饒舌と沈黙の参謀本部
第十七軍司令官の百武晴吉中将は、一木支隊先遣隊が全滅した九月の段階で、はやくもガ島奪回は難しいという考えを秘かに持っていたようです。しかし、ガ島奪回を命令されている軍司令官である以上、否とは言えませんでした。
十月にはいって第二師団による総攻撃が失敗し、さらに十一月、第三十八師団の船団輸送が失敗すると、陸海軍の首脳たちも秘かにガ島奪回をあきらめはじめました。連合艦隊司令長官山本五十六大将は、ガ島奪回を悲観する内容を記した軍令部総長あての書簡をしたため、上京する参謀に託しました。東條英機総理兼陸相は、船舶徴用の拒絶を通じて統帥部にガ島奪回を断念させる腹を固めました。杉山元参謀総長と田辺盛武参謀次長は、第二師団による攻撃が失敗してからガ島奪還に懐疑的となり、十一月二十四日、ガ島から帰還した辻政信中佐の報告を聞くにおよんでガ島奪回をあきらめました。
「ガ島では戦闘をしなくても兵力が二ヶ月で三分の一に減少すると覚悟すべきだ。マラリア等の熱帯病で次々とたおれていくからだ。ガ島戦の苦しさから比べると、ノモンハンなどはものの数ではない」
普段は強気一辺倒の辻中佐の口から語られたガ島の悲惨な戦況に、参謀本部の誰もが強い衝撃を受けました。
そんななか、ただひとり強硬にガ島奪回を主張しつづけたのは作戦部長田中新一中将です。とはいえ、その田中作戦部長でさえ戦後の回想によれば、前途に不安を抱いていました。そうでありながらガ島放棄の決断は遅れます。すでにガ島奪回の大命がくだっていたからです。大命をひるがえすことは、陸海軍とも建軍して以来まったく経験したことのない珍事です。参謀本部が出した命令に参謀本部が苦しめられるという滑稽な状況が生まれていました。しかし、笑い事ではありません。大命をひるがえすようなことをすれば皇軍存立の根幹をゆるがしかねないのです。加えて、大元帥たる天皇陛下に対し奉り、まことに畏れ多いことでした。そのため陸海軍首脳は、ガ島奪回を声高に叫びながらも、腹の底ではガ島奪回をあきらめるという裏腹な態度をとりつづけました。
ガ島の悲惨な戦況をその目で確認してきた服部卓四郎作戦課長と辻政信作戦班長は、悲惨な戦況を正直に報告しました。ですが、今後の作戦方針としてはあくまでもガ島の奪回を主張しつづけました。腹の内がどうだったのかは不明です。
ともかく誰ひとりとして「ガ島奪回は不可能である」と公言する者が参謀本部作戦課内には居ません。そして、周囲から聞こえてくる消極論に対しては強気な態度を示して拒絶しつづけました。
参謀本部内でいちはやく撤退論を進言したのは情報部の杉田一次中佐です。九月末に参謀本部から第十七軍司令部に派遣された杉田中佐は、戦況を視察してガ島奪還の不可能を悟り、撤退を進言しました。しかし、杉田中佐の報告を作戦課は拒否したうえ、杉田中佐のことを「消極参謀」と罵りました。それから二ヶ月ほどが経過しています。
井本熊男中佐は迷っていました。田中部長と服部課長の方針がガ島奪回である以上、課員として上司の命令に従うのは当然です。しかしながら、第三十八師団を載せた輸送船十一隻のうち十隻が沈没したという現実が井本中佐を懐疑的にしていました。
(連合艦隊に輸送船を守る力が無いなら、おしまいじゃ)
連合艦隊は輸送船団の護衛をおろそかにしたわけではありません。むしろ全力を投入して守ろうとしたのです。直衛に駆逐艦戦隊をつけ、上空直掩の戦闘機を発進させ、高速戦艦によるヘンダーソン飛行場への艦砲射撃を繰り返しました。そこまでやって、この結果だったのです。
そんな状況下の十一月下旬、海軍軍令部の山本祐二中佐が参謀本部を訪れ、井本中佐にひとつの提案をしました。
「万一の場合、ガ島からの撤退があることを考慮し、まずは幕僚間相互の研究をしておくべきだと思うが、どうか」
山本中佐からの撤退作戦研究の提案は、これで二度目でした。
「その必要は無いと思う」
