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輸送と消耗

 ガ島奪還作戦のために陸軍は新戦力をガダルカナル島に送り込もうとしました。第二師団の主力と第三十八師団の一部からなる約一万七千五百名の人員、火砲百七十六門、食糧二万五千人の三十日分、弾薬〇・八会戦分などです。この輸送を担当したのは海軍の高速艦艇です。連合艦隊は巡洋艦三隻、水上機母艦一隻、駆逐艦二十九隻、潜水艦二隻を輸送任務に投入しました。

 海軍将兵にとって輸送任務ほど不本意なものはありません。戦うために連日の苦しい錬磨に耐えてきたにもかかわらず、いざ戦場に臨んで輸送をさせられるのです。それでも将兵たちは不満を呑み込んで輸送任務に従事しました。

 九月十六日から輸送作戦が始まりました。駆逐艦による夜間輸送がくり返されました。ところが、二十日になるとアメリカ軍機による妨害攻撃が激しくなりました。このため艦艇輸送を一時的に中止せざるを得ず、これに天候不良が重なって輸送計画が大幅に遅れました。

「輸送が間に合わぬ」

 ラバウルの陸海軍司令部は輸送船団による大量輸送の実施を検討し始めました。輸送船は鈍足なので敵に狙われやすいという欠点があります。しかし、輸送力は大きい。ガ島奪還に必要な戦力を期日までに輸送するには輸送船団による一挙大量輸送が必要でした。

 十月に入ると海軍艦艇による輸送作戦が再開されました。巡洋艦と駆逐艦は快速を利し、敵の妨害に遭いながらも夜間輸送を成功させました。おかげで第二師団司令部は十月三日夜にタサファロングに上陸できました。

 ガ島では川口支隊の残存部隊がマタニカウ川西岸で息も絶え絶えに踏みとどまっていました。そこに援軍が来ました。第二師団の第四連隊です。第四連隊は川口支隊にかわって配置につきました。新戦力の第四連隊は東北健児からなる精兵集団であり、日本最強連隊のひとつでした。第四連隊はマタニカウ川東岸の高地を確保するよう命じられました。その高地を奪えばヘンダーソン飛行場を観測でき、後続するはずの砲兵部隊による制圧射撃が可能になります。攻撃再興のためにはぜひとも確保しておきたい要地でした。

 第四連隊は十月六日から渡河を開始し、一旦はその高地を確保しました。その動きをアメリカ軍は見逃しませんでした。十月八日からアメリカ軍の猛烈な攻勢が始まりました。第四連隊は応戦したものの、圧倒的な火力によって粉砕されてしまい、大損害を出しながら撤退しました。この結果、マタニカウ川左岸だけでなく、クルツ岬までもアメリカ軍に奪取されてしまいました。しかも第四連隊の戦力は三分の一に減耗してしまいました。攻撃再興の前提となるべき準備作戦は失敗でした。

 第十七軍司令部がガ島に上陸したのは十月九日夜です。第十七軍司令官百武晴吉中将とその幕僚を波打ち際で出迎えたのは、第二師団高級参謀平間寛次郎少佐です。

「わが方の第一線は敵の反撃を受けてマタニカウ川西方に後退し、第四連隊は全滅しました」

 上陸早々に悲痛な報告を聞かされて第十七軍司令部は衝撃を受けました。マタニカウ川東岸の高地は敵飛行場を砲撃するためにどうしても確保しておきたい要地でしたが、一旦は確保したものの敵に奪還され、しかも新戦力の第四連隊がわずか数日で全滅したと聞き、第十七軍司令部は声を失いました。そんななか、ひとり大声疾呼したのは参謀本部からの派遣参謀辻政信中佐です。

「全滅とはなにごとか」

 このあたりが辻政信という人物の徳の薄さでしょう。報告者を責めてもしかたがないのです。ともかく第十七軍司令部は出鼻を挫かれました。アメリカ軍は日本軍による要地占領を黙って見逃すほど甘くなかったのです。

 その後も海軍艦艇による輸送作戦は続けられました。水上機母艦「日進」による重機と火砲の輸送は不完全ながらも成功しました。駆逐艦による組織的な鼠輸送も続けられました。この輸送作戦を掩護するため連合艦隊は総力をあげてヘンダーソン飛行場に対する航空攻撃と艦砲射撃を繰り返しました。にもかかわらず十月十一日までに輸送し得た物資は計画の半ばにも達しませんでした。

 連合艦隊は、九月中旬から一日の休みもなくガ島攻撃と輸送に従事し続けました。そのため連合艦隊そのものが各種の補給と補修を必要とする事態に陥りました。

「現態勢を維持し得るのは十月二十一日までである」

 海軍からの通報は陸軍に衝撃を与えます。ガ島攻撃を再興するためには二十一日までに残り半分以上の輸送を完了せねばなりません。

「こうなったら連合艦隊が元気なうちに輸送船団による一挙大量輸送をやるしかない」

 船足の速い六隻の輸送船が選抜されました。この六隻に、歩兵第十六連隊(第二師団)、歩兵第二百三十連隊(第三十八師団)、十加一中隊、十五榴一中隊、高射砲一大隊、戦車一中隊、兵站部隊若干名、海軍陸戦隊八百二十四名、糧食八百万立米が搭載されました。

 六隻の輸送船は十月十四日早暁、ショートランド島沖で隊列を組み、ガ島へ向かいました。これを直衛するのは八隻の駆逐艦です。その上空をラバウル航空隊が掩護します。連合艦隊は空母機動部隊をガ島北方海域に進出させたうえ、十三日から十五日までの三日間にわたり高速戦艦及び重巡洋艦をルンガ泊地に夜襲突撃させ、ヘンダーソン飛行場に対する艦砲射撃を敢行させました。さらに、巡洋艦三隻、駆逐艦十三隻による艦艇輸送も併行して実施しました。連合艦隊は輸送とガ島攻撃に全力を傾けたのです。

 肝腎の輸送船六隻は、途中、二度の空襲を受けましたが、損害は軽微でした。そして十四日午後十一時、タサファロングの錨地に無事に入泊できました。以後、懸命の揚陸作業となります。

 連合艦隊の主力艦が三日連続で実施した艦砲射撃の打撃によってヘンダーソン飛行場は沈黙していました。なかでも高速戦艦「金剛」と「榛名」による艦砲射撃はヘンダーソン飛行場に甚大な被害を与え、その機能を麻痺させていました。

