徴用されて戦場に来ましたが、輸送船が撃沈されたため、この島に泳ぎ着き、いま飢餓と疫病に苦しんでいるのです。気の毒としか言いようがありません。
ガダルカナル島には河川や細流が多く、透明な水がふんだんにあります。渇ききった兵士が思わず呑んでしまうのも無理はありません。しかし、その生水を一口でも飲んでしまうと病魔に冒されます。ほんの小さなカスリ傷であっても、その傷口からバイ菌が侵入し、寝たきりになり、大型の蝿にたかられ、蛆に食われ、徐々に腐っていく。マラリア、アメーバ赤痢、説明不可能な病状の数々、ここはまさに猖獗の地でした。
この日の夜、ひとりの指揮官がカミンボ泊地に上陸しました。松田教寛大佐です。昨年九月に戦死した第二十八連隊長一木直清大佐の後任です。松田大佐は小柄な身体に満々の意欲を秘めていました。この人物は、宮崎周一少将や一木直清大佐と陸軍士官学校の同期です。法華経に傾倒し、嘘が大嫌いで正直をモットーとする人柄でした。戦場に臨むのはこれが初めてでしたが、臆する風はありません。この松田大佐はやがて後衛総隊長となり、殿軍の指揮をとり、撤退を成功させます。
一月二十二日、第十七軍司令部では井本熊男中佐と小沼治夫大佐が作戦指導について議論していました。
「敵の攻勢は弱い。やはり弾薬の集積をしているらしい。だとすれば明日に予定されている第二師団の撤退を遅らせ、いましばらくボネギ川の線を維持させる方がよい」
小沼大佐が言います。これに井本中佐は反論しました。
「作戦計画では明日に第二師団はボネギ川からセギロ川の線に引くことになっています。現状を維持させるとなると第三十八師団との間隔が大きく空いてしまいます」
「空いてもかまわん。どうせ今までもガラ空きだったのだ」
「しかし、大佐、典範によれば陸路撤退の場合、一挙に戦場を離脱し、連続後退するのが基本であります」
井本中佐の言い分を聞いた小沼大佐は一瞬だまり、呆れたような顔をして井本中佐を諭しました。
「井本君、ここは戦場だぞ。敵が目の前に居るのだ。典範など忘れろ。敵はこちらの撤退意図を知らぬらしい。だとすれば下手に撤退してこちらの意図を敵に知らせるのはバカだ」
「しかし」
と言ってみたものの、井本中佐は反論できませんでした。
(戦場の駆け引きとは、そういうものか)
井本中佐は気恥ずかしくなり、下を向きました。机上で作戦を立案する際には、典範令や要務令や操典や指導要領や兵要地誌や各種の諸元が頼りです。戦いがまだ始まっていない段階で、様々な事態を想定し、虎の巻を頼りにして作戦を立てるのです。しかし、人間の想像力には限界があります。実際に作戦が始まってはじめて戦場が生まれます。そこには想定外の状況が数多く発生します。敵や味方が想定どおりに動くとは限りません。実戦は作戦とはまったく違うのです。この当たり前のことを今さらながら思い知らされたのです。
結果的に小沼治夫大佐の判断は正しかったようです。第二師団は二月一日までボネギ川に踏みとどまり、その後は矢野大隊が二月四日までボネギ川を維持し、撤退作戦を成功に導きます。
この日、午後五時半、第十七軍司令部の移動が始まりました。タサファロングからエスペランスへ向かいます。小沼治夫大佐と杉之尾三夫中佐だけは指揮をとるためタサファロングに残留しました。百武晴吉中将をはじめとする二十数名の司令部要員は月夜の道を黙って歩きました。敵に敗北し、大損害を出し、身動きできぬ将兵を残置して撤退していく軍司令部は、当然に重苦しい雰囲気です。しかし、南洋の月夜は美しく、井本熊男中佐は白い汀を踏みしめながら、先を行く人の影を踏んでいきました。
翌日の午前三時、第十七軍司令部はエスペランスに到着しました。この日は司令部の設営に費やされました。エスペランス岬に対するアメリカ軍の空襲と艦砲射撃は思いのほか激しいものでした。