井本中佐はこの提案を蹴りました。内心では、研究くらいはしておいた方がよいと思いましたが、作戦部長と作戦課長は強硬にガ島奪回の意志を表明しています。そうである以上、課員たる自分は上司の意に逆らうような振る舞いをひかえるべきだと思ったのです。同時に海軍の底意を疑いました。
(海軍は、腹の底でガ島撤退を望んでいるのかも知れん。だとすれば)
井本中佐は、この日、服部作戦課長にガ島への派遣を要望しました。
帝国陸海軍にはタブーがありました。敗北、降伏、撤退、退却、断念、消極姿勢、こうしたものが極端に忌避され、口にすることすら憚る風潮がありました。
「生きて虜囚の辱めを受けず」
戦陣訓に記されたこの一文が象徴的です。この戦陣訓を作成し、頒布したのは東條英機陸相ですが、この思想は東條陸相の発案ではありません。元から存在したものです。さかのぼれば武士道に行き着くでしょう。負ければ潔く腹を斬る、ということであり、ひるがえって是が非でも勝つという思想です。
武士道精神は帝国陸海軍に受け継がれ、日本軍を精強にしました。しかし、欠点も生みました。敗北や降伏や撤退を忌避するあまり、そうせざるを得なくなった場合の研究がなされませんでした。退却も戦術のひとつであり、撤退も戦略のひとつであるという観点に欠け、退却戦術や撤退戦略の意義を合理的に研究しませんでした。将兵が捕虜になった場合の行動についても教育訓練がなされませんでした。ガ島撤退の決断が遅れた原因はこんなところにもあったようです。
ついでながら日本軍将兵は捕虜になるとすっかり観念してしまい、一切の抵抗をやめました。収容所において紛争を起こしたり、敵の後方を撹乱したりするというしぶとさがありませんでした。国家が敗戦の憂き目に遭った場合の研究もありませんでした。関東軍は余力を残して降伏し、ソビエト赤軍の残虐行為に在満邦人と関東軍将兵を供してしまいました。占領期の日本政府には、占領されることに対する用意がまるでなく、戦勝国に憲法さえ変えられてしまいました。
後世から見れば不合理にしかみえない精神主義は、しかし、人間社会にはしばしば存在するものです。
たとえば精強を誇ったオスマントルコ帝国が衰退したのはイスラム原理主義のためでした。無線通信、ラジオ、内燃機関、近代的法制度などが次々と現れ、列強諸国がこれらをドシドシ導入していくなかで、オスマントルコ帝国だけは近代化を忌避したのです。イスラム教の聖職者が「反イスラム的である」として近代文明をことごとく排撃してしまったからです。このためオスマントルコ帝国は相対的に時代遅れとなり、その軍隊は力を失いました。その結果、第一次世界大戦で敗北したオスマントルコ帝国の広大な版図は列強に奪われてしまいました。トルコ半島までが亡国の危機にさらされましたが、ケマル・パシャという英雄が現れ、世俗革命を達成してイスラム原理主義を排し、天才的な軍略でイギリス軍を撃退し、ようやくトルコ共和国を残したのです。
帝国陸海軍に巣食った精神主義は、イスラム原理主義ほど極端ではなかったものの、似てはいます。武士道原理主義とでもいうべき傾向はなかなかに強く、戦車や航空機や大砲や通信機器などの新装備や火力の導入に対する消極姿勢となって現れました。その論拠は「兵隊が軟弱になる」という奇妙なものでした。すぐれた新兵器が導入されれば戦力が向上すると考えるべきところ、兵器が進歩すると兵隊の精神が弱くなるとする奇妙な論理が存在したのです。
こうした思想的素地は、失われてしまえば空気みたいなもので実態をつかめません。しかし、それが現に存在している社会では人間の態度をつよく制限します。ガダルカナル島をめぐる日本軍の苦しみも、元をたどればそんなところに原因があったといえるでしょう。