 しかし、十五日午前三時、はやくもヘンダーソン飛行場は息を吹き返します。アメリカ軍は、日本海軍による艦砲射撃の被害を免れた航空機と燃料をかき集め、戦闘機と急降下爆撃機を飛び上がらせました。アメリカ軍機は、ヘンダーソン飛行場から目と鼻の先に停泊している六隻の日本軍輸送船をくりかえし攻撃しました。そんな惨憺たる状況下、各輸送船では懸命の揚陸作業が続けられました。午前七時頃、「南海丸」がいちはやく揚陸作業を終え、帰途につきました。ですが、時間の経過とともにアメリカ軍機の攻撃が激しくなりました。午前八時四十二分、「笹子丸」が被弾して炎上し、「吾妻山丸」も爆撃されて擱座沈没しました。これをみた「佐渡丸」、「九州丸」、「崎戸丸」は揚陸作業を中断して沖合に退避しました。しかし、午前十一時頃に「九州丸」が被弾してしまいました。「九州丸」はやむなく海岸めがけて突進し、擱座しました。

 午後五時、海軍の護衛指揮官は生き残った輸送船二隻を再び入泊させるべくタサファロングに向かいました。これに対して陸軍の船舶団長は「月明なるにつき入泊を取り止めショートランドに帰港せよ」と連絡しました。このため海軍の護衛指揮官は輸送船二隻を率いて帰投しました。

 日本軍の輸送船がやっとの思いで海岸に揚陸させた物資をアメリカ軍機が狙い撃ちしました。このため、せっかく揚陸したばかりの物資の多くが失われてしまいました。こうして六隻の輸送船による一挙大量輸送作戦は失敗に終わりました。

 一方、これとは別に併行実施されていた艦艇輸送は成功していました。十四日、巡洋艦三隻、駆逐艦十三隻による陸軍部隊の輸送が成功しました。十七日にも、巡洋艦三隻、駆逐艦十五隻による輸送が成功しました。

 こうして輸送作戦は終了しました。人員はおおむね上陸できましたが、弾薬は二割、食糧は五割しか揚陸できませんでした。第十七軍司令部はさらなる輸送を要望しましたが、連合艦隊はこれを拒絶せざるを得ません。それほどに連合艦隊は疲弊していたのです。

 連合艦隊司令部は、高速戦艦による艦砲射撃の成功に愁眉を開いていましたが、それもつかの間、輸送船団による輸送が中途半端な結果に終わったことに衝撃を受けました。

(あれほどまでやってもダメなのか)

 連合艦隊の全力を傾注したにもかかわらず輸送作戦は中途半端な結果となりました。このため、連合艦隊司令部はガ島作戦に対する自信を失いはじめました。

 第十七軍司令部は十月二十四日夕より現有戦力で攻撃を実施することを決断しました。輸送作戦が不完全に終わったために砲兵力が不足しています。このため正攻法はとり得ないと判断し、奇襲作戦を採用しました。


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


 将兵たちの最前線における命がけの悪戦苦闘は、東京三宅坂の参謀本部には容易には伝わりません。報告電報は絶え間なく届いていますが、その電文の向こう側にある戦況の実態にまでには必ずしも想像が及ばないのです。このため参謀本部は電文報告に一喜一憂することになりました。

 十月二日、ラバウルに派遣されている辻政信中佐から田中作戦部長あてに電報が届きました。

「前途には波乱もあろうが大丈夫である。兵力も十分であるから安心せられたい」

 自信満々の辻電です。これを読んだ田中作戦部長と服部作戦課長は大いに喜び、「さすがは辻だ。辻が居れば作戦成功は間違いない」と楽観しました。

 その後、辻政信参謀はガ島へ上陸し、最前線の情況を目にします。十月十日の辻電は作戦課を意気消沈させるものでした。その電文は、歩兵第四連隊が大損害を受けたことや、総攻撃開始が著しく遅れるであろうことを伝えていました。なかでも輸送の実情を伝えた次の一節は重大でした。

「兵力、弾薬、糧食の輸送は、敵機の妨害のため計画のおおむね二分の一なるに過ぎず。さらに揚陸点より第一線までの補給は、夜間人力のみにより、かろうじて三分の一前後を前送し得る状態なり」

 敵の制空権下では陸上輸送さえ思うに任せないのです。当初、参謀本部作戦課では第二師団による次期総攻撃を正攻法で実施させる予定でした。しかし、輸送が計画どおりにいかず、砲門と砲弾が著しく不足し、敵飛行場を砲撃するのに適した高地も敵に奪われています。このため正攻法をあきらめ、奇襲をとらざるを得ません。攻撃を延期して補給を続けることも考えられましたが、すでに連合艦隊が疲れ切っていました。陸軍としては現状の戦力で攻撃を実施するほかなかったのです。

 日本軍の輸送作戦を粉砕したアメリカ軍は、日本に二十倍する国力を傾注して大兵站線を整備し、大量の物資を流通させていました。アメリカ本土、ハワイ、ニューカレドニア、フィジー、オーストラリアを結ぶ航路と航空路を設定し、港湾と飛行場と兵站基地を続々と整備し、大量の兵員と物資をガダルカナル島という一点に集積させていました。連合艦隊が攻めても攻めても攻めきれなかった原因は、アメリカ軍の大兵站作戦にあったのです。


 ガ島ではアメリカ軍がマタニカウ川東岸に強固な陣地を構築し、日本軍の進軍を阻んでいます。このため第十七軍司令部は、敵陣地を大きく南に迂回してヘンダーソン飛行場の南側へ主力を進出させ、夜襲突撃によって一気に敵飛行場を制圧する作戦をとりました。さきに川口支隊が試みて失敗した作戦と同類です。しかし、これ以外にとり得る作戦がありませんでした。

 二見秋三郎少将に代わって第十七軍参謀長に就任したのは宮崎周一少将です。宮崎少将は、海軍と連絡するためラバウルにとどまっていました。その宮崎少将はヘンダーソン飛行場の航空写真を入手しました。十月十三日および十四日に撮影されたものです。重要な兵要地誌です。宮崎少将は、航空写真を部下の山内豊秋参謀に持たせてガ島の第十七軍司令部に届けさせるとともに、航空機によるガ島への空中投下も実施させました。さらに宮崎少将は第十七軍司令部に電報し、注意を喚起しました。