(わが意図が敵に知られたのか)
井本中佐はさかんに気を揉みます。
翌日は雨となりました。その雨の中、第三十八師団参謀の親泊朝省中佐が報告のため第十七軍司令部にやってきました。
「第三十八師団は予定どおり行動している。小沼大佐の指導により、師団はセギロの陣地に止まり、反撃態勢をとっている」
矢野大隊がコカンボナ付近で戦線を維持しており、撤退作戦は順調でした。なお、第十七軍司令部に届いた報告を総合すると、戦闘に耐え得る兵員数は、第二師団約二百名、第三十八師団約三百名に過ぎませんでした。
その夜、井本中佐と親泊中佐は一枚の毛布を分け合って寝ました。ふたりは親友でしたが、親泊中佐は疲れ切っており、夜話をする間もなく眠りに落ちました。そんな親泊中佐の寝顔を井本中佐は静かにながめました。
親泊中佐の疲労には理由があります。第三十八師団の一部部隊が撤退命令に不平を鳴らし、「戦友の屍を残しては帰れぬ」と大言壮語し、命令に反抗したのです。それでいながら、いざ撤退作戦がはじまると、その部隊は浮き足だってパニックを起こし、敗走するという失態を演じました。この事態を収拾するために親泊中佐は苦心惨憺させられたのです。
これは後日談ですが、親泊朝省中佐はガダルカナル島から生還し、終戦を東京で迎えます。そして、降伏文書調印の日、「ガ島で死すべかりし命を今宵断ちます」との遺書を残し、妻子とともに自決します。
翌二十五日、タサファロングに残留していた小沼治夫大佐がエスペランスに後退してきました。第二師団には一月いっぱいまでタサファロングに止まるよう指示してきたといいます。最前線の矢野大隊はママラ川の線まで後退しました。敵の行動は緩慢なようです。井本中佐は、第一回ガ島撤収の乗艦計画の起案に着手しました。
一月二十六日、井本中佐は、起案したばかりの乗艦計画と命令書を船舶団に示して意見を求めました。船舶団からは特に異論は出ませんでした。この日、ラバウルの第八方面軍司令部から井本中佐に対する帰任命令が届きました。帰任のために潜水艦を派遣するとしています。井本中佐はこれを拒み、潜水艦の派遣をとりやめるよう返電しました。撤退可能人員の確定値が出たのもこの日です。一万二百四十名でした。
一月二十七日、第一回ガ島撤退乗艦の命令が下達されました。第十七軍司令部は第二回撤退時に乗艦することが決められました。敵の空襲は低調です。わが航空作戦のおかげだと井本中佐は思いました。
一月二十八日、最前線の戦況に変化なく、敵が追撃行動に移る様子はありませんでした。矢野大隊はなおママラ川の線を維持しています。
一月二十九日、第十七軍司令部を驚かせる知らせが入りました。
「マルボボに敵兵一個小隊が上陸した」
マルボボは乗艦地点のカミンボから至近の地点です。そこに敵兵が進入したとすれば一大事です。
「まさか」
第十七軍司令部は松田教寛大佐の部隊に対応を命じました。松田部隊はマルボボに向かい、少数の敵を撃退しましたが、実のところ、その背後にはアメリカ軍の大部隊が後続していました。アメリカ軍は日本軍を西と東から追いつめ、エスペランス岬で挟み撃ちにする作戦を実施していました。ただ、アメリカ軍の進行速度は緩慢でした。アメリカ軍の慎重さが結果的に第十七軍を救うことになります。
井本中佐はエスペランスの乗艦現場を視察し、乗艦計画成功の確信を得ました。矢野大隊は、ママラ川からボネギ川まで後退し、第二師団と合流しました。
一月三十一日、第十七軍参謀長宮崎周一少将は第二師団に対し「後方は気にしなくて良いから前方に注意を払え」ときつく指示鞭撻しました。第二師団の将兵は全般的に浮き足立っていたのです。撤退という消極作戦は、どうしても兵士たちを弱気にさせます。それにゆえに撤退作戦は難しいのです。
