大命転換
ラバウルの井本熊男中佐が服部作戦課長あての私信を高山少佐に託すよりもはやく、東京三宅坂の参謀本部では人事劇が起きていました。その経緯は次のとおりです。
十二月五日、船舶徴用問題を議題とする臨時閣議が開かれました。参謀本部の要求は五十五万トンにまでふくれあがっていました。午前八時半から始まった閣議では陸海軍の利害が衝突して容易にまとまらず、午後十一時にようやく終わりました。その内容は、最大限まで陸軍に譲歩したものであり、五十五万トンにはほど遠いものの、陸軍は三十九万トンを確保できる見通しとなりました。この閣議で海軍との折衝にあたった陸軍軍務局長佐藤賢了少将は、その結果を参謀本部の甲谷悦雄中佐に意気揚々と伝えました。
「何とか海軍を説き伏せることができた。満額回答ではないにせよ、だいたい満足できる結果だろう」
甲谷中佐もそう思いました。甲谷中佐は直ちに参謀次長の宿舎に向かいました。そこに参謀次長田辺盛武中将、作戦部長田中新一中将、作戦課長服部卓四郎大佐が集まり、報告を待っていました。甲谷中佐が参謀次長宿舎に到着するより早く、その宿舎の電話が鳴りました。企画院総裁鈴木貞一中将からです。
「参謀本部の要求は全面的には応じられなかったが・・・」
鈴木企画院総裁は閣議の経緯を田辺参謀次長に説明しました。田辺参謀次長は静かに聞いていましたが、すぐ横で聞き耳を立てていた田中作戦部長が憤激しました。田中部長は田辺参謀次長の手から受話器を奪いとり、電話口に向かって怒号します。
「船舶徴用問題は大本営政府連絡会議の決定を経てはじめて効力を発揮するものである。閣議の一存で決まったようなことをいうな」
「そんなことはわかっておる。こっちは親切心から内報したまでのことだ」
鈴木企画院総裁も怒って電話を切りました。そこへ甲谷悦雄中佐が到着し、閣議の内容を満足げに説明しました。すると、田中新一作戦部長はワナワナと震えだし、甲谷中佐を怒鳴りつけました。
「それが統帥権干犯であることがわからんか」
田中作戦部長は甲谷中佐をさんざんに罵倒しました。これはもはや八つ当たりです。どうしても五十五万トンが必要だと考える田中部長は思い詰めすぎていたようです。怒鳴られた甲谷中佐も憤慨しました。
「この任には堪えられないから、やめさせてもらう」
そう言い捨てると部屋を出ていきました。それでも田中新一作戦部長は興奮さめやらず、大声で叫びました。
「こうなったら東條陸相と木村次官に直接会って談判するしかない」
周囲は懸命に田中部長をなだめましたが、まったく言うことを聞きません。しかたがないので佐藤賢了軍務局長を呼び出し、経緯を説明してもらうことになりました。海軍側から大幅な譲歩を勝ちとった佐藤軍務局長は意気揚々とやってきて、自信満々に説明しました。
「田中さん、たいそう気を悪くされておるらしいが、いったい何を怒っておられるのですか。満足すべき内容じゃないですか」
すると田中新一作戦部長は激昂します。
「ガ島作戦の完遂こそが太平洋作戦の勝利のきっかけであるという根本的見解については、東條陸相に対して親しく情理を尽くして説明のうえ、確固たる了解をとりつけてあるのだ。したがって、この作戦遂行に必要な船舶は当然に供給されなければならない」
頭ごなしに怒鳴りつけられては佐藤軍務局長も腹を立てるしかありません。
「物動計画を脅かすような船舶の徴用はまっぴら御免をこうむる」
「なにっ!これは統帥権干犯だぞ。生意気を言うな」
そう怒鳴るがはやいか、田中新一作戦部長は佐藤賢了軍務局長を殴りつけました。佐藤局長も殴り返します。
「冷静に話し合いたまえ」
そう言ってあいだに入ろうとした田辺参謀次長を田中部長は突き飛ばしました。このとき田辺参謀次長はよろめき、参謀飾緒がちぎれ飛びました。戦後、佐藤賢了の語ったところによると、このとき田中新一は酒を飲んでいたようです。
佐藤軍務局長は事の次第を陸軍次官木村兵太郎中将に伝えました。木村陸軍次官は田辺参謀次長に電話をかけ、そこにいた関係者を次官官邸に呼び集めました。そして、皆を落ち着かせようと試みます。木村陸軍次官のとりなしで佐藤軍務局長と田中作戦部長とは和解の握手を交わすことになりました。しかし、ことはこれでおさまりません。田中作戦部長は、こんどは木村陸軍次官に噛み付きます。滔々と自説をまくしたて、木村次官を責め立てました。木村陸軍次官もつい興奮して反論し、両者は激論数刻に及びます。それでも周囲は、田中作戦部長の激越な言動を、至誠至情から発したものであると好意的に解釈していました。