「飛行場南方には、七月二十三日撮影の写真には見られなかった相互連携する施設、多数の自動車道、陣地が認められる」

 つまり、手薄だと考えられていた敵飛行場南側には新陣地らしき構造物があるから注意せよというのです。この航空写真は第十七軍司令部のほか、各部隊長の手にも渡りましたが、すでに作戦は発動されており、奇襲のほかにとり得る作戦はありませんでした。

 第二師団の総攻撃は二十日夕からはじまる予定でしたが、ジャングル内の移動に手間取りました。それも無理はありません。第二師団の各部隊は道なき道を進んだのです。丸山道および舞鶴道とよばれる道は、いずれも密林内の枝葉を払って人ひとりが通れる程度に拓かれただけの獣道でしかありませんでした。しかも屈折、登り、降りが絶え間なく続きます。胸突き八丁のような急坂もあれば、足がズブズブ沈み込む沼のような場所もあります。太古の巨木が朽ちて幾本も横たわって行く手を阻んでいます。そんな道ではあっても工兵隊が必死の努力でようやく開いたものです。この獣道がなかったら、作戦はとうてい実行できなかったでしょう。

 とはいえ厳しい行軍です。とくに砲兵隊は苦労しました。前線に大砲を運ぶべく必死の努力が重ねられました。しかし、この絶望的な行軍に耐えかねて兵隊たちは砲身や砲台や車輪や弾丸などの重量物を放棄せざるを得ませんでした。

 一個師団の大兵力が一本の細い獣道を一列縦隊で進んだら予定が遅れて当然です。このため攻撃は延期され、結局、攻撃開始は二十四日の夕刻となりました。

 そんな苦心惨憺たる現地の状況は参謀本部にはわかりません。わかったところでどうしようもなかったでしょう。十月二十三日深夜、第十七軍司令部より次の電報が参謀本部に届きました。

「第二師団は敵に発見せられることなく、敵に近迫中なり。第一線よりの報告によれば予定時刻に突入し得る状態にあり」

 この攻撃直前の段階において第十七軍司令部は攻撃の成功を確信していました。しかし、海岸部に所在していた住吉支隊はマタニカウ川渡河作戦を実施して、かえって敵に撃退され、大損害を被っていました。独立戦車第一中隊の戦車十両も全滅していました。さらに重砲陣地の砲兵は早くも全弾を撃ち尽くしていました。悲観材料には事欠かなかったのです。それでも第十七軍司令部は勝つと確信していました。現地軍司令部にしてそうであってみれば、ラバウルの第八艦隊司令部やトラックの連合艦隊司令部はもちろん、東京の陸軍参謀本部と海軍軍令部が成功を信じたのも無理はありません。

 なぜ勝つと思えたのか。いまにして思えば不思議です。しかし、(いく)さとはそういうものかも知れません。桶狭間の今川義元は敗北を予想していなかったし、関ヶ原の石田三成も勝利を確信していました。ミッドウェイの南雲機動部隊も勝利を疑わなかったのです。勝利を信じて戦った結果として敗者になるのです。そうでなければ戦う前に退却するでしょう。

 攻撃の当夜、参謀本部作戦課では井本熊男中佐、竹田宮恒徳王少佐、晴気誠大尉が吉報を待っていました。

「二一〇〇バンザイ」

「二一〇〇、第二師団右翼隊は飛行場を占領せり。同時頃、左翼隊は飛行場付近の敵と交戦中」

 この電文が受信されると、参謀本部は歓喜に包まれました。作戦課内も欣喜雀躍の様相を呈し、いつもは冷静な井本中佐でさえいつになく興奮し、業務日誌のページいっぱいに「天下一品の夜」と大書しました。ところが、二時間後、訂正電報が届きます。

「ただ今の飛行場占領は飛行場付近で激戦中の誤りなり。突撃は成功せず」

 参謀本部は意気消沈しました。

 第二師団の総攻撃は豪雨と密林とアメリカ軍の重砲火に阻まれて、結果的には散発的なものに終わってしまいました。未開の密林内にあっては各部隊長が部下を掌握することすら困難でした。それでも一部の部隊は敵の陣地に対して絶望的な白兵突撃を敢行し、ごく少数ではありましたが敵陣内への進入に成功する者も現れました。

 このとき敵陣地内への突入に成功した第二十九連隊第三大隊第十一中隊長勝股治郎大尉は、盲滅法に撃ちまくってくる敵の機関銃に苦しめられ、かつ驚嘆しました。

 日本軍にあっては「銃弾(たま)一発は血の一滴」とされ、ムダ弾を撃てば叱り飛ばされます。これに対してアメリカ軍は相手を確認することもなく、まずは弾幕を張って敵を威嚇します。屍体に対しても撃つ。暗闇に向けて探索射撃をする。ともかく間断なく天文学的弾量を終日でも撃ち続けるのです。

「他の天体の出来事に思われた」

 と勝股大尉は戦後に回想しています。勝股大尉は鉄条網を越えて敵陣地内に進入しましたが、部下はわずか三名しかいませんでした。これでは突撃しても死ぬだけです。やむなく後退を決意しました。敵の機関銃は発射煙が濃くなると一時的に止みます。その瞬間をとらえて鉄条網を越え、退却しました。勝股大尉にとって意外だったのは、アメリカ軍の鉄条網の粗末さでした。その高さは一メートルほどしかなく、その気になれば乗り越えることができます。

(このことを全軍に伝えねば)

 そう思った勝股治郎大尉は、負傷した身体を引きずって第二師団司令部を目指しました。勝股大尉は右足首に貫通銃創を受けており、右膝上と右頬と大腿部裏側にも擦過傷がありました。それでも杖を頼りにジャングル内の獣道を歩きました。歩くうちに電話線を発見しました。それをたどっていくと第二師団の戦闘司令所に着きました。午前八時頃です。

「自分は第二十九連隊第三大隊第十一中隊長勝股治郎大尉であります」

 申告した時、そこには第二師団参謀長玉置温和大佐と参謀本部作戦参謀辻政信中佐がいました。勝股大尉は戦況を報告しようとしました。が、数日来の困難な行軍と昨夜来の突撃、退却、負傷、空腹などのため疲労困憊しており、思うように話せません。それでも必死で報告しました。