昭和十七年十一月十六日、参謀本部は、第八方面軍と第十八軍の編成を完整しました。第八方面軍司令官は今村均中将、第十八軍司令官は安達二十三中将です。第八方面軍の指揮下に第十七軍と第十八軍が入り、第十七軍がソロモン諸島を担任し、第十八軍がニューギニアを担当します。これにより第十七軍の負担は大幅に軽減します。しかし、ガ島の戦況とは関係がありません。後方で司令部を編成してみたところで戦況が好転するはずはありません。
井本熊男中佐は、新たに編成された第八方面軍参謀に補されるとの内示を受け、十二月四日、海軍の飛行艇に乗って横浜を発ちました。その機中、出発の直前まで続いた陸軍省との激しい折衝を思い返しました。船舶徴用問題はどうしても解決しませんでした。井本中佐は上司の方針にしたがって船舶徴用を要求しましたが、内心には迷いが生じていました。
(もしかりに船舶徴用の要求がすべて認められたとして、それでどうなる。輸送船団を組んでガ島に突入しても、連合艦隊にはこれを守り通す力がない。第三十八師団を乗せた十一隻の輸送船のうち十隻は沈んだのだ。それと同じ失敗をくり返すだけではあるまいか)
井本中佐は口外こそしなかったものの、ガ島放棄という選択肢を考え始めていました。飛行艇は、サイパンを経由してトラック島に着きました。さっそく連合艦隊の旗艦「大和」に向かいました。迎えてくれたのは宇垣参謀長です。
「この状況に至ったからには陸軍とか海軍とか面子にこだわって時機を失することがあってはならない。胸襟を赤裸々に開いて最善の方策をとるように努めよう」
宇垣参謀長は井本中佐の背中を叩きながら言いました。宇垣参謀長の口吻は、ガ島撤退を暗に示唆しているかのようでした。
「おっしゃるとおりです」
と如才なくこたえながら、井本中佐は考えます。
(海軍は上下一致してガ島撤退の方針を決めているらしい)
問題は陸軍です。陸軍参謀本部作戦課では、まだ誰も「撤退」の二文字を口にできないでいます。
(この目で現場を確認し、撤退すべきか否かを判断し、意見具申する)
そのように井本熊男中佐は決意しています。
翌日、井本中佐はトラックからラバウルへ飛び、第八方面軍司令官今村均中将に申告しました。司令部ではガ島攻撃案が練られていました。井本中佐もさっそく討議に加わります。攻撃開始は明年二月、航空撃滅戦を実施したうえで船団輸送を行い、ガ島の戦力を充実させるのが方針です。その具体案を検討しましたが、なかなか確信を持てません。
第八方面軍司令部参謀の意見は積極論と消極論に割れていました。ラバウルに長く滞在し、ガ島の実情をよく知る参謀は概してガ島奪回を悲観しています。一方、新たにラバウルに赴任してきた参謀はヤル気満々であり、闘志をむきだしにしてガ島奪回作戦に熱を入れています。積極派参謀は様々な作戦案を提案しますが、消極派参謀がそれらをことごとく否定します。
「君は現場の実情を知らない。甘いよ。そんなことはできるはずがない」
そう言われた積極派参謀は消極派参謀を批判します。
「あれは消極参謀だ。闘志を失っておる」
十二月七日夜、井本熊男中佐は、第十七軍作戦参謀の林忠彦少佐とふたりきりでガ島作戦について話し合いました。
「ガ島に対する補給は断絶状態に近い。海軍が輸送をやってくれているが、どうしても輸送量が小さい。第十七軍の現状維持は年内一杯が限度だと思う。来年二月の攻勢については望みが薄いと思う。はたして輸送がうまくいくか。いかないだろう。今できないことが、来年になったらできるのか」
林少佐は豪傑です。ウイスキーをラッパ飲みしながら、灯りに飛び込んでくる熱帯の甲虫を手づかみし、口中に放り込んでバリバリ噛み砕き、ウイスキーで胃に流し込むようなことをします。その林少佐にしてこの悲観論です。
(やはり撤退しかないのか)
この日、井本中佐は、第八方面軍参謀に補すという電報命令を受領しました。
翌八日は開戦記念日です。午前中、第八方面軍参謀の原四郎少佐から意見を聞きました。