第三十八師団の乗艦準備は順調に進みました。この日は雨です。井本中佐は第一回撤退部隊とともにラバウルに帰ることを決めました。いちはやくラバウルに帰り、海軍と折衝し、駆逐艦輸送を継続するよう説得するためです。雨のためかラバウルとエスペランスの通信状態が悪く、おまけにエスペランスとカミンボの有線電話も不通となりました。軍司令部内に苛立ちが募りました。この日に予定されていた第一回撤退作戦は一日延期となりました。天候不良のためにラバウル航空隊による航空撃滅作戦が実施できなかったからです。
二月一日、天候が回復しました。第十七軍司令官百武晴吉中将は、ラバウルへ帰任する井本熊男中佐に別れの挨拶を述べ、第八方面軍司令官今村均中将への私信を託しました。
(この調子なら第一回撤退はうまくいく)
井本中佐は希望を持ちました。ですが、第二回、第三回と回を重ねる毎に困難さは増すと予想されました。
(駆逐艦でなければ成功しない)
これが井本中佐の信念です。ともかく最後まで駆逐艦輸送を海軍につづけさせねばなりません。井本中佐は、第十七軍参謀長宮崎周一少将に自身の決意を語り、軍司令部を後にしてエスペランスの乗艦場に向かいました。第三十八師団の各部隊もそれぞれ乗艦場を目指して歩いています。なかには落伍する者もいます。
「待ってくれ」
憐れな声をあげますが、助けてやる余力は誰にもありません。だまって道端に座り込む者もいます。
「しっかりしろ」
だれかが声をかけます。
「あとから追いつくから」
そういってその場を動きません。遊兵と化していた将兵も撤退の噂を聞きつけエスペランス岬を目指しました。
駆逐艦は予定より三十分遅れて午後十時半に入泊しました。直ちに舟艇が駆逐艦から降ろされ、海岸に向かいます。
「乗艦はじめ」
号令とともに第二師団の将兵は舟艇に殺到しました。その足取りは重く、痛々しいほどに魯鈍です。さすがの健兵たちも数ヶ月間の飢餓と疫病で見るも無惨な生きた骸に変わり果てていたのです。舟艇が満員になると沖合に停泊している駆逐艦に横付けします。ここから縄梯子を登って甲板にたどり着かねばなりません。飢え、病み衰えている将兵は必死によじ登りました。甲板上から水兵がこれを引き揚げました。水兵が思い切り持ち上げると兵士たちの身体は驚くほどに軽く、その軽さに水兵は驚嘆しました。甲板上には握り飯が用意されていました。みな、むさぼるように食べました。
こうして乗艦は迅速に行われました。井本中佐はじめ六名の命令伝達隊は駆逐艦「谷風」に乗艦しました。艦内は撤退将兵で満杯です。
海軍は、第一回撤退作戦に二十隻の駆逐艦を投入していました。往路、敵機の空襲を受けて「巻波」が航行不能となりました。このため「文月」が「巻波」を曳航して引き返しました。エスペランスには十二隻、カミンボには六隻の駆逐艦が突入しました。エスペランスでは「巻雲」が触雷して航行不能となったため、味方の魚雷で処分しました。しかし、残る十七隻の駆逐艦は予定どおりに撤退する将兵を満載し、無事にブーゲンビル島のエレベンタに帰還することができました。駆逐艦二隻が犠牲になりましたが、第一回撤退作戦は成功し、陸兵五千百六十四名、海兵二百五十名を撤退させることができました。
二月二日、午後十時頃、エレベンタに上陸した井本熊男中佐は、帰還兵受け入れの様子を見届けると、ブイン飛行場へ向かいました。海軍の中攻機でラバウルに飛び、直ちに第八方面軍司令部に復命しました。その際、百武中将から預かっていた私信を今村均中将に手渡しました。
井本中佐はすぐ参謀部に顔を出しました。すると、井本中佐が心配していたとおりのことが議論されていました。海軍は第二回までは駆逐艦を出すが、第三回は舟艇機動でやると言います。
「ダメだ。駆逐艦でなければ成功しない」