「参謀殿・・・突撃を失敗させ・・・申し訳ありません。・・・各中隊は突撃しましたが・・・敵の火点にやられたのです。夜襲の・・・夜襲のときには射撃をしないことになっておりますが、・・・射撃をして敵の火点を沈黙させ・・・それから突撃するべきであります。・・・それから敵の鉄条網です。・・・たいしたことはありません。乗り越えられる程度のものであります。・・・わが軍は鉄条網の前で立ち止まり・・・そこを敵の機銃に撃たれました。次の攻撃にあたっては」

 勝股大尉の必死の意見具申を辻参謀は聞こうとしませんでした。辻参謀は大きく目を見開くと、自分が知りたいことを質問しました。

「いったい第二十九連隊は突撃したのか」

 こう言われて勝股大尉は唖然としてしまいました。第二師団司令部には何ひとつ報告が届いていなかったらしいのです。このため勝股大尉は第二十九連隊の戦況をはじめから報告しなおしました。疲労と負傷をおして懸命に報告する勝股大尉を、辻中佐は詰問口調で烈しく追及しました。

「なにっ!鉄条網を越えなかっただと」

「なにっ!悲鳴をあげた者がおるのか」

「なにっ!軍旗が突入しただと」

「連隊長はどうした!生きておるのか、死んでおるのか」

「那須閣下はどうした」

 きびしく叱責するような辻政信中佐の尋問に、疲れ切っている勝股大尉はうまく応答できません。やっとの思いで戦況を話し終えたのち、勝股大尉は気をとりなおして意見具申しようとしました。ですが、辻政信参謀には聞く耳がありませんでした。

「とにかく歩兵団長の那須閣下に会って後図を策さねばならぬ。オマエは歩兵団司令部を知っておるだろう。オマエが案内せい。玉置参謀長もご同道ください」

 勝股大尉が先頭に立ち、歩兵団司令部へ向かうことになりました。

「腹が減ったろう。少ないが食べてくれ」

 第二師団司令部を離れるとき、辻中佐は乾麺包を勝股大尉に手渡してくれました。また、杖をついて右足をひきずる勝股大尉にいたわりの声をかけてもくれました。

「どうだ。痛むか。参謀長、すこしゆっくり行きましょう」

 勝股大尉が辻政信中佐に会ったのはこのときが初めてです。ただ、その令名は聞き知っていました。明敏な頭脳を持つ天才的な作戦参謀だと信じていました。その天才参謀に戦況を報告でき、不得要領ながらも意見具申できた。きっとよい作戦を考えてくれるに違いないと期待しました。

(今夜の夜襲はきっと成功する。オレはそこで死のう)

 勝股大尉は満足感にひたりながら歩きました。歩兵団司令部には正午頃に着きました。その司令部で第二兵団長那須弓雄少将、第二師団参謀長玉置温和大佐、参謀本部参謀辻政信中佐の会談がもたれました。その会談内容を勝股大尉は知りません。案内役を務め終えた勝股大尉は再び最前線へ戻ったからです。

 その夜、第二師団は予備隊の第十六連隊を投入して再攻撃を実施することになりました。勝股大尉は、第二十九連隊第三大隊の指揮を任されました。先任の大隊長と中隊長がことごとく戦死していたからです。部下の数はわずか四十名しかいませんでした。一個大隊の定員はおよそ六百名ですが、第三大隊の兵数は十分の一以下に減っていたのです。

(どんな作戦になるか)

 勝股大尉は辻参謀の新作戦を期待しましたが、その夜の作戦は、前夜と同じ銃剣突撃であって、何らの工夫もみられませんでした。勝股大尉は失望しました。

(オレの意見具申は無駄だった)

 勝股大尉は懇意の中隊長ふたりを見つけると、そのふたりに前夜の体験を話しました。

「突撃の前に敵の火点をかならず制圧すべきだ。そのために機関銃隊を使うべきだ。それから突撃の際には鉄条網の前で立ち止まらず乗り越えよ。たいして高くないぞ」

 日本軍は突撃しました。アメリカ軍の銃砲火は前夜にまさる猛烈さでした。機関銃弾と迫撃砲弾と榴弾砲弾が間断なく降り注ぎ、勝股大尉は敵陣に突入できぬまま朝を迎えました。

 第二師団は甚大な損害を被りました。大隊長、中隊長の戦死が相次いだばかりでなく、第二十九連隊長古宮正次郎大佐、第十六連隊長広安寿郎大佐、第二歩兵団長那須弓雄少将が戦死しました。

 それらの悲報は続々と第十七軍司令部にとどきました。ときを同じくして東京の参謀総長からは督戦電報がとどきました。

「諸情報を総合するに、ガ島の敵は孤立包囲せられ極めて窮境に陥りあるもののごとく、まさに連続力攻、一挙殲滅の好機なり」

 じつに間の悪い督戦電報を第十七軍司令部がどんな気持ちで読んだかは推して知るべきでしょう。ともかく第二師団の攻撃失敗を知った第十七軍司令官百武晴吉中将は、十月二十六日午前六時、攻撃中止を発令しました。


 同じころ海上では日米の空母決戦が生起していました。南太平洋海戦です。日本海軍の艦上攻撃機が敵空母群を果敢に攻撃し、空母一隻を撃沈し、空母一隻を中破させました。しかしながらガ島の戦況には影響しませんでした。第十七軍司令部にとっての災いは、海軍が南太平洋海戦の戦果を過大に発表したことです。

「ソロモン海域で作戦中、連合艦隊はサンタクルーズ北方海面において航空母艦四、戦艦四、巡洋艦、駆逐艦、合して二十余隻の敵艦隊を捕捉し、その全空母を殲滅、敵を潰乱に陥れ、目下追撃中なり」

 大戦果です。この過大な虚報を陸軍は信じました。海軍を信頼していたからです。参謀本部作戦部長田中新一中将は、海軍の大戦果に比べ、第十七軍の敗北を不甲斐なく思い、第十七軍司令部に次のように指導電を発しました。