翌六日、田辺参謀次長は企画院に掛け合い、閣議決定の見直しを依頼しました。陸軍省も海軍省に再検討を要望しました。木村陸軍次官も東條陸相に再考を促し、田中作戦部長の要望を通そうと図ります。田中作戦部長の至誠が周囲を動かしたのです。
やがて参謀本部と企画院の間で一応の妥協案が出来上がり、それが東條英機総理兼陸相に報告されました。しかし、東條総理は動きませんでした。
「あくまでも閣議決定のとおりである」
これを伝え聞いた田中新一作戦部長は激怒し、「東條総理に直接会って真意を確かめる」と言いだします。
「やめろ。俺が行って確かめてくる。オマエは残れ」
田辺参謀次長が止めても田中部長は聞きません。やむなく田辺参謀次長は田中作戦部長とともに総理官邸へ向かいました。
午後十一時ころでした。ふたりはしばらく待たされました。その間に陸軍省から木村兵太郎次官、佐藤賢了軍務局長、富永恭一人事局長が総理官邸に呼び集められていました。東條総理兼陸相はまず腹心を集めたのです。
待たされていた田辺参謀次長と田中作戦部長にようやく東條総理から呼び出しがかかります。ただし、田中作戦部長だけは階下で待つようにとの指示でした。田中作戦部長は三十分ほども階下で待たされました。やがて田辺参謀次長が悄然とした顔で戻ってきました。
「どうしました」
田中作戦部長が問います。
「どうもこうもない。統帥部の要求とはかけ離れている」
「抗議したのですか」
「いや、お話にも何もならんから黙ってさがってきた」
「それじゃ困るじゃないですか。ガ島をどうするのです。よし」
田中作戦部長は階段を駆けのぼり、ドアをノックし、返事も待たずにドアをガバッと開けました。室内では東條総理、木村次官、佐藤局長、富永局長が談笑していましたが、田中作戦部長の顔を見るとみな押し黙りました。一瞬の沈黙の後、田中作戦部長が吠えました。
「何がそんなに愉快なのか。桜かざした長袖者が!」
田中作戦部長はズカズカ進んで東條総理の隣に座を占め、改めて船舶増徴の必要を論じ、懇請し、「再考ありたし」と叫びました。これに対して東條総理は冷静に意見を述べ、国家全般の見地から増徴には応じられないと言いました。田中部長がさらに強訴すると、東條総理は「統帥には関与せぬ」と言い、さらに追い打ちをかけるように言いました。
「政府の考えは先ほど参謀次長に示したとおりである。それ以上の要求には応じられない」
田中作戦部長は反論します。
「政府、政府とおっしゃるが、参謀本部は政府と折衝しているのではありません。陸軍省と交渉しているのです。陸軍大臣としての東條閣下の良識に訴えているのです」
「陸軍省も政府である」
「そうはいきません。陸軍大臣は、総理とは別個の軍政的立場です。だいたい統帥部を交えた連絡会議がなぜ開かれないのですか。船舶の割当は政府の閣議だけでは決定できない。大本営政府連絡会議ではじめて決定できるのです。なぜ、手続きを踏まないのですか」
「参謀総長はよく承知している」
その瞬間、田中作戦部長は遠い目をしました。
(杉山参謀総長はすでに譲歩していたのか。だから田辺次長も弱気なのだ。このオレはとんだ道化だ)
そう思いましたが、なお田中部長は屈せず、言い返します。
「それは話しが違う。お示しの船腹ではガ島作戦は遂行できないと総長も認めているのです」
「船舶不足と言うが、これ以上は出せん。物資動員の保証ができなくなるのだ。戦争指導全体が破綻するかもしれんのだ。陸軍大臣として確かにガ島奪回作戦に同意したが、同時に船舶量にも制限をつけておいたはずだ。いたずらな船舶の消耗はとうていまかないきれるものではない」
「船舶を消耗させたことについては申し訳ないと思います。しかし、なぜ消耗したのか。そして、今後の見通しがどうなるのかについてはすでに説明してあります。よくご承知のはずでしょう。ただいまのお言葉は納得できません」
「そんなことは知らん」
「それはおかしい。木村次官には説明してあるのです。次官、そうでしょう」
田中作戦部長は木村陸軍次官をにらみつけました。しかし、木村次官は黙り込んでいます。これに田中部長が怒りをぶつけます。
「東條閣下は兼摂大臣だからご多忙でしょう。よって次官閣下が責任を負っておられる。次官、キチンと大臣に説明しなければダメじゃないか。それで戦時の次官がつとまるのか。この馬鹿者ども!」
激したあまりの暴言です。東條総理は冷静に言い返します。
「何を言いますか。本職の部下に対してカレコレ批判することは許さん」
「批判は自由です」
田中部長も言い返します。
