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累積する誤謬

「はやく行かないとガ島の敵が逃げてしまう。はやく行け」

 これが一木支隊に与えられた命令の趣旨でした。一木支隊を載せた鈍速輸送船二隻は、八月十二日、ようやくトラック島に到着しました。ここで一木支隊は六隻の駆逐艦に分乗し、ガダルカナル島へ急行することになりました。一木支隊の総兵力は二千名でしたが、駆逐艦には一艦あたり百五十名しか乗艦できません。このため先遣隊九百名のみがガダルカナル島へ向かいました。兵装は小銃、機関銃、歩兵砲のみという軽装備です。

 駆逐艦六隻は快速を利してソロモン海を突進し、八月十八日夜、ガダルカナル島のタイポ岬付近に一木支隊先遣隊を上陸させました。上陸した一木支隊先遣隊は海岸沿いに二十キロほど西進し、制圧すべきルンガ飛行場の間近に迫りました。

 日本軍は知りませんでしたが、アメリカ軍は占領したルンガ飛行場をヘンダーソン飛行場と命名し、迅速かつ大規模な土木工事によって短期間のうちに強固な半永久陣地を構築していました。

 一木支隊先遣隊が攻撃を開始したのは八月二十日夕刻です。夜襲突撃で敵陣を突破するつもりでしたが、敵の防備は堅く、攻めあぐねました。翌早朝になるとアメリカ軍は圧倒的な火力で一木支隊先遣隊の足を釘付けにし、さらに優勢な兵力をもって一木支隊先遣隊を海辺に追いつめました。逃げ場を失った一木支隊先遣隊は全滅です。

 この呆気ない敗北は、一木支隊が精兵部隊だったことを証明しています。どんなに困難な命令であっても、命令が与えられればその遂行に邁進する。その勇敢さが敗北を早めたのです。圧倒的な火力を持つ二万の大兵力に対して、真正面から攻撃を仕掛けた軽装備の九百名が敗北するのは理の当然でした。敵情を知らされていなかった一木支隊先遣隊こそ憐れです。

 一方、トラック島に残った一木支隊の後続部隊千百名は二隻の輸送船に分乗し、海軍陸戦隊を乗せた輸送船一隻とともにガ島を目指していました。海軍は、この輸送船三隻を護衛するために駆逐艦戦隊を随伴させ、さらに空母を基幹とする第三艦隊を南下させました。この第三艦隊は、ミッドウェイ海戦で壊滅した第一航空艦隊を再建したものです。六月の壊滅から二ヶ月で空母艦隊を再建し、実戦に投入し得た日本海軍には、まだ余力があったといえます。ただ、その戦力はアメリカ艦隊と互角に戦い得ても、敵を圧倒するほどではありませんでした。このことが悲劇を招きます。

 一木支隊後続部隊と海軍陸戦隊を乗せた輸送船三隻は、八月二十日、ガ島に接近しました。しかし、日米の空母決戦が生起したため輸送船三隻は退避行動をとりました。その後、輸送船三隻は再びガ島に接近しましたが、ヘンダーソン飛行場から飛来するアメリカ軍機の空襲を受け、そのたびに退避を余儀なくされました。そうこうするうち駆逐艦一隻撃沈、軽巡「神通」大破、輸送船一隻撃沈という損害を被ってしまいます。このため海軍は輸送を断念し、輸送船二隻をショートランド島へ引き揚げさせました。


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


 この間、参謀本部作戦課の井本熊男中佐は海軍軍令部に日参し、ガダルカナル島の戦況を聞き、かつ協議していました。海軍側の佐薙毅中佐と山本祐二中佐は、当初、自信満々でした。

「空母機動部隊を押しだしたのだ。輸送は必ずうまくいく」

 しかし、一木支隊後続部隊の輸送が失敗すると、海軍の両参謀から強気が失せました。その印象を井本中佐は業務日誌に記しました。

「海軍中央部はガ島奪回の前途に対し一抹の不安を感じ始めたような印象を受ける」

 ショートランド島に戻った一木支隊後続部隊は、川口支隊とともに駆逐艦数隻に分乗し、八月三十日、無事、ガ島に上陸しました。また、川口支隊の後続部隊も駆逐艦輸送と舟艇機動によってガ島を目指しました。そして、アメリカ軍機の空襲に苦しめられつつもガ島に上陸し、九月上旬までにガ島に集結しました。川口支隊の総兵力は六千名となりました。その装備は、高射砲二門、野砲四門、山砲六門、速射砲十四門、糧食二週間分でした。