「本二十六日における海軍の戦果は極めて大にして、米国側の放送等によれば敵また苦悩しあるところをもって、いわゆるいま一押しの感少なからず」

 海軍が過大な戦果を発表し、これに刺激された陸軍首脳が現地軍に無理難題を押し付けるという悪循環が早くも現出しつつありました。「いま一押しの感少なからず」という批評は、現地の第十七軍司令部にとって過酷すぎる叱咤です。この一文につづいて田中作戦部長電は戦術上の事細かな指示まで与えています。しかし、このころ参謀本部にはガ島の兵要地誌さえなかったのです。そうでありながら六千キロ離れた東京から戦術指導をするなど児戯に等しい行為です。また、田中電は、服部作戦課長をガ島に派遣すると予告しました。

 これを読んだ第十七軍司令部はよほど憤ったようです。高級参謀小沼治夫大佐の名で、二十八日、田中作戦部長に返電しています。その内容は、第二師団による攻撃失敗の経緯と原因を詳細に論じたもので、そういう事情であるから田中部長電の戦術指導にしたがうことは不可能だとしています。なかでも輸送の困難を指摘した次の一文はガ島の実情を余すところなく表現していました。

「ガ島に対する兵力集中は甚大なる日数を要するものにして、絶大なる努力にかかわらず机上の算定とは著しく異なるものとす。特に資材糧秣関係においては十を計画して六を送り、六を送りて三を揚陸せしめ、ようやく二を使用し得るがごとき困難性を了解ありたし」

 ちなみに小沼治夫という人物は、陸軍内にあって批判精神を存分に発揮したことで知られます。若い頃、日露戦争の勝利に疑問を持ち、「決して勝ってはいない。戦争が終わったから勝っただけだ」という主旨の論文を書き、上司から大目玉を食いました。ノモンハン事件の戦訓調査にあたった際、小沼中佐(当時)はソ連軍砲兵の充実ぶりを評価し、日本軍は大々的に火力の充実を図るべきだとする報告書を提出しました。すると、上司から叱責されました。

「お前は弱虫だ。日本軍には昔から大和魂があって戦さに負けたことはない。通常のソ連軍はあれほどの火力など持っておらん」

 小沼中佐はひるまず反論しました。

「事実、負けているではありませんか。大和魂で兵隊さんがぶつかっていって、死んで帰ってきたではないですか」

 こうした小沼中佐の反骨精神は陸軍内ではつねに少数意見でした。

 昭和十七年九月、参謀本部に勤務していた小沼治夫大佐に第十七軍への転出が内示されました。このとき小沼大佐はいったん断っています。

「私は対ソ戦しか知らない。アメリカ軍も、海や空の戦さも、島の戦術も知らない。だれか適任者がほかにいるのではないか」

 しかし、異動命令はくだりました。第十七軍への転出に際し、参謀総長と参謀次長と作戦部長は小沼大佐に次のような訓示をしました。

「こんどは前回のように小出しにやるんじゃなくて、四つに組んで横綱相撲をやってくれ」

 要するに充分な戦力を集中したのちに攻勢に出ろというのです。

「ならば、戦力を集中するまで攻撃を遅らせてよいのですね」

 小沼大佐が問うと、それはダメだという。アメリカ軍は毎日のようにルンガ岬に輸送船を入泊させ、どんどん物資を揚陸している。だから攻撃は早い方がいい。また、協同で作戦にあたる海軍は月齢を作戦の基礎としている。月齢からしても急ぐ必要がある。さらに、服部卓四郎作戦課長は小沼大佐にこんなことまで言いました。

「上奏の関係もある。ガ島に対する陛下のご軫念は格別である。われわれは一日もはやく宸襟を安んじ奉らねばならぬ」

 小沼大佐は腹に据えかねましたが、不敬にならぬよう言葉をのみこみました。命令は当初から矛盾していたのです。横綱相撲をとれといいながら、急げという。そして、急がされた結果が敗北だったのです。その結果に対して「いま一押しの感少なからず」などといわれれば、だれでも文句を言いたくなるでしょう。

 井本熊男中佐は、参謀本部作戦課の電報つづりにとじられた小沼高級参謀の電文を読み、艱難辛苦に歯ぎしりしている現地軍の無念を感じました。そして、バンザイ電にヌカ喜びして大はしゃぎした自分を恥じました。

(東京とガ島では認識がまったくちごうちょる。オレはラバウルの空気を吸うてきたのに、東京にもどって幾日かたつうちにすっかり忘れちょった)

 

 ラバウルで海軍との折衝にあたっていた第十七軍参謀長宮崎周一少将がガ島に上陸したのは十月二十九日の夜です。ガ島の実情をはじめて目にした宮崎少将は少なからず驚きました。翌朝、第十七軍司令部の参謀会議において宮崎少将は輸送に関して悲壮な報告をせねばなりませんでした。

「わが海軍の力は弱まっている。敵による損害もさることながら、ながく洋上にありつづけたため多くの艦船が整備補修を必要としている。正規空母も内地に帰らねばならない。ために海上輸送は今後ますます困難となるだろう」

 参謀本部作戦課長の服部卓四郎大佐がガ島に上陸したのは十一月です。服部大佐は、十月三十日に東京を発ち、十一月三日朝にガ島の第十七軍司令部に至り、現地の惨状を視察して、十一月十一日に帰京します。ちなみに辻政信中佐は十一月八日にガ島を後にして参謀本部に帰任しています。

 服部大佐が第十七軍司令部に到着した朝、朝飯が出ました。小さな器にご飯がほんの少しだけ盛られ、それに塩が少量そえられています。

「たったこれだけか。毎日こんな調子なのか」

 不服そうな顔の服部大佐に対して、第十七軍高級参謀小沼治夫大佐が不満をぶつけます。

「これだけもなにも、ご飯なんか一週間お目にかかれないこともある。これが、遠来の賓客に提供できる精一杯の贅沢です。ご不満だというならトカゲでもヘビでもヤシガニでも捕まえてお食べになればよろしい。もっとも、ほとんど獲りつくされてしまっておるが」

 服部大佐は驚嘆し、参謀本部に発電しました。

「糧食欠乏せり。軍司令官といえども定量の二分の一以下にして、将兵ことごとく栄養失調の症状を呈せり」

 この時期、アメリカ軍が攻勢に出ていました。このため第十七軍はマタニカウ川の線から六キロほど西のコカンボナへと後退を余儀なくされました。服部大佐が折々に発電する現地情報は悲惨な情況を参謀本部作戦課の参謀たちに伝えました。