「方面軍司令部参謀は、二派に分かれています。新しくラバウルに着任した参謀は概して強気です。この私も希望を捨てていません。しかし、前々からラバウルにいて第八方面軍に配属された参謀は、もはや必勝の信念を持っておりません。作戦案を提示しても、そんなのは無理だ、おまえは実情を知らんのだ、というばかりです。こちらが何を提案しても否定するばかりで議論にもなりません」
原少佐は不満げな顔で話を続けます。
「ガ島を放棄すべきか、それとも維持すべきかで大議論をやったことがありました。目立ったのは杉田一次中佐です。杉田中佐はガ島放棄を強く主張されました」
杉田一次中佐は参謀本部の情報参謀です。杉田少佐はアメリカ事情に詳しく、しかもガダルカナル島へ出張したことがあり、現場の実情を知っています。参謀本部の参謀として最も早く撤退論を明言したのは杉田中佐でした。しかし、このため杉田中佐は参謀本部内で非難の的とされました。
「負け犬の消極参謀めっ!」
こうなることはわかっていたに違いありません。それでも杉田中佐は勇気を奮って建言したのです。同じようにガ島を視察した服部卓四郎大佐と辻政信少佐は、この非難を恐れて「撤退」を口にするのを避けたのかもしれません。そして、井本中佐もなお撤退論を口外できないでいました。
ちなみに杉田一次中佐と井本熊男中佐は陸軍士官学校の同期ですが、親密とは言えませんでした。ふたりが仲違いしたわけではなく、その所属に問題がありました。井本中佐は作戦部、杉田中佐は情報部です。明治以来、参謀本部内では作戦参謀と情報参謀の仲が悪かったのです。
「情報部にはたいした情報がない」
作戦参謀はこう不満を述べます。これに対して情報参謀は反論します。
「作戦部からまともな情報要求が来たことはない。情報は漫然と集めても意味がないのだ。立派な情報要求を出してみろ」
作戦部と情報部の仲の悪さは組織的病弊でした。組織人である以上、組織の影響を受けないわけにはいきません。原四郎少佐も作戦部所属でしたから、杉田中佐に対する不満を口にしました。
「杉田中佐の意見にも一理はあるのですが、すでに第八方面軍にはガ島攻略の大命がくだっておりますので、撤退は問題にならないという結論に落ち着きました。それでも杉田中佐は撤退論を捨てておりません。わたしは海軍とも食糧補給問題で何度か折衝しましたが、やはり自信を失っている様子です。なかでも第八艦隊の神重徳参謀が撤退論を強く主張しておられます」
このほかにも原少佐はニューギニア方面の苦戦について教えてくれました。ニューギニア方面もガ島同様の戦局であるようです。要するに上級司令部が新たに編成されはしたものの、戦局は何も変わっていません。
記念すべき開戦記念日の午後三時、海軍からの要望で参謀会議が開かれました。第八方面軍参謀と海軍参謀がニッパ・ハウスに集まりました。冒頭、連合艦隊参謀の渡辺安次中佐が発言します。
「今日限り、海軍は駆逐艦による輸送を実施しない。ガ島に対しては潜水艦による補給輸送を行う。輸送任務に従事してきたわが駆逐艦隊は損害多発のため運用に行き詰まっている。これ以上は輸送に使用できない。駆逐艦の喪失がさらに累積すれば、海軍作戦全般を危機に陥れることになる。どうか忍んでほしい」
第八方面軍の参謀たちは衝撃を受けました。快速を誇る駆逐艦でさえ輸送任務に堪え得ないとすれば、輸送船団による一挙大量輸送など夢のまた夢です。そして、なによりも心配なのはガ島の第十七軍です。潜水艦による輸送ではたいした物量は運べません。ただでさえ飢えている将兵はますます窮迫するでしょう。
海軍は苦しんでいました。輸送作戦のたびに平均して二隻の駆逐艦が失われました。直近の二ヶ月間だけでも十隻以上の駆逐艦が戦列を離れています。駆逐艦十隻といえば、一年かけてようやく建造できる隻数です。海軍も無い袖は振れません。海軍はすでに十一月二十四日から駆逐艦輸送をとりやめていましたが、この日に至って陸軍側に通告したのです。