「言葉が過ぎるぞ」
そう言ったのは富永局長です。
「もっと冷静になれ」
と言ったのは木村次官です。
「いや私は冷静です」
打って変わって田中作戦部長は静かに言いました。田中部長は一呼吸おくと冷静な声でなお迫ります。
「いまガ島で敗退したら、西太平洋は大崩れです。西太平洋のわが南洋諸島は防衛態勢が何もできていないのです。海軍根拠地のラバウルも麻痺してしまう。トラックまでが危険になる。一瀉千里の崩壊になりかねないのです。いま弱気を出してガ島を捨てたら、あと一年足らずでおそらくは戦争が全面破綻するでしょう。船舶の件、もう一度お考え下さい」
戦術的には田中部長の主張は正しいといえました。しかし、輸送船の消耗が激しい上、連合艦隊が輸送船団を守り切れない以上、東條総理としては妥協できません。
「再考の余地はない」
東條総理が言います。
「ならば研究だけでもして下さい」
田中作戦部長はなおも食い下がります。
「それほどまで言うなら、再研究だけは認めよう。だが、貴官の希望どおりにはならぬとあらかじめ言っておく」
「再研究でよいのです。感謝します」
田中作戦部長は喜色を表しました。
「先ほどは無礼をはたらき申し訳ありませんでした」
田中作戦部長は謝罪して退出していきました。このときの心境について田中新一は回想録に次のように書いています。
(これほど強引に船舶を徴用して、それでもガ島作戦が失敗したらどうするのか。いや、そのときはそのときだ。もはや講和の方向へいくしかない。ともかく、船はとれる。だが、オレの参謀本部勤めは終わりだ)
田中作戦部長は自分の首とひきかえに船舶を手に入れようと図ったようです。田中作戦部長は自動車を走らせて杉山元参謀総長の邸宅に向いました。ふと見上げると美しい夜空です。
(ああ、船だ、船だ、船だ。船さえあればなあ)
田中作戦部長は嘆息します。杉山参謀総長に面談した田中部長は、一部始終を報告し、解職を願い出ました。
田中新一中将は重謹慎十五日間の処罰を受けました。参謀本部では田中新一作戦部長、服部卓四郎作戦課長、辻政信作戦班長が更迭となりました。開戦前から陸軍作戦全般を担ってきた三名の異動は、大東亜戦争の局面転換をすべての陸軍関係者に感じさせました。
すでに海軍は組織をあげてガ島奪回から撤退へと方針転換していましたが、陸軍はそれができていませんでした。最後まで参謀本部作戦部が抵抗していたからです。奪回から撤退への方針転換を参謀本部としては行い得ませんでした。それも無理はありません。もともと作戦課で作文した命令文が上司の決裁を得て参謀総長から上奏され、裁可され、その命令が大陸令や大陸指などの大命となって各軍に下達されるのです。それをいまさら「あれは間違っておりました」などと上奏できるものではありません。
結局、自己制御機能の働かない参謀本部に制動をかけたのは陸軍省です。陸軍省による軍政面からの圧迫によって統帥権は抑制されました。
暴言を吐いた田中作戦部長の戦略眼は必ずしも誤っていたわけではありません。実際、ガダルカナル島を放棄した後の戦況は、田中部長が憂えたとおりに総崩れになっていきます。田中作戦部長の不作法はとがめられて当然でしたが、その大局観は確かだったのです。達観すれば、勝ち目のない戦争を遂行するなかでは統帥部と軍政部との確執が生まれるのは当然だったのです。作戦重視であっても軍政重視であっても、どのみち勝利の可能性はありませんでした。
ともかくこうして船舶徴用問題は決着しました。参謀本部作戦部の人事も刷新され、作戦転換の気運が高まりました。新人事は、作戦部長綾部橘樹少将、作戦課長真田穣一郎大佐、作戦班長瀬島龍三少佐です。
参謀本部の事情は断片的にラバウルにも伝わってきました。十二月十六日、作戦課長が服部大佐から真田大佐に交代したことが第八方面軍に伝達され、新課長の真田大佐が情況視察のためラバウルに来訪すると予告されました。
(参謀本部もいよいよガ島奪回を断念したようだ)
井本熊男中佐は思いました。人事の交代は作戦の変更を意味します。この日、井本中佐は、南東方面艦隊参謀の大前敏一中佐とともにガ島撤退作戦を研究していました。あくまでも個人的に研究相手をするという建前です。ひととおり検討を終えたとき、大前中佐が陸海軍の意思統一を訴えました。
「このような難しい状況下では陸海相互に責任を転嫁するような態度を避け、同情ある心持ちで、お互いにできる限りのことをしたい。海軍は現在のところ駆逐艦輸送を中止しているが、ガ島に陸軍部隊が存在する以上、駆逐艦輸送を実施せざるを得ないと考える。艦隊司令部において実施するように仕向けていくつもりである」