「実情は想像を絶する」

「第二師団の戦力は四分の一以下なり。正攻法は不可能」

「海軍機の協力なく、制空権は敵にあり」

「敵機の跳梁跋扈は目に余る。わが軍はひたすら隠れるのみ」

 それでも服部大佐は、第十七軍司令部での協議で「なにがなんでも」と言い言いし、ガ島奪回を主張しました。服部大佐の反攻作戦構想は次のようなものでした。

 攻撃時期を十二月末とし、第三十八師団を急送するとともに、予備隊として二個師団をラバウルに集結させる。陸軍航空隊をラバウルに進出させて航空兵力を増強し、ガ島近くに新飛行場を推進建設する。そして、充分な補給のもと陸上部隊をアウステン山からマタニカウ川の線へ推進し、航空部隊の掩護のもと、一兵団をクマ高地へ向かわせて一点を突破し、以後、占領域を拡大して敵飛行場を攻略する。服部大佐はあくまでも強気です。

 現地での協議結果は参謀本部作戦課へ打電されました。作戦課にあってその電文を読んだ井本熊男中佐は「これしかない」と思いました。充分な戦力をガ島に上陸させ、充分な航空支援の下に攻撃させる。単純な戦術理論です。ですが、服部大佐も井本中佐も重大な事実を見落としています。それは、連合艦隊がガ島周辺において制空制海権を確保できないという事実です。この一点においてガ島輸送作戦は蹉跌したのです。輸送の失敗が作戦の失敗を生んでいるのです。ガダルカナルで始まったこの不幸な連鎖は、大東亜戦争の終結まで日本軍を苦しめます。

 しかしながら「海軍が悪いのだ」とは参謀本部の誰も言いません。陸海軍は互いに縄張り意識を持っており、相互の分担を尊重し合い、その限りにおいては敬意を払い合い、遠慮し合っていました。だから海軍の責任を陸軍が問うということはありません。良くいえば陸海軍は尊重し合っていたし、悪くいえば統合が不足していたのです。

 そのため陸軍は海軍の本当の姿を知りません。海軍の戦果発表が過大だったことが陸軍の判断を誤らせていました。そして、海軍も意地と面子にこだわり、実情を洗いざらいに打ち明けることをしませんでした。

 十一月十一日に帰国した服部卓四郎大佐は、参謀本部および陸軍省に対して戦況を報告しました。その内容には真実と誤謬の混在しています。服部大佐は第二師団による総攻撃失敗の理由として、敵が完全に制空権を掌握していること、敵の圧倒的な火力、敵の陸海空統合戦術、わが軍における糧食と衛生の不備、米軍の圧倒的輸送力をあげました。これらはまったく正しい認識でした。しかし、服部大佐はさらに、大隊長級の能力薄弱、第十七軍司令官の現状把握不足、士気の麻痺を敗因としてあげました。このあたりが誤謬といえるでしょう。服部大佐は現地軍の大隊長に敗因を押し付け、参謀本部作戦課の判断ミスにはいっさい触れませんでした。

 服部大佐は戦況奏上を仰せつけられ、宮中に拝謁しました。服部大佐は攻撃失敗の経緯を正直に言上しましたが、あくまでもガ島を奪回する決意を表明しました。

「戦場を視察して痛感いたしましたことは、日米の決戦が真にこの方面に展開しておりますことの実感でございます。今後、非常の覚悟と努力とをもって、まず敵航空戦力を制圧し、次いであくまでこれが奪回を策すべきものと信じます」

 こうした参謀本部の態度に「待った」をかけたのは意外にも陸軍省でした。相剋は陸海軍間ではなく、むしろ陸軍内で発生しました。軍令と軍政の対立です。

 参謀本部は軍令機関です。作戦全般を統括しています。だから参謀本部作戦課の参謀たちがあくまでも作戦によってガ島の戦況を好転させようと考えたのは当然です。それが任務なのです。作戦は統帥機関たる参謀本部の専権事項です。これを統帥権といいます。だから、陸軍省といえども作戦には介入できません。一方、陸軍省は軍政を担務しています。軍政とは、そもそもの陸軍の規模を定め、予算と人材と資源を確保し、兵器と装備を生産し、他省庁との連絡を司ります。この軍政権も独立した権力です。

 その軍政権を持つ陸軍省が、ガ島の戦況についてはじめて憂慮を表明したのは、去る十一月一日でした。陸軍省軍事課長の西浦進大佐が参謀本部作戦部に来訪し、東條陸相の意向を伝えました。

「ガ島に対する糧食補給が途絶えがちのことについて陸相は深く憂慮しておられる。作戦部長の今後の企図を知りたい」

 遠慮がちの表現ながら、作戦指導への不満が垣間見えます。東條英機陸相は、ガ島の戦況を仄聞(そくぶん)し、兵力および輸送船の消耗を憂慮していたのです。また、東條英機大将は総理大臣でもあります。国民生活や産業全般への影響にも心を配らねばなりません。

 陸軍省からの申し入れに対し、作戦部長田中新一中将は、十一月二日、軍務局長、整備局長、軍事課長、軍務課長などに対する戦況報告を行い、今後の作戦方針を説明しました。

「いま、過早に東南太平洋を撤退したら、西太平洋の制海権はどうなるのだ。制海権と船腹のうえに立てられた日本の戦争経済、そして大東亜長期戦争計画は、たちまちにして破綻するほかはない。もっと頑張って態勢の建て直しをするのだ。ともかくガダルカナルの固守がさしあたりの仕事だ」

 開戦前から陸軍作戦全般を指導してきた田中新一中将には日本軍の弱点がよくわかっていました。攻勢をとり続けなければならないのです。アメリカ軍をガダルカナルという一点で足止めしておく必要がありました。太平洋方面の守備態勢はまったくの未完成だったからです。傲然たる態度でガ島奪回を主張した田中中将は、陸軍省に対して弾薬食糧補給態勢の強化、年間一万一千機の飛行機生産、五百師団会戦分の弾薬完備を要求しました。田中中将の口吻は陸軍省を鞭撻するかのようでした。言われた陸軍省は驚きました。驚天動地の要求であり、とても達成できる見込みはありません。