驚愕した第八方面軍参謀は、直ちに第八方面軍司令官今村均中将に報告しました。事情を知らされた今村均中将も大いに驚き、南東方面艦隊司令長官に面会し、何とか駆逐艦輸送を継続してくれと要請しました。しかし、海軍側の熱意は感じられませんでした。そこで今村中将はラバウルの連合艦隊司令部に要請電を発しました。
「経緯複雑なるこの大作戦を中断し、数万の軍を捨ててかえりみざるがごとき処置は方面軍のとうてい受諾する能わざるところなり。なにとぞ忍び難きを忍びて輸送を実施せしめられんことを」
しかし、山本五十六連合艦隊司令長官からの返電はありませんでした。やむなく今村均中将は参謀本部にあて発電し、海軍を説得するよう依頼しました。こうなったら最高統帥部において折衝してもらうしかありません。
海軍は陸軍からの要請を無視しませんでした。十二月十一日、駆逐艦十一隻によるガ島輸送が実施されました。が、それ以後は潜水艦輸送に切り替えられました。
陸海軍は協力し、飛行場をガ島方面へ推進する努力を継続しました。すでにブカ島のブカ飛行場、ブーゲンビル島のブイン飛行場は稼働しています。いまはニュージョージア島にムンダ飛行場を建設しつつあります。ムンダ飛行場の位置はガ島からほぼ三百キロです。ムンダ飛行場が稼働すれば日本軍機はガ島上空で長時間にわたり活動できます。そうすればガ島の制空権を確保する可能性が出てきます。しかし、飛行場建設は難航していました。日本軍の設営隊は人力頼みです。熱帯の密林を拓くには時間が必要でした。工兵の機械化という点において日本軍はアメリカ軍に相当な後れをとっていました。さらにアメリカ軍は航空攻撃と艦砲射撃で工事を妨害しました。ガダルカナル島に近いだけに妨害攻撃は執拗をきわめます。このため工事はなかなか進捗しませんでした。
十二月十日、井本中佐は第十七軍参謀山本筑郎少佐と意見交換する機会を得ました。山本少佐は率直に言います。
「従来と同じ努力をくり返しても戦況の打開はできません。航空作戦において勝ち目のない今日、ガ島に輸送船団を突入させても船舶と物資を失うだけです。たとえこのラバウルに数個師団の兵力を集中したとしても、海上において交通を遮断されてしまう。結局、ガ島の陸軍は枯渇し、消滅する。むしろ、ガ島は捨て、今のうちにニューギニア北岸に補給品の集積をしておく方がよい。そして、中部ソロモンのイザベル島とニュージョージア島の線を確保するべきです」
十二月十二日、ラバウルで海軍と陸軍の参謀会議が開かれました。議題は潜水艦輸送についてです。海軍側からは、その困難さが縷々述べられました。陸軍側としては懇請するほかありません。次いで、第八艦隊参謀の神重徳大佐が海軍の本心を率直に語りました。
「いまや海軍にはガ島確保の自信はない。ガ島に対しては攻撃計画とともに、撤退計画を立案することが必要だと考えている。撤退の構想は、来年一月、駆逐艦十五隻をもってする二回の輸送で第十七軍の主力を撤退させ、残余の将兵はカミンボ泊地に集結させた後、舟艇によって撤退させる」
連合艦隊の渡辺安次中佐がこれを補足し、井本中佐の顔を見ながら言いました。
「井本中佐、意見はありませんか」
「承知致した」
井本中佐はそれだけ言い、賛否の表明を避けました。海軍はもはや会議の席上でさえガ島撤退を堂々と論ずるようになりました。ですが、陸軍は違います。特に参謀本部作戦課から転出してきた井本中佐は独特の立場にいます。いまはまだ公の席で腹の底を見せることをためらいました。
翌日、陸海軍の参謀が合同でガ島攻撃作戦と船団輸送作戦を検討しました。終日かけての検討にもかかわらず成功の見込みは立ちません。
十二月十四日、連合艦隊から第八方面軍に対して改めて申し入れがありました。使者は渡辺安次中佐です。
「ガ島撤退作戦を陸海軍の幕僚間で研究しておきたい」
この提案を第八方面軍司令部は、この期に及んでなお拒みました。
「わが軍はガ島を攻略するよう大命を受けております。である以上、撤退を公式に研究することはできない」
ただ、井本熊男中佐が個人的に研究相手になる、ということでかろうじて海軍の提案は実質的に受け容れられました。