井本熊男中佐は杉田一次中佐とともに南東方面艦隊司令部に大前敏一大佐を訪ね、駆逐艦の使用を熱望しました。
「敵はまだこちらの意図に気づいていない。駆逐艦で迅速にやれば、損害なく撤退できる。オレは実際に撤退してきたのだ。信じてくれ」
実際にガ島から駆逐艦に乗って帰還してきた井本中佐の主張には説得力がありました。大前大佐は駆逐艦を出すことに同意してくれました。
翌日、井本熊男中佐は、第八方面軍参謀長加藤中将にガ島撤退の状況を詳しく報告しました。その後、ガ島の戦況には大きな変化がなく、第二回撤退作戦には駆逐艦二十隻が投入されることに決まりました。それで安心したのかどうか、井本中佐は急に高熱を発して参謀宿舎の寝台に横たわりました。
発熱は翌日も続きました。激しい下痢を伴い、身体が猛烈にだるく、起き上がることができません。井本中佐はゾッとしました。
(もし、ガ島で発症していたら、オレは死んでいたかもしれぬ)
夕方、海軍の大前敏一大佐が訪ねてきました。見舞いのためではありませんでした。
「井本中佐、第三回の駆逐艦派遣は中止になる。舟艇によってラッセル島に撤退させる。その理由は敵軍がマルボボに進入してきたからだ」
マルボボはエスペランス岬の一角で、カミンボに近い。確かにマルボボに敵軍が進出してきたのならば、撤退作戦の前提条件が崩れます。井本中佐は高熱で朦朧とする意識のなかで懸命に訴えました。
「待ってくれ。大前大佐、その情報は古い情報だ。オレがまだエスペランスにいた頃、確かに敵軍がマルボボに進出したという情報が入った。だが、それは敵の斥候らしき小部隊であって、とうの昔に撃退してある。確認してくれ。敵はまだこちらの意図に気づいていない。その隙に駆逐艦で一気に撤退させる方が良い。舟艇撤退などをやれば、敵にこちらの意図を知らせるだけだ」
「そうなのか。わかった。確認する」
そう言って大前大佐は帰って行きました。
(大前大佐が引き受けてくれたら、もう安心だ)
井本中佐は眠りに落ちました。
二月五日、第二回撤退作戦は駆逐艦二十一隻によって敢行されました。途上、米軍機の空襲を受けましたが、日本軍の航空隊による必死の防空戦闘により撤退作戦は続行されました。午後十一時に駆逐艦がエスペランスおよびカミンボに突入し、第二師団主力等を収容しました。結果は成功です。第十七軍司令部も無事にブーゲンビル島エレベンタに到着しました。
二月六日朝、エレベンタに上陸した百武晴吉中将以下の第十七軍司令部を出迎えたのは、参謀本部参謀次長田辺盛武中将、第八方面軍参謀長加藤鑰平中将、第六師団長神田正種中将などです。このときの場景を第十七軍参謀長宮崎周一少将は日誌に記しています。
「敬礼、答礼、無言、無言、互いに感慨のみ。沈痛の風のみ」
その日の夕刻、第八艦隊の旗艦たる重巡「鳥海」甲板上において第八艦隊司令部と第十七軍司令部の会議が開かれました。議題はもちろん第三回撤退作戦です。第八艦隊参謀長大西新蔵少将から戦況の説明がありました。
「敵機動部隊がガ島北方海域に進出中であるらしい兆候がある。よってわが艦隊は駆逐艦隊も含め、敵艦隊撃滅に向かう。このため第三回ガ島撤退作戦は、余力のある場合にのみ実施する」
これを聞いた第十七軍は大いに驚き、抗議しました。
「陸海軍中央協定では三回にわけて撤収が実施されることになっている。協定違反ではないか」
第十七軍高級参謀小沼治夫大佐は、大西少将に抗議しました。
「万難を排し、撤収に全力を注がれよ。三回にわけてガ島の全兵力を撤収するというのが前提である。だからこそわれわれ司令部は第二回撤収で帰ってきたのだ。残存兵を見捨てることはできない。海軍の措置は第十七軍司令官の名誉を汚すものである」
それでも大西少将は意見を変えません。