井本中佐は感激しました。
「ありがたい。全部の人間が同情ある心持ちになることは難しいとは思うが、陸海折衝の主役である者同士は、互いに思いやりの気持ちで全力をあげて難局に当たりたい」
翌日、井本熊男中佐は第八方面軍司令部の参謀を集め、ガ島奪回作戦の研究を行いました。参謀たちの意気は上がりません。特にラバウル勤務の長い参謀はすっかりヤル気を失っています。
「実行の可能性もない作戦案を研究して何になりますか」
「東京から新しく来たあなたは、まだガ島奪回が出来ると思っているのですか。おめでたいことだ」
そう言われても井本熊男中佐は怒りませんでした。こういう性格です。井本中佐は「陸軍でいちばん冷静な男」と呼ばれていました。冷静に事情を説明します。
「そうではない。第八方面軍として最善のガ島奪回作戦を研究し、研究し尽くしておく必要があるのだ。その最善案であっても奪回作戦が成功しないと証明できれば、奪回から撤退へと作戦を変更させることができる。研究し尽くしておいてこそ参謀本部に対して確信を持って撤退すべしと報告できるのだ。各自が勝手な感情論を述べていても説得力はないぞ。そんな心がけではいつまでもガ島奪回作戦が続くぞ」
この翌日、陸軍航空隊がラバウルに進出してきました。その戦力は一式戦闘機六十二機です。この航空隊はビルマから転用されてきたものです。九月の段階では、陸軍航空隊のラバウル進出は必要ないと海軍は言っていました。ですが、海軍航空隊の消耗が激しく、ついに陸軍航空隊が進出することになったのです。一式戦闘機は、「キノヨンサン(キ-四三)」、「隼」、「イッシキ」などの通称で知られる陸軍の主力戦闘機です。海軍の零戦と同じく軽量軽快で小回りが効き、空戦性能に優れています。ラバウル西飛行場に勢揃いした一式戦を見て井本中佐は意を強くしました。
午後、作戦課長真田穰一郎大佐、作戦班長瀬島龍三少佐、作戦課員首藤忠男少佐がラバウルに到着しました。
ちなみに真田課長はサイパンで帰国途上の高山信武少佐に会い、ラバウルの状況を聴取していました。ガ島に対する航空撃滅戦には見込みのないこと、海軍が無力なため制空制海権はラバウル周辺に限られること、海軍はすでにガ島奪回に対する自信を失っていること、などが伝えられていました。
ラバウルに到着した真田課長ら一行は、さっそく第八方面軍司令部に向かいました。連絡会議が開かれ、真田新課長が作戦要旨を述べ、ガ島について次のように説明しました。
「ガ島に対しては既定方針を堅持する。依然、奪回を目的として攻撃を企図する。このため補給路を堅固に設定する」
これを聞いた井本中佐は少なからず驚きました。
(中央はまだそんな考えでおるのか)
ですが、真田課長の話しぶりには熱意が感じられません。井本中佐は考え直します。
(おそらく本音ではあるまい。参謀本部には、まだ撤退を論じられない雰囲気があるのだろう)
その夜、第八方面軍司令部で会食がおこなわれました。その席で瀬島龍三少佐から人事交代の経緯が明かされました。
翌日も第八方面軍司令部では連絡会議が続きました。途中、ニューギニアの最前線を視察して帰還したばかりの第十八軍参謀喜多俊三中佐による報告がありました。喜多中佐は、ブナ方面の悲惨な現状を正直に報告しました。
「ブナ、ギルワ方面の部隊合計六千名のうち、病人は二千名に達しております。全員がマラリアに感染しており、重篤な者は五百名です。よって戦闘可能人員は約半数しかありません。一日平均二十名ほどが戦病死しております。敵機の跳梁跋扈はなはだしく、敵機からの爆撃を避けるため当方は射撃をひかえておる情況であります」
まさにガ島と同じ戦況であり、楽観材料は何もありません。喜多中佐は続けます。
「しかしながら、将兵はなお高い士気を維持しており、後続部隊を送って増強すれば敵を撃退することは可能であると愚考いたします」
要するに、苦しいけれども頑張ればなんとかなる、という報告でした。
(なっちょらん。陸軍の参謀は、こういう報告ばかりしおって)
報告を終えて帰っていく喜多俊三中佐を井本中佐は追い、呼び止めました。ふたりは陸軍士官学校の同期です。
「おい、喜多」
「おう、井本か」
「喜多、キサマ、さっきの報告は本当か。本当になんとかなるのか」
「どういう意味だ」
「本当かと訊いている。ニューギニアは楽観してよいのか」
喜多中佐はしばらく黙りました。