 ラバウルの第十七軍司令部は状況を軽視していませんでした。輸送には困難が伴いましたし、ようやく上陸を果たした川口支隊も軽装備でした。駆逐艦輸送では重火器を運搬できず、基本的に個人携帯の武器だけしか輸送できなかったのです。しかも、補給品や弾薬がごく少量しか揚陸できていません。このため第十七軍司令部は次のように参謀本部に打電しました。

「正規編制部隊の固有戦力に比して半分の力しか発揮できない」

 つまり総兵力六千とはいえ、実質的には三千の戦力でしかないと訴えたのです。くわえてニューギニア方面でも第十七軍は苦戦していました。そもそも歩兵十三個大隊という小兵力で南太平洋の広大な戦域を担当させられていた第十七軍司令部は悲鳴をあげていたのです。

 第十七軍司令官百武晴吉(ひゃくたけはるよし)中将は参謀本部に対し、作戦目的の達成が危ぶまれると警鐘を鳴らし続けます。しかし、参謀本部は概して強気であり、ガ島の戦況を楽観していました。その根拠は、先述したとおりの先入観です。敵の本格的反攻はまだ先であり、アメリカ軍は弱い。そんな先入観が秀才参謀たちの頭脳を占拠していたのです。そして、参謀本部作戦課こそがその先入観の中枢でした。

 当然のことですが、参謀本部作戦課は戦争全般の作戦指導をしています。満州方面の対ソ作戦、支那大陸の奥地進攻作戦、インド方面の対英作戦、そして太平洋方面の対米作戦です。この時期、参謀本部作戦課が最重要視していたのは先述したとおり対支進攻作戦です。田中作戦部長と服部作戦課長が対支作戦に積極的であり、その指導下にある課員たちも関心の大部分を支那方面へ向けさせられていました。井本熊男中佐も例外ではありません。

 そんな作戦課の中でガダルカナル島方面の戦況の重大性をいち早く喝破したのは意外にも作戦班長の辻政信中佐でした。

 八月下旬、上京してきた支那派遣軍参謀と作戦課参謀とが対支進攻作戦を協議した際、辻政信中佐は突如として大声を張り上げました。

「こんなバカな作戦を誰が考えたのだ。やめてしまえ」

 これには出席者全員が唖然としました。これまで田中部長や服部課長と共に対支進攻作戦を積極的に推進してきたのは辻中佐その人だったからです。それが唐突に「やめてしまえ」というのです。同席していた井本中佐も驚嘆しました。

(この男はいったい、気でも狂いよったか)

 井本中佐は、辻中佐の優秀さを認めています。その私心の無さも評価していました。常に積極姿勢を崩さず、大声疾呼、断固たる態度で自説を主張する。その決心の強さこそ辻中佐の特徴でした。それはそれでよいのですが、辻中佐の意見は唐突に変転しました。賛成が反対に、可能が不可能に、突如として変わる。しかも、その理由を辻中佐は丁寧に説明しません。だから周囲はあっけにとられ、ただ翻弄されるばかりでした。

 この場合も、いち早くガ島の重要性に気づいた辻中佐の直観力と、自己保身を顧慮せずに直言する姿勢は評価されてよかったのですが、詳細な説明をしないため、周囲は辻中佐を理解しようにもできなかったのです。結局、辻中佐の放言を不問に付すことだけが時間をかけて検討され、肝腎のガダルカナルについては検討されずじまいとなりました。

 第十七軍司令官百武中将の建言も虚しく、参謀本部は既定方針どおり川口支隊にヘンダーソン飛行場を攻撃せよと命じました。ただ、陸軍参謀本部は第十七軍からの警鐘に多少は配慮し、ジャワ方面から第二師団を抽出して第十七軍の隷下に入れ、軍参謀を若干名増員させました。同時に、海軍に対して充分な支援を要望しました。とはいえ、陸軍参謀本部の関心はなお大陸方面に向いていたことは確かです。南太平洋の戦線を一刻も早く安定化させ、腹を据えて対支進攻作戦を実施したいと考えていたのです。


 昭和十七年九月初旬、陸海軍統帥部は両次長をラバウルに派遣することで合意しました。陸海軍が一致して南太平洋の作戦を完遂するためでした。海軍からは軍令部次長伊藤整一中将と佐薙毅中佐が派遣され、陸軍からは参謀次長田辺盛武中将と井本熊男中佐および竹田宮恒徳王少佐がラバウルへ飛ぶこととなりました。

 九月二日早朝、両次長の一行は二式飛行艇に乗って横浜を発ち、サイパン島を経由して九月三日午後、トラック島に到着し、連合艦隊の旗艦「大和」を訪問しました。

(大きいもんじゃのう)

 井本中佐は「大和」の偉容に感嘆しつつ、艦内に入りました。すぐに会議となりました。連合艦隊参謀長の宇垣(まとめ)中将が戦況を説明しました。それによれば、ガ島所在のアメリカ軍は人員およそ五千名、戦車三十両、火砲二十門、高射砲四十門とのことでした。敵軍を過小評価していたことがわかります。これに対する戦法は、陸軍部隊を逐次上陸させるとともに航空撃滅戦を実施し、さらに海上部隊によって敵の兵站線を遮断するというものでした。敵兵力が実際に五千名程度ならば必ずしも悪い作戦ではありません。

「この戦法で攻撃が成功しない場合は正攻法をとるほかないと考えている」

 宇垣中将は付け加えて言いました。正攻法とは、ガ島から二百ないし三百キロ圏内に航空基地を整備し、本格的な航空撃滅戦で敵の航空基地を完全に沈黙させ、しかるのちに陸軍部隊を上陸させるというものです。このほか宇垣中将はニューギニア方面に陸軍航空隊を進出させて欲しいと要望しました。

「ただし、ソロモン方面には海軍の全航空兵力をつぎ込んでも目的を達成する考えであるから、陸軍航空の増援は望まない」

 陸軍の田辺参謀次長はすべてを了承しました。

 両次長一行は、翌日ラバウルに飛び、第十七軍、第二十五航空戦隊、第八艦隊の司令部から状況報告を聞き、懇談しました。これで両次長の出張は終了です。一行は九月七日に日本へ帰ることになりましたが、井本熊男中佐は田辺次長に残留を願い出ました。田辺次長はこれを許し、次のように命令しました。

「川口支隊の総攻撃が近い。井本中佐はラバウルで状況を把握せよ」

 

 ガダルカナル島の川口清健少将から第十七軍司令部に攻撃計画が電報されてきました。攻撃開始予定は九月十二日夕刻、ヘンダーソン飛行場を三方から夜襲攻撃し、一挙に占領する。これに対して第十七軍司令部は何らの修正要求をしませんでした。ラバウルに残った井本熊男中佐も疑問を感じませんでした。敵を過小評価していたからです。

「敵兵力は五千、対する川口支隊は六千、必ず勝つ」

 兵員の頭数を比較することで勝敗を予想するのが慣行です。ときに精神力を加味することもありました。ですが、制空制海権の有無や兵站の充実度や砲兵力を勝敗予想の算定根拠には含めませんでした。これが陸軍の伝統的なやり方でした。後世の視点からその誤謬を指摘することは容易です。しかし、この慣行は過去においてはおおむね正鵠を射てきたものであり、実際、支那事変は負け知らずで、南方作戦も大成功でした。長年の慣行をいきなり修正するのは困難だったでしょう。


 九月九日、第十七軍参謀長の二見秋三郎少将から呼び出された井本熊男中佐は参謀長室に顔を出しました。

「いよう、井本、元気そうだな」

 二見少将は大声をあげ、笑顔を見せました。ふたりは旧知です。井本中佐がまだ新米将校だった頃、二見少将から様々な助言と指導を受けました。支那の出征先でも世話になりました。二見少将は出来のよい井本中佐を可愛がりました。その後、ふたりは任地を異にしていましたが、南洋のラバウルで久しぶりに再会したのです。

 二見少将は腹蔵なく話せる後輩を見つけ、本心を語りたくなったようです。それというのも第十七軍はニューギニアでもソロモンでも思うような作戦指導ができず、二見参謀長は苦心惨憺していたからです。担当すべき戦域は茫漠として広く、戦力は乏しかったのです。

 再会の笑顔はすぐに消え、二見少将の顔に苦悩がにじみ出ました。二見少将はしみじみと現地軍の苦労を語りました。豪放磊落な二見少将に似合わぬ弱気な口吻に、井本中佐は少なからず驚きました。

(こんな二見さんを見るのは初めてじゃ)

 ガ島では一木支隊先遣隊が全滅し、ニューギニアのラビにおいても海軍陸戦隊が壊滅的な損害を受けていました。大東亜の各地において赫々たる戦果をあげている日本陸軍のなかにあって第十七軍だけが敗北を喫しており、よほど風当たりが強いようでした。

「ニューギニア方面の戦況も厳しいが、まずはガ島を片付けねばなるまい。この乏しい戦力ではモレスビーは後回しにするしかない。軍参謀をガ島に派遣して現状を把握したいのは山々だが、いったん行けば往復に十日以上を要する。これでは軍司令部の業務に支障をきたしてしまうのだ。わが司令部にはオレを含めて参謀が三人しかいないからのう。たった三人だ。三人でニューギニアからソロモン諸島にいたる広大な戦域を担当しておるのだ。主計業務だけで手一杯だ。作戦を考えるにしても、この乏しい戦力でなにをどうしろというのだ。いまは川口支隊の攻撃が成功することだけを念願している。だがなあ、もし、川口支隊の攻撃が不成功に終わった場合、さらに攻撃を続行するか、あるいはこぢんまりとした態勢をとるか、研究を要するところだ。ともかく、わが第十七軍は兵力不足でどうにもならぬ。これはなかなか難しい。こんな難しいことを、オレにはなあ、だれか代わってくれんかなあ」

 井本中佐の知る二見少将とは似ても似つかぬ弱音でした。

(それほどにお苦しみじゃったとは)

 つい先日、ラバウルを訪問した両参謀次長の前では、このような本音を二見参謀長はおくびにも出しませんでした。会議において二見少将はガ島奪還の決意を表明し、闘志満々の戦況報告をしたのです。その威風は堂々たるものでした。しかし、本音は別だったようです。井本中佐には第一線部隊司令部の苦しみが初めて身近に感じられました。ですが、意見としては二見少将の消極論に反論しました。

「二見さん、お考えは承りました。しかし、陸軍も海軍もまだガ島に主力を投入したわけではありません。川口支隊の攻撃が失敗したからといって、すぐに(さじ)を投げることはありません。万が一、川口支隊の攻撃が成功しなかった場合でも、戦機を逸することなく、艦艇を以てする夜間上陸、わが海軍による夜間海上戦闘、さらに本月二十日頃に充実すべき海軍航空戦力などを考慮すれば、川口支隊の攻撃以後も、既定方針を堅持し、あくまでも攻略の手を緩めることなく、逐次投入の方式により作戦目的を達成するべきです」

 二見少将は黙ってこれを聞き、あえて反論しませんでした。

(第十七軍司令部が人手不足なら、ちょうどよい)

 そう思った井本中佐は二見参謀長にガ島への派遣を願い出てみました。

「この目で現場を見たいのであります。そうでなければ参謀本部は判断を誤る恐れがあります。私がラバウルに残留したのは、これが目的であります。ガダルカナルへ派遣してください。いささかでも第十七軍のお役に立ちたいのであります」

「ありがとう。キサマの気持ちはありがたい。だが、遠慮してもらいたい。たしかに第十七軍司令部には人手がない。だからといって参謀本部のキサマを派遣するようでは第十七軍司令官百武中将の顔が立たぬ。まずは第十七軍の参謀を行かせたいのだ。すまんな」

「はい」

 しつこく要望するのは失礼だと思い、井本中佐はすぐに要望を引っ込めました。

 数日後、第十七軍司令部は、苦しい台所事情にもかかわらず、高級参謀松本博中佐のガ島派遣を決定しました。これを伝え聞いた井本中佐は、なんとかして松本中佐に同行したいと思いました。松本中佐は原隊の一期先輩です。いろいろと世話にもなり、互いに相知ってもいます。

(二見さんにもう一度、お願いしてみよう)

 そう思ったのですが、井本中佐の体調が急変しました。高熱が出て動けなくなりました。軍医の診断はデング熱です。井本熊男中佐は人事不省に陥り、ガ島どころではなくなりました。デング熱は蚊によって感染します。高熱を発し、激しい頭痛、眼窩痛、関節痛、筋肉痛を伴います。有効な治療法はなく、ともかく寝ているしかありません。


 井本中佐が正気を取り戻したのは三日後です。まだ発熱が続いており、身体の節々が痛みました。しかし、強引に起き上がりました。まさにこの夜、川口支隊の総攻撃が始まるのです。寝てはいられません。

 日が沈み、夜が更けます。しかし、川口支隊からは何の連絡もラバウルにとどかず、ガ島の戦況はまったく不明です。

「いったいどうなっておるのか」

 第十七軍司令部は徹夜で連絡を待ちましたが、いっこうに報告が入りません。ラバウルの陸海軍司令部は協議し、十三日朝まで状況不明の場合には偵察機を飛ばすことに決めました。海軍の偵察機二機を出撃させます。一機には海軍参謀が乗り、もう一機には陸軍参謀が乗ります。重厚な偵察作戦といえるでしょう。十三日早暁、二機の海軍偵察機がラバウルを飛び立ちました。

 午前八時四十五分、陸軍参謀の乗る偵察機から入電がありました。

「敵飛行場に大小四十機あり。味方戦闘機空戦中」

 海軍参謀の乗る偵察機からは午前十時十五分に入電がありました。

「敵は飛行場を使用しあらず」

 この電報はラバウルの陸海軍司令部を悦ばせました。川口支隊の攻撃が成功したらしく思えたからです。この知らせを第八艦隊司令部は海軍軍令部に転電しました。ところが五分後、陸軍参謀の偵察機から次の電文が届きます。

「敵機四十機、われ不時着不能。帰途につく」

 これは先の海軍参謀電と矛盾します。結局、ガダルカナル島の戦況は不明のままとなりました。陸海軍の司令部は偵察機の帰還を待ちました。午後二時、陸軍参謀を乗せた偵察機が帰投しました。偵察任務にあたった田中耕二陸軍少佐は第十七軍司令部に復命します。

「高度六千から四百に降下したとき敵戦闘機の攻撃を受けました。よって飛行場に敵の存在することに疑問の余地はありません。友軍が飛行場を占領している気配はありませんでした。十二日夜、川口支隊は攻撃を実施しなかったものと判断します」

 第十七軍司令部はこの報告を承認し、参謀本部に報告しました。一方、海軍第八艦隊は先の電報を取り消しました。

 翌十四日、ガ島に派遣されている第十七軍参謀松本博中佐から電報が入り、ようやく現地事情の一端が明らかとなりました。それによると、松本中佐は十一日夜、カミンボ岬に上陸し、友軍とともに東進し、ヘンダーソン飛行場を望む高台陣地に到着しました。この陣地から川口支隊の一部は予定どおりに攻撃を開始しました。しかし、敵の反撃に遭い、まったく前進できなくなりました。一方、川口支隊の本隊はヘンダーソン飛行場南方から迂回攻撃するためにジャングル内を移動中のはずでした。やがて攻撃開始時刻になりましたが、それらしい銃砲声はまったく聞こえず、攻撃は始まっていないらしい、との報告です。

「ジャングル内の前進、意の如くならず」

 と松本中佐は報じています。この点は陸軍の作戦中枢の盲点でした。陸軍は南方作戦において熱帯地方での戦闘を経験済みです。だから自信を持っていました。しかし、違ったのです。基本的な兵要地誌が違いました。南方資源地帯には、マレー半島にもシンガポールにもフィリピンにも蘭印にも道路がありました。飛行場も港湾もありました。宗主国の英米蘭が整備したものです。それらの交通施設を利用して日本軍は進撃することができたのです。地図もありました。英米蘭が作成した地形図を入手していたのです。さらに南方作戦については開戦一年前から現地調査などの下調べが綿密におこなわれていました。

 川口支隊は南方作戦に参加していたので熱帯地域での実戦経験を有していました。だから自信を持っていました。しかし、ガ島はまったく未体験の戦場でした。そもそも兵要地誌が皆無です。未開の島だから道路も港湾もありません。地図を持たぬ川口支隊主力は磁石に頼ってヘンダーソン飛行場の南を目指しましたが、磁針偏差のため正確な位置を見失い、作戦実施に齟齬(そご)を生じてしまいました。行軍が遅れ、攻撃開始が遅れました。陸軍と海軍が時を同じくしてアメリカ軍に攻撃を仕掛けるという協定も狂ってしまいました。

 翌早朝、川口清健少将からの電報がラバウルの第十七軍司令部に届きました。それによるとヘンダーソン飛行場東側に接近した川口支隊砲兵隊は予定どおりに砲撃を開始しました。しかし、川口支隊主力はジャングル内の移動に手間取り、攻撃開始が遅れました。一日遅れの夜襲を敢行したものの、敵陣は頑強であり、やむなく退却したということでした。

「敵の抵抗、意外に大にして大隊長以下多数の損害をこうむり、やむなくルンガ川左岸に兵力を集結し、後図を策せんとす。将兵の健闘にかかわらず、不明の致すところ失敗申し訳なし」

 第十七軍司令部は沈鬱な空気に包まれました。ニューギニア方面でもソロモン方面でも負けが続いています。再度の敗北に落胆したのは当然でした。こうした状況を看取した井本熊男中佐は、ラバウルに残留してよかったと思いました。

(この深刻さは三宅坂におってはわからん)

 井本中佐は参謀本部への報告電文を書き上げ、作戦部長田中新一中将あてに発電しました。その電文は長文にわたりますが、攻撃失敗の原因として敵情不明、分散上陸、戦力統合発揮の不充分、装備不充分、制空権の不保持、敵防御陣地の強靱などをあげています。そして、敵戦力の軽視を戒め、開戦前のような気構えと確信ある準備が必要であるとしています。さらに、南太平洋方面の戦局を重視すべきだとし、このことは戦争指導全般に変更を生じさせることから、作戦部長および作戦課長のラバウル視察が必要であると結論しています。この井本電は、対支進攻作戦の断念を言外に示唆しています。

 これに対して翌十五日、作戦部長田中新一中将からラバウルに返電が届きました。

「全般の情況は決して悲観を要せざるものと判断せらる」

 そして、ガ島に対する攻撃を十月上旬から中旬にかけて実施するとし、第十七軍参謀部の人員を増強するとともに、参謀本部から作戦参謀辻政信中佐と情報参謀杉田一次中佐を派遣すると伝えています。また、第十七軍の戦力充実のため、第二師団、第三十八師団、速射砲二大隊、十五榴一連隊、十加一中隊、戦車一連隊、野戦高射砲二大隊等を増援すると予告しています。

 田中部長電を読んだ井本中佐は、その内容に納得しました。要するに充実した攻撃部隊をガ島に集結させて攻撃を再開するのです。二個師団と砲兵部隊を集中すれば、ガ島の敵を攻略できるでしょう。また、これらの新戦力は関東軍および支那派遣軍から抽出されますから、対支進攻作戦は自然消滅のかたちにならざるをえないと井本中佐は判断しました。

 海軍も十月の攻撃再興に賛成しました。海軍には陸軍以上の切迫感がありました。時間の経過とともにアメリカ軍はドンドン増強されていくという危機感です。そのため海軍は早期決戦を望みました。ガ島をめぐる攻防の中でなんとか勝機をつかみ、敵主力艦隊を撃滅させてしまいたい。ミッドウェイ敗戦の仇を討つというだけでなく、この戦争の決着を付けてしまいたいのです。このため海軍は南太平洋に連合艦隊のほぼ全力を集中させ、敵主力艦隊の撃滅と陸軍部隊の輸送という両作戦を遂行することを決めました。

「