 十一月四日、陸相官邸において陸軍大臣に対する作戦説明会が開かれました。陸軍省からは東條英機陸軍大臣をはじめ、木村陸軍次官、佐藤軍務局長、吉積整備局長などが出席しました。参謀本部からは田辺次長、田中作戦部長、そして井本熊男中佐が参加しました。

 田中新一作戦部長が説明に立ちました。田中部長は、ガ島奪回作戦を中心に、各方面に対する積極作戦を説明しました。そして、それに要する軍備と軍需品の整備を陸軍省に求めました。

 応じたのは東條陸相です。東條陸相はガ島奪回作戦を認めました。作戦には介入できないからです。ですが、軍政の立場から釘を刺すことを忘れませんでした。

「わが国の国力には限度がある。よって作戦は重点のみに限定し、いたずらに戦線を拡大せぬことが肝要である。現在の陸軍総兵力二百三十万を超過してはならぬ。船舶のいたずらな徴用は厳に戒めねばならない。陸軍が徴用すれば、海軍も張り合って徴用してくる。それでは民間産業が立ちゆかない。国家全体の観点から、国力を越えるような作戦は慎まねばならない」

 この発言は参謀本部にとって衝撃でした。過去に、船舶徴用や物資動員をひかえるよう注意を喚起されたことはありました。が、この日、東條陸相が明言したのは明確な要求です。作戦に必要な物資人員がすべて用意されると思うな、というのです。参謀本部と陸軍省の対立、軍令と軍政の相剋です。一部始終を脇で見ていた井本中佐は東條総理兼陸相の言い分に腹を立てました。

(まだアメリカ軍の本格反抗さえ始まっておらんちゅうのに、こっちの国力を憂慮してどうする。戦争の勝敗は武力戦で決まる。ガ島奪回のためには戦力増強以外に策はない。航空機も輸送船も出し惜しみをしている場合ではない)

 井本中佐の思考は、あくまでも作戦参謀のものでした。敵の本格反抗はまだ始まっておらず、武力戦が戦争の帰趨を決めると信じていました。ですから、作戦所要の物資人員船舶は無制限に用意されて当然だという頭です。

 そんな参謀本部に対して陸軍省は甘い顔を見せませんでした。物資と船腹の不足という軍政上の厳しい現実が陸軍省の態度を硬化させていたのです。総理兼陸相の東條大将は日本全体のことを考え、総力戦的思考をしました。船舶の大部分を軍が徴用してしまえば民間産業が麻痺し、戦争資材を生産できなくなります。

 省部は反目しました。陸軍省は、参謀本部の主張するガ島奪回作戦を否定したわけではありません。ただ船舶の新規徴用を拒否しただけです。しかし、こうなると参謀本部は現状の輸送船だけでガ島を奪回せねばなりません。

 参謀本部作戦課は、現状の船腹を前提としてガ島奪回作戦を検討し直しました。結果はうまくいきません。新たな船舶徴用を実施して大規模な輸送船団を送り込み、十分な兵力をガ島に上陸させないことには、どうにもならないのです。

「新規船舶徴用二十万トンが必要だ」

 参謀本部作戦部は陸軍省軍務局に新規船舶徴用を要望しました。要望された軍務局は驚嘆しました。無理に決まっていたからです。


 ラバウルでは、かねてより実施が決定していた第三十八師団の輸送作戦が遂行されつつありました。すでに第三十八師団の司令部は十一月十日夜にガ島に上陸し、第十七軍司令官百武中将から命令を受領し、戦闘司令所を開設していました。ただし、その主力はなおラバウルに残っています。

十一月十二日の未明、八万トンの物資人員を満載した輸送船十一隻は、十一隻の駆逐艦に守られてショートランド島を出発しました。ガ島を目指して南下します。これを守るため連合艦隊は現有の航空および海上戦力を全力投入しました。なかでも期待されたのは、高速戦艦「比叡」と「霧島」による夜間艦砲射撃です。三式弾を大量に撃ち込むことでヘンダーソン飛行場を沈黙させ、その間に輸送を完了しようと考えたのです。

 十一月十二日午前三時半、阿部弘毅中将の率いる第十一戦隊はガ島に接近しました。その戦力は戦艦「比叡」、戦艦「霧島」、軽巡「長良」、駆逐十四隻です。海上からヘンダーソン飛行場を正確に砲撃するためには地上部隊の灯火を確認せねばなりません。数カ所に設置される灯火を頼りに敵飛行場の位置を割り出して照準を定めるのです。ところが、この日はあいにくの雨でした。ガ島とサボ島にあるべき灯火が雨と濛気のため確認できません。加えて偵察機による飛行観測もできませんでした。阿部中将は砲撃の中止を決断し、全艦一斉回頭を下令しました。この命令が一部の艦艇に伝わらなかったため隊形に混乱が生じました。反転してしばらくすると皮肉なことに雨が上がりました。

「ガ島方面天候良好」

 ガ島の海軍観測班からの入電です。航空隊からも「小雨を冒し哨戒機発進」との電報がとどきました。

 阿部弘毅中将は艦砲射撃の実施を決意し、再度の一斉回頭を命じました。隊形はますます混乱しました。主隊に先行すべき先鋒の駆逐艦五隻のうち三隻が、主隊の後方五キロに位置していました。それでも駆逐艦二隻に先導され、主力たる戦艦二隻はルンガ沖へと進みました。陸上の灯火が視認できました。砲撃コースに入るため第十一戦隊は午後十一時二十五分に変針しました。しかし、このときすでに第十一戦隊はアメリカ軍のレーダーに捕捉されていたのです。

 アメリカ海軍は日本艦隊の動静を察知して、重巡三隻、軽巡三隻、駆逐八隻の護衛艦隊をルンガ沖に待機させていました。

 午後十一時四十四分、駆逐艦「夕立」の見張り員が敵艦を発見しました。「夕立」の艦長は無線封止を破って敵発見電を打ちました。

「敵巡洋艦以下、七隻見ゆ」

 戦艦「比叡」でも敵艦隊を視認できました。阿部中将は攻撃目標の転換を命じました。右上を向いていた各主砲塔の砲門は回転して左水平に照準を合わせました。このとき戦艦「比叡」と「霧島」は陸上攻撃用の三式弾を装填していました。徹甲弾に転換するためにはすくなくとも三斉射せねばなりません。