「井本。キサマにもわかるだろう。あんな会議の場で悲観的なことを言えるか。言えば安達軍司令官の名誉を傷付けることになる。このオレにどうしろというのだ」
こんどは井本中佐が黙りました。
「喜多・・・いや、すまなかった。オレもキサマと同じだ。すまなかった」
喜多中佐を詰問しようとした自分を井本中佐は恥じました。本心を口外しないという意味では井本中佐も喜多中佐と同じでした。
井本中佐が真田穰一郎大佐から呼び出されたのは十二月二十二日の夜です。
「井本中佐、これはふたりだけの秘密にする。誰にも口外しないから本音を聞かせてほしい」
(なるほど)
井本中佐は納得しました。公の会議の場で撤退論を口にすれば、思わぬ反発が出るかもしれません。下手をすれば灰神楽の立つような騒ぎになります。だから、真田作戦課長は司令官や参謀に個別面談し、その本音を秘かに聞き出しているようでした。手間取ることではありますが、慎重なやり方です。真田課長は大柄で雄偉な体躯をしています。目、鼻、口も大きい。いかにも包容力のありそうな新課長に井本中佐は正直な存念を話しました。
「私は第八方面軍参謀の内示を受けてラバウルへ来たのですが、東京を出発する前からガ島攻略は不可能であると内心では考えていました。ラバウルへきて新たな知見を得、あらゆる角度から検討してみましたが、ガ島攻略はやはり不可能であるという結論に達しました。いまやガ島は撤退する以外に方策はありません。攻撃を実施するには輸送が必要になります。しかし、その輸送船団を海軍は守れない。ガ島周辺の制海制空権は敵手に落ちているのです。たとえ苦しくとも、いまは恨みを呑んでガ島奪回をあきらめた方が良い。真田大佐、もし撤退という言葉を使えないというのなら、解釈幅の広い表現をお使い下さい。たとえばソロモン群島を確保して自給を策す、とでもすればよいでしょう。これならばガ島を放棄しても矛盾しません」
「よく言ってくれました」
真田課長はそう言って握手を求めてきました。驚くほどに大きな手でした。
翌日、真田大佐、瀬島少佐、首藤少佐は東京への帰途につきました。この出張中に真田課長が個別面談して聴取した要人の発言内容は真田課長の記録に残されています。
第八方面軍今村均中将の言。
「ガ島はいずれにしても至難。よって死中に活を求むるの策なきやを研究せしめつつあり。作戦転換は現地軍だけでできるものにあらず。中央は海軍との関係も考え、大局的に定められたし。ただ、いかなる場合においてもガ島の者を捨ててしまうような考えを持たぬよう、できるだけの人々を救出できるように考えてもらいたい。もし、このことが洩れたらガ島の第十七軍はみな切腹してしまうであろう。機密保持に注意ありたし」
第十一航空艦隊司令長官草鹿任一中将の言。
「海軍としてはなんとかガ島将兵に食わせてやらねばならぬと思っている。しかるに飛行機はほとんどつぶれ、駆逐艦は十八隻のみとなった。これ以上つぶれたならば国防は担当できないかも知れぬ。ガ島奪回は急いではならぬ。むしろニューギニアをかためることが急務だ」
十二月二十四日、ムンダ飛行場からの電報が第八方面軍司令部にとどきました。ムンダ飛行場に進出していた海軍の零戦二十二機は、この日の戦闘で九機にまで激減したといいます。ガ島に接近したのはよかったのですが、近いだけに敵の反撃が激しく、大損害を被ってしまいました。やることなすことあらゆる努力が後手に回っている事実に井本中佐は歯噛みしました。そして、ガ島の第十七軍司令部からは連日のように悲痛な電報がとどいています。
「食糧欠乏、補給を請う」
そのような内容です。そのたびに第八方面軍司令部は海軍に要請します。海軍は懸命の潜水艦輸送をしています。これ以上は如何ともなし難かったのです。
第八方面軍司令官今村均中将は、ラバウルの各地を盛んに視察し、細かい指示を与えていました。ときに井本中佐が視察に随行することもあります。今村中将は、ラバウルに滞留している種々雑多な部隊を統一指揮できるよう組織を再編成させたり、耕作可能地をさがさせたり、耕作可能作物を研究させたり、陣地構築の命令を出したりしていました。
(将軍は長期持久の準備をして居られるようだ)
井本中佐はそう推察しました。ガ島に届けるべき食糧や医療品などをドラム缶に詰める作業場を今村中将が視察したときのことです。今村中将は作業員に声をかけ、励ましていましたが、やがて見ていられなくなったらしく、自ら詰め込み作業を手伝いはじめました。将軍自らが心を込めて物品をドラム缶に詰め込む様子は井本中佐の胸を打ちました。