「敵艦隊の撃滅も重要な任務である。これまで二回の撤退は大成功である。第三回の撤退は、諸条件が整った場合に実施するというのが協定内容である」
小沼大佐は第八艦隊司令長官三川軍一中将に必死の形相を向けました。
「第三次撤収を実施しないという御意向は第十七軍としてはまことに遺憾である。撤退は三回あると思えばこそ司令部は撤退してきたのです。ガ島に残っている将兵を見殺しにはできません。ガ島には司令部の山本筑郎少佐が残っている。百武閣下のお立場をお考えください。ぜひ、第第三次撤収を実施していただきたい」
三川軍一中将は微笑を浮かべて言いました。
「海軍としては、貴官の言われるとおりにやるゆえ心配ご無用だ」
それでも小沼大佐は心配でした。眠れぬ夜を過ごした小沼大佐は、午前四時、第三水雷戦隊の旗艦たる軽巡「川内」に司令官橋本信太郎少将を訪ね、面会を求めました。第三水雷戦隊は出港を三時間後にひかえています。
「ぜひともガ島残留部隊の収容に全力を注いでいただきたい」
小沼大佐はなかば泣きながら懇願しました。これに対して橋本少将は次のように応じました。
「自分の任務は、あくまでもガ島撤収であると思っている。敵艦隊の撃滅を重視する大西参謀長のお考えもわかるが、自分としては任務に邁進するゆえ安心せられたい」
小沼大佐は感涙にむせびました。
ラバウルでは井本熊男中佐が第二回撤退成功の知らせを聞き、一安心していました。いまだに熱っぽく、だるい身体を午前中は横たえ続けていました。
午後、身辺の世話を焼いてくれている当番兵の何気ない言葉に井本中佐は鋭く反応しました。
「中佐殿、明日は久しぶりに陸軍航空隊がガ島ではなくニューギニアに向かうようです」
「なに?」
聞き捨てなりませんでした。井本中佐は病身を推して司令部に向かいました。
「明日、ニューギニアへ航空隊を出すというのは本当ですか」
航空参謀の谷川一男大佐に訊きました。
「そうだ、明日早朝、第十一戦隊をニューギニアのワウに向かわせる」
「待って下さい。ガ島撤退作戦はまだ終わっていません。陸軍航空隊の全力をガ島に使うべきです」
「いや、ニューギニアの戦況も軽視できない」
「それはわかりますが、今はガ島に全力投入すべきです。陸軍がガ島への戦力投入を惜しんだら、海軍が駆逐艦を出し惜しみするかもしれません。そうでなくても海軍は舟艇撤退をやりたがっているのです。ぜひ、ガ島の航空制圧と駆逐艦の直衛に全力を傾けて下さい」
「それは検討したうえでのことだ。戦術上、ワウの方が大事だ」
この一月にラバウルに赴任してきたばかりの谷川大佐は自信満々です。
(この男はわかっていない)
憤懣やるかたない井本中佐でしたが、病身ゆえに討論する気力がありません。結局、陸軍第十二飛行団のうち、第十一戦隊(二十三機)だけはワウに向かうこととなり、それ以外の全機がガ島方面に向かうこととなりました。
翌日、井本中佐の体調がようやく回復しました。さっそく司令部に詰めていたところ、海軍から再び駆逐艦の派遣を取り止めたいとの要望が飛び込んできました。
「本日、ソロモン方面天候不良のため航空部隊による直衛が困難であると予想される。よって駆逐艦の派遣を取り止めたい」
(またか)
海軍の遅疑逡巡ぶりに井本中佐は呆れる思いでしたが、さっそく南東方面艦隊司令部に向かいました。折衝の結果、第三回撤退作戦も駆逐艦によって実施することに決まりました。井本中佐は何度も何度も念を押しました。
二月七日、井本中佐はガ島撤退後のことを考えはじめていました。ソロモン方面の防衛をいかにするか。ニューギニア方面の強化をいかに図るか。第八方面軍としての方針をいかに定めるか。そして、いまなおガ島の最前線で戦っている矢野大隊のことを思いました。
(無事に帰ってくれば良いが)
午後十時、第八方面軍司令部に連絡が入りました。
「カミンボにおいて人員千六百名、ラッセルにおいて三百四十名、全員乗艦終了」
これを聞いた井本中佐は胸をなで下ろしました。第三回撤退部隊は、二月八日、無事にブーゲンビル島エレベンタに上陸しました。事前の悲観的予想に反し、撤退作戦は成功しました。およそ一万一千名の将兵が撤退できたのです。井本熊男中佐は第八方面軍司令官今村均中将に進言しました。
「閣下、この成功は海軍のおかげです。南東方面艦隊に陸軍の方から御礼に行くべきです。お願いいたします」
今村中将は南東方面艦隊司令部を訪れ、謝意を表しました。これに対して海軍側からも答礼がありました。
井本中佐がずっと気にかけていた矢野大隊は、一月二十一日までコカンボナの最前線にあり、以後、ママラ川(二十五日)、ボネギ川(二十九日)と後退しつつ戦線を維持しました。そして、二月二日に後衛総隊指揮官松田教寛大佐の指揮下に入りました。さっそく命令が出ました。
「矢野部隊は別命あるまでセギロ以東において、なるべく遠距離に敵を阻止し、第二次揚陸を掩護すべし」
翌三日、松田大佐は、ボネギ川を守る矢野大隊から矢野桂二少佐だけをセギロ川の後衛総隊司令部にわざわざ招致しました。重要な命令を伝えるためでした。
「二月五日まで現陣地を保持してマルボボに転進せよ。その際、現陣地に将校一名の指揮する約七十名を残置せよ。これは全軍のための残置部隊であるから、是非とも実施せよ」
要するに撤退作戦を成功させるために七十名を死なせるのです。作戦は本質的に非情なものです。矢野少佐はこれを是としませんでした。
「部下を残置することはできません。全軍のために必要ならば、矢野大隊の全員を残置させて下さい」
「だめだ」
松田大佐と矢野少佐との間には、こんなやりとりがありました。矢野少佐は玉砕の覚悟を固めてボネギの陣地に戻りました。
翌四日、ボネギ川の戦線は静かでした。そこへ松田大佐から新たな命令が届きます。
「独歩を許さざる患者および戦傷者を現在地に残置、その他はセギロ付近に全員後退せよ」
日没後、この命令に従って矢野大隊はセギロ川の線にまで後退しました。さらに翌日、新たな命令が出ました。
「敵はマルボボ付近に逆上陸し、わが軍を攻撃中なり。この攻撃を阻止するため矢野大隊は本夜、全員陣地を徹し、転進し、該敵を攻撃せよ」
マルボボは乗艦地点カミンボのさらに西です。日没後、矢野大隊は命令どおりに転進を開始しました。二月六日、矢野大隊は、アルリゴで松田部隊本部と会同しました。矢野少佐が松田大佐に申告すると、待機を命じられました。
「マルボボ付近の敵はこちらで撃退可能であるから、矢野大隊は現地で待機せよ」
上陸以来、戦闘と行軍で休む間もなかった矢野大隊にとって二月六日は久しぶりの休養日となるはずでした。ですが、敵の空襲や艦砲射撃が激しく、充分には休めませんでした。この段階で後衛総隊の最前線は東のセギロと西のマルボボになっていました。後衛総隊はエスペランス岬に追いつめられていたのです。しかも食糧弾薬は尽きかけており、矢野大隊以外の将兵は飢餓で痩せ衰えています。もしアメリカ軍が日本軍式の突撃を敢行していたら、後衛総隊は全滅していたと思われます。が、アメリカ軍は散発的に砲撃をつづけるのみでした。
二月七日、松田大佐から「矢野大隊の全員は駆逐艦に乗艦せよ」との命令が下りました。その夜、矢野大隊は無事に撤退することができました。七百五十名だった矢野大隊は三百名に減っていました。
悲惨だったのは、せっかく撤退できたのにブーゲンビル島で死んでしまう者が少なくなかったことです。ガ島で飢えきっていた将兵は無我夢中になって食べに食べました。感覚が麻痺していたらしく、食べ過ぎが死因となりました。矢野大隊の生還者にも死者が出ました。餓えが死因ではありません。極度の緊張からフッと気が緩み、ポックリ死んでしまったといいます。