「よかった」
渡辺中佐は安堵の声をあげ、さらに山本五十六連合艦隊司令長官の言葉を伝えました。
「連合艦隊司令長官としては、陸軍に対する責任を自覚しており、ガ島の陸軍を見捨てるわけにはいかない。いまは大局的見地から、一時的にガ島を放棄し、将来に奪還する策に出る方がよいと考える。よって連合艦隊司令長官としてガ島撤退案を海軍軍令部に上申するかも知れない。その場合は、あらかじめ第八方面軍にも連絡する。ガ島撤退が実現するまでは陸軍を飢えさせぬよう努力する。ガ島撤退の場合、駆逐艦十隻くらいの損失は覚悟している。陸軍におかれても相当の犠牲を覚悟されたい」
これを聞いた井本中佐は腹を決めました。
(連合艦隊司令長官がガ島撤退を提案しているのだ。いまが潮時だ)
井本中佐は服部卓四郎作戦課長あての私信を書きました。海軍は公然と撤退作戦を研究しており、連合艦隊司令長官は撤退作戦の実施に相当の覚悟を持っている。また、第十七軍の山本筑郎参謀もガ島撤退しかないと訴えている。豪傑で知られる第八方面軍参謀林忠彦少佐さえガ島奪回に望みはないとしている。
(第八方面軍も第十七軍も大命に逆らえぬから黙っているが、本心は違うのだ。これ以上、現地軍を苦しめるべきではない)
井本中佐はガ島撤退を進言する私信を書きあげ、それを帰京する高山信武少佐に託しました。井本中佐は種々考案のうえ、ついに意を決めて建言に及んだのです。
(作戦課ではまだ誰もガ島撤退の声をあげちょらん。作戦課が変わらねば、大命も変わらん。まずはオレが言い出そう。それで左遷されるなら、それもまたヨシ)
心中にたまっていた迷いを吐き出した井本中佐は気持ちを新たにし、海軍の渡辺安次中佐とともにガ島撤退作戦を検討し始めました。すると、いきなり意見が対立しました。海軍は、海トラと呼ばれる小型貨物船で撤退を実施すると主張しました。海トラの航路をショートランド島~ニュージョージア島~ラッセル島~ガダルカナル島カミンボ泊地に設定し、海トラを往復させ、第十七軍を島伝いに撤退させるのです。
(海軍は駆逐艦と潜水艦の損害を極力抑えたいのだろう)
井本中佐にも海軍の苦衷はわかります。しかし、同意はしませんでした。
「高速の駆逐艦でさえ危ない海域を鈍足の海トラで航行すればどうなる。あのドン速では敵の餌食になるだけだ。たとえ夜間でも敵の哨戒艇に見つかったらお陀仏だ。海トラ航路を設定するとなれば停泊地に所要の諸施設をし、人員も配置せねばならない。時間を要するだろう。その間のガ島への輸送は海軍に依存するほかないが、海軍はその任に耐えられるのか」
井本中佐が詰め寄ると渡辺中佐は「できない」と答えました。次いで、駆逐艦による撤退作戦案の検討になりました。渡辺中佐はふたつの案を示しました。
「第一案から説明する。駆逐艦二十隻を使用して輸送を三回くり返す。一隻あたりの乗艦人員を五百名として、輸送一回あたりの損害を駆逐艦二隻と見積もる。すると、こうなる」
そう言って渡辺参謀は黒板に板書しました。
第一回 十八隻 九千人
第二回 十六隻 八千人
第三回 十四隻 七千人
「総計で二万四千人の撤退が可能だ。これが第一案。駆逐艦六隻が犠牲になるが、やむを得ない。第二案は、二十隻の駆逐艦を護衛に専念させ、輸送は海トラと大発動艇によって実施する。この場合、駆逐艦の攻撃力をすべて護衛に発揮できる。だが、敵機の空襲に遭えば駆逐艦にも海トラにも犠牲が出るだろう」
両案ともに犠牲は大きいと思われました。井本中佐には海軍の覚悟がよくわかりました。ですが、海トラのドン速輸送では撤退が成功する見込みはありません。
「渡辺中佐、撤退は攻撃よりも難しい。鍵は迅速さです。第十七軍は食うや食わずの情況です。敵の追撃を受ければ全滅するかも知れない。第十七軍は、全滅を賭して撤退する。海軍も腹を決めてほしい。撤退は駆逐艦によらなければ絶対にできない」
井本中佐は渡辺中佐に決断を促しました。