アメリカ軍の爆撃機は連日のように編隊を組み、未明から早朝にかけてラバウルへ飛来し、爆撃を実施しました。高射砲陣地は盛んに砲弾を打ち上げましたが撃墜は認められません。ただ、探照灯で敵機の目を狂わせることで爆撃進路を狂わせるのがやっとです。敵の大型爆撃機は零戦に機銃を撃ち込まれてもなかなか墜落せず、平然と飛んでいます。そして、空襲を受けるたびにラバウル港の海軍部隊に損害が出ました。ほんの三ヶ月前には日本軍がガダルカナルへ押し出していたのですが、いまでは完全に押し返されています。
さきにラバウルを発った真田穰一郎作戦課長の一行は、サイパン島に一泊しました。その深夜、真田大佐は瀬島少佐と首藤少佐を呼び出しました。真田大佐はまず瀬島少佐に問います。
「ガダルカナルをどうしますか。意見を言ってください」
瀬島龍三少佐は、参謀本部内でも特に明敏で知られていた人物で、このときも三案を示しながら理路整然と論じました。
「第一案は従来どおりガ島奪回を目指すもの。第二案は敵飛行場に対する総攻撃は実施せず、ガ島西方にわが拠点を確保するもの。そして、第三案はガ島からの撤収です。まず、第一案の可能性を考えてみますと、第十七軍の兵力を大幅に増強させる必要があります。そのため大量の輸送船が必要になるだけでなく、連合艦隊の海上艦艇と陸海軍の航空戦力を総動員して輸送船団を守らねばなりません。おそらく非常な消耗が予想されます。さらに総攻撃が失敗した場合には国家レベルで甚大な痛手を負うことになるでしょう。つまり、リスクが大きすぎ、実施は困難という結論になります。次いで第二案ですが、これは補給の可能性が鍵になります。これまでの連合艦隊の苦労にもかかわらず、輸送任務にあたった駆逐艦と潜水艦の損害は相当なものです。しかも運べる物資の量はすこぶる少量に限られる。これ以上の消耗を連合艦隊に強いることは全般作戦の観点から見て不利です。残るは第三案となります。まことに残念ではありますが、撤収以外にないと思います」
瀬島少佐が言い終わると、真田大佐は首藤少佐に顔を向けました。
「首藤君はどうですか。意見を言ってください」
「私も瀬島少佐の意見と同じです」
これに対して真田大佐は言いました。
「私も同感です。それでゆきましょう」
こうして参謀本部作戦課の方針は奪回から撤収へと転換しました。
翌日、真田課長の一行はサイパンから横浜へ飛びました。飛行艇の中で瀬島少佐は新しい作戦指導要領案と陸海軍中央協定案を起案しました。帰京するとすぐに真田大佐は報告のため参謀総長官邸に向かいました。そこで参謀総長、参謀次長、作戦部長に現地の状況を説明し、結論として奪回から撤収への戦略転換が必要だと説きました。そのとき杉山参謀総長はホッとした表情を見せたといいます。
瀬島少佐と首藤少佐は参謀本部作戦課に直行し、報告しました。そのときはじめて参謀本部作戦課内で「撤収」という言葉が使われました。反論する者はいませんでした。
十二月二十六日、真田穰一郎作戦課長は海軍軍令部に出向き、軍令部総長、次長、作戦部長などに陸軍のガ島撤退方針を説明しました。もとより海軍は賛成です。
次いで、陸海軍は協同してガ島撤退の具体的方法を検討しました。陸軍側は瀬島少佐と首藤少佐、海軍側は山本祐二中佐と源田実中佐です。ガダルカナル島に所在する三万名の将兵を敵の制空権下から撤収させねばなりません。検討は二昼夜つづきました。その結論は、強力な航空兵力の護衛下に輸送船を突入させるというものでした。三万人もの人員を撤退させるためには輸送船を使用する以外に方法が見いだせなかったのです。
十二月二十八日、参謀本部からラバウルの第八方面軍司令部に重大な電報がとどきました。
「第八方面軍司令官は第十七軍司令官をしてガ島における現戦線を整理し、後方の要線を占領して爾後の作戦を準備せしむべし」
これは明らかに撤退準備の命令です。
(ついに参謀本部も撤退に踏み切ったか)
井本中佐はやや安堵しました。命令が奪回から撤退に変わったからです。しかし、すぐ緊張をとりもどしました。撤退の実行に問題があると考えたからです。
(果たしてうまくいくか)
井本中佐の心境は再び暗転しました。撤退戦は健全師団でさえ成功させるのが難しいものです。現状の第十七軍は多数の傷病兵を抱え、飲まず食わずの状況でやっと戦っているのです。成功どころか実施すら危ぶまれました。参謀本部でもそのことを考えたらしく、別電につぎの一項が付言してありました。
「第十七軍に対する伝達法については、特に配慮を周到ならしめられたし」
軍において命令は絶対です。とはいえ、状況によってはそうでもありません。現場の司令官が独断専行する場合があるのです。
「軍命令は現況に合致しない」
そのように第十七軍司令官百武晴吉中将が判断すれば独断専行もあり得ます。そもそも将校と兵卒との違いは何か。それは独断が許されるか否かにあります。兵卒は絶対に命令に服従しなければなりません。ですが、将校には独断専行が許されています。自分の頭脳で状況を判断し、決断し、行動できるように教育され、訓練されているのが将校なのです。このことは歩兵操典綱領第五に明記されています。
「凡そ兵戦のこと、独断を要するものすこぶる多し。しかして独断はその精神においては決して服従と相反するものにあらず。常に上司の意向を明察し、大局を判断して状況の変化に応じ、自らその目的を達し得べき最良の方法を選び、以て機宜を制せざるべからず」
だからこそ参謀本部は命令伝達方法に留意せよと注意を喚起したのです。ガ島の軍司令官が撤退命令を拒否する可能性が多分にありました。というより、第十七軍司令官はむしろ玉砕を選ぶ可能性が大きいと思われました。
(いまのままでは撤退作戦は成功しない。第十七軍は戦線整理さえ満足にはできまい。新たな兵力をガ島に上陸させて戦線を維持させ、航空機と海上艦艇の支援を強化して敵の目を逸らしておく必要がある)
井本中佐は鉛筆を取り上げ、撤退作戦の要点を列挙していきました。
この翌日、ガ島への連絡任務に従事していた第八方面軍参謀副長佐藤傑少将、参謀末広勇中佐、参謀太田庄次少佐がラバウルへ帰任しました。この三名は十二月はじめにラバウルを発ち、十二月三日から五日までガ島の第十七軍司令部に滞在し、その後、カミンボ岬で連絡便を待ち、ようやく二十九日に帰任したのです。実に長いあいだカミンボ岬で待ちぼうけを食ったものです。この事実からみてもガ島撤退の困難さが明らかです。三名は次のように報告しました。
「いまや我は敵のなすがままにまかせて手も足も出ない実情であります。敵機の跳梁、敵駆逐艦の海上機動によりカミンボ付近も危険であり、自由な行動はできません。軍司令部、第一線部隊は士気旺盛なれども、後方部隊は気力、体力ともに喪失しており、電線が通路に垂れ下がっていてもこれを木枝に掛ける気力すらなく、敵機が近づいても射撃せず、防空壕を掘る体力もありません。第一線部隊は現陣地を確保することは可能でありますが、機動作戦はできません。第二師団、第三十八師団とも現在の状況で推移すれば今月限りでおそらく戦力は枯渇すると思われます。よって第一線部隊を後退させて、後方に戦線を収縮することは不可能であります。食糧は極度に欠乏しております。塹壕で餓死するよりは動けるうちに斬り込みを決行したいという隊長もあるくらいです。傷病者数は十二月初めの時点で入院患者三千名、自隊治療者七千名です。戦える者もほぼ全員が何らかの疾病や負傷をかかえております。野戦病院は名ばかりで治療はできません。死者も患者も同じ所に横臥しております。死者を埋葬する体力も気力もありません。路傍には行き倒れが多く、遺体の収容も患者の後送も不可能であります。第十七軍司令官は援軍、食糧、弾薬を要望しておられます」
声涙ともに下る報告でした。この報告を念頭に、井本中佐は参謀本部への返電案を書き上げ、今村均中将の決裁を得、発電しました。
「御趣旨了解せるところなるも、ガ島の実情は、第十七軍独力をもってこれを遂行せしむること至難なり。後方よりする作戦支援の要あり」
東京では陸軍参謀本部と海軍軍令部が戦略転換にともなう陸海軍協定、各軍および各艦隊に対する作戦命令と指導要領を急ぎ作成していました。この戦略転換を決裁すべき大本営政府連絡会議は年明けの一月四日に予定されました。ですが、事態を重視した昭和天皇の御意向により十二月三十一日に開かれることになりました。その席上、杉山参謀総長と永野軍令部長が列立し、永野大将が奏上しました。
「南太平洋方面、今後の作戦は遺憾ながら左のごとく変換するを至当と認めます」
永野大将は新作戦案を奏上しました。お聞きになった昭和天皇はこれを裁可なさいました。
「陸海軍は協同してこの方針により最善をつくすように」
こうしてガ島撤退作戦が正式に決定したのです。
昭和十七年の大晦日の夜、ラバウルの井本熊男中佐は酒を飲んでいました。相手は海軍の大前敏一中佐です。つかの間の正月気分でしたが、それも未明から早朝にかけてラバウルに来襲したアメリカ軍の空襲によって吹き飛ばされてしまいました。
それでもガ島の惨状に比べればラバウルは天国です。このころガ島では飢餓と疫病が深刻化していました。日本軍将兵は次々と餓死し、あるいは発狂して自殺する者も出ていました。点呼のときに立てる者がひとりもいない小隊もありました。それでも部隊によっては立てる者だけが整列し、はるか祖国を拝遙し、万歳を三唱し、軍人勅諭を斉唱しました。しかし、それが終われば、もはや立っていられず、よろけるように寝込みました。歩ける者はひたすら食糧をさがします。あまりに痩せ衰えているため、歩くだけで自分の心臓の鼓動が聞こえます。そして十歩あるくたびに休まねばなりません。将兵の中には組織を離れ、遊兵化する者も現れました。
これに対してガ島のアメリカ軍は総兵力五万に達していました。その主力はアメリカル師団、第二十五師団、第二海兵師団です。しかも、かねてより消極的だとの批判を受けていたバンデクリフト少将は更迭されてガ島を去り、パッチ少将が指揮権を受け継いでいました。
そのような情勢下、第八方面軍司令部に参謀本部から電報がとどきました。新作戦部長の綾部橘樹少将がラバウルに進出するとの連絡です。第八方面軍としては、その到着までにガ島撤退作戦を完整させておくこととなりました。
正月二日、井本中佐は海軍の大前中佐とともにガ島撤退作戦を検討しました。大前中佐は海トラと大発動艇による輸送を提案してきました。海軍は、駆逐艦の損害をなお恐れているようでした。
(大前中佐も海軍内で苦しい立場にいるのだろう)
井本中佐は推量しました。ですが、けっして遠慮はせず、あくまでも強い態度で駆逐艦の使用を主張しました。
「昨年来、何度も要望しているように撤退作戦は駆逐艦でなければ成功しない。海トラなどで撤退部隊を運んだら、敵に好餌を与えるようなものだ」
結論が出せぬまま一月四日になりました。この日、参謀本部から第八方面軍に対して大陸命が発令されました。
「第八方面軍司令官は海軍と協同し現にガダルカナル島にある部隊を後方要地に撤収すべし」
連合艦隊司令長官には大海令が発令されました。
「連合艦隊司令長官は陸軍と協同し在ガ島部隊の撤収作戦を実施すべし」
現地の陸海軍はガ島奪回命令からようやく解放され、撤退に向けて動き出します。
午後、作戦部長綾部橘樹少将は、随行の参謀二名とともにラバウルに到着しました。さっそく第八方面軍司令部での連絡会議となりました。まず第八方面軍参謀がガ島の概況を説明しました。次いで綾部少将が軍中央の出来事を伝達しました。
「去る十二月二十七日から二十九日にかけて陸海軍合同して詳細な検討を行った結果、従来の方針によりガ島奪回作戦を継続しても成算はないという結論に達した。三十一日、御前において研究が催行され、陸海軍両総長の上奏によって撤退方針が決定せられた。この作戦をケ号作戦と呼称する。ケは捲土重来の意味である」
そして、綾部少将は撤退作戦の参謀本部案を述べました。
「撤退時期は一月下旬から二月上旬に実施する。これ以上に延引すれば第十七軍の戦力が枯渇するからである。撤退は三回に分けて行う。第一回は傷病兵を優先して撤退させる。輸送を駆逐艦によるか、輸送船によるかはなお研究の必要がある。第二回で主力を撤退させる。その際には可能な限り多数の艦船を用意する。駆逐艦と輸送船で大部を撤退させるが、船腹不足の場合には海トラや大発などあらゆるものを利用する。第三回は、戦線を維持するはずの後衛部隊二千名を撤退させる。これは駆逐艦で迅速に実施する。この方法で何名を撤退させられるかが問題であるが、研究では五割から六割くらいを撤退させられるとの目算である。この間、陸海軍の総力を挙げて敵飛行場に対する航空撃滅戦を実施する。その戦力は海軍二百機、陸軍百五十機である」
次いで連合艦隊参謀大前敏一中佐が連合艦隊の考えを説明しました。大前中佐は「なるべく駆逐艦の数を多くする」と述べました。これを聞き井本中佐は大いに意を強くしました。そして、大前中佐は、撤退作戦に対する山本五十六長官の意見を伝えました。
「山本長官は、中央の考えは甘すぎると懸念されておられます。この作戦ではガ島部隊の三分の一も帰っては来られまい、と心配されておられます」
以後、第八方面軍、連合艦隊、南東方面艦隊、第八艦隊、第十一航空艦隊の参謀が協同してケ号作戦の細部を練ることになりました。五日と六日の両日、井本熊男中佐は大前敏一中佐とともに研究を続け、主として駆逐艦をもって輸送を実施することを決めました。
(大前中佐は艦隊に帰って苦労するのだろうな。海軍は駆逐艦を惜しんじょるから)
井本中佐は、艦隊司令部内での大前中佐の健闘を祈りました。