 戦艦「比叡」の探照灯が猛烈な光芒を放ち、六キロ先の洋上に敵艦の姿をうかびあがらせました。近接戦闘です。「比叡」の主砲が火を噴きました。初弾は軽巡「アトランタ」の艦橋に命中し、アメリカ艦隊の司令部幕僚をほとんど戦死させました。以後、舷々相摩(げんげんあいま)す近距離の混戦となりました。日米双方に損害が生じましたが、問題はヘンダーソン飛行場に対する艦砲射撃を実施できなかったことです。

 連合艦隊司令長官山本五十六大将は輸送船団の泊地突入を延期させ、重巡二隻によるヘンダーソン飛行場への艦砲射撃を決行させました。この作戦は成功します。重巡「鈴谷」と「摩耶」の二十センチ砲が火を噴き、およそ千発の砲弾がヘンダーソン飛行場に撃ち込まれました。しかし、敵飛行場の機能を完全に麻痺させることはできませんでした。このことが日本軍の輸送船団に悲劇を招きます。

 第三十八師団を載せた十一隻の輸送船と、これを守る駆逐艦十一隻は、早くもニュージョージア島沖でアメリカ軍機の空襲を受けました。大型爆撃機延べ百八機による数次の空襲により、輸送船六隻が沈没し、一隻が大破しました。大破した「佐渡丸」はショートランド島へ引き返しました。これまでにない猛爆撃です。生き残った輸送船四隻は、それでもガ島を目指しました。海中に投げ出された陸軍将兵は駆逐艦八隻に収容され、ガダルカナルを目指しました。爆撃を生き延びた輸送船四隻はガ島の泊地に突入しました。しかし、その揚陸作業中にアメリカ軍機の空襲を受け、四隻すべてが擱座沈没してしまいます。結局、ほぼ丸腰同然のおよそ二千名がガ島に上陸したものの、兵器、食糧、弾薬はほとんどすべて海没しました。

「輸送船十隻沈没、一隻大破」

 この知らせは参謀本部に衝撃を与えました。あくまでもガ島奪回に燃える田中新一作戦部長は、新規船舶徴用の要求量を二十万トンから三十二万トンに引き上げました。惑乱したかのような要求です。この過大な要求を突きつけられた陸軍省軍事課は驚嘆しました。

「民間船舶を徴用してしまえば、鉄鋼生産は二割も低落する。百万トンの増産を目指しているのに、五十万トンの減少だ」

 陸軍参謀本部の新規船舶徴用に対抗するかのように海軍軍令部も十三万トンの新規船舶徴用を海軍省に要求しました。

 船舶徴用問題は政府と統帥部を揺るがす大問題になりました。作戦を重視すれば国力が疲弊し、国力涵養に傾斜すれば作戦が成立しない。どうしようもありません。ソビエト極東軍に備えつつ、支那事変を戦い、さらに米英蘭を敵にするという多方面戦争に突入し、その状態が一年近くも継続している以上、こうならざるを得ません。二進も三進もいかないとは、まさにこのことです。

 それでも作戦部長田中新一中将は強気の姿勢を崩そうとはせず、服部卓四郎作戦課長以下の作戦課員もその方針に従っていました。

 十一月十六日、参謀本部は政府に対して正式に新規船舶徴用を要望することになりました。田中作戦部長、服部作戦課長、そして井本熊男中佐が陸軍省へ乗り込みました。説明に立ったのは田中作戦部長です。開戦前から陸軍作戦全般を指導してきた田中中将は、その方針を貫徹すべく熱意を込めて説得しました。

「新たに第八方面軍および第十八軍を編成し、戦力充実を図る。ニューギニア方面の作戦は第十八軍に担当させる。戦力は三個師団である。よって第十七軍はソロモン方面の作戦に専念させる」

 ついては船舶の新規徴用三十二万トンが不可欠であると説きました。しかし、東條英機総理兼陸相はこの要求を拒絶しました。

「国力全体を考えて戦争指導の方針を考えねばならない。作戦優先から国力造成本位に切り換えるのだ。ポートモレスビー攻略の見込みは本当にあるのか。そもそも、このガ島奪回作戦は距離を無視している。あんな遠隔地で一個師団を戦わせるのは、日本付近で十個師団を戦わせるのに等しい。不利に決まっておる。もっと飛行場を前に出せ。補給基地を推進せよ。ガ島の三万人を餓死させたら参謀本部には重大な責任があるぞ」


 ガ島の第十七軍司令部には新たな指示が与えられていました。その内容は、現状を維持しつつ、来年一月の攻撃開始を目指して準備行動を為せというものです。弾薬食糧の尽きた第十七軍にとっては過酷な作戦指示です。すでに第十七軍は悲惨な状況にありました。十一月十七日、第十七軍参謀長宮崎周一少将は参謀次長あて次のように発電しています。

「軍司令官以下、真に地に伏し草を噛んで決死任務に前進するの決意牢固たるものあるも、天候地形の特異性は給養の不足、粗悪と相まって戦力の自然消耗はなはだ多く、新鋭第三十八師団の勢力保持にも大なる困難あり。ただし、将兵の志気作興、軍紀振作には特に意を用いるにつきご諒承なりたし」

 悲鳴のような電文です。飲まず食わずで痩せ衰え、武器弾薬にも事欠く第十七軍に対して参謀本部は「攻勢拠点を確保強化せよ」、「捜索拠点を推進せよ」と命令し続けました。それらの文案を作文し、上司の決裁を得て発電していたのは井本熊男中佐です。それが任務だったとはいえ、さすがに疑問を感じ始めました。

(これでいいのか。海軍はどうなっちょる。海軍が輸送船を守りきらんのなら、ガ島はもう無理じゃ)


 第十七軍司令部は、後方の参謀本部からの過酷な命令に悩まされ、前方からはアメリカ軍の攻勢に苦しめられました。アメリカ軍の歩兵師団は、間断なく攻勢を仕掛けてくるようになっていました。痩せ衰えた第十七軍将兵は、けなげにもアメリカ軍に立ち向かい、何とか撃退し、現状を維持し続けました。アメリカ軍はけっして無理な突撃をしません。そのおかげで第十七軍は戦線を維持し得ていました。これだけでも奇跡のような奮戦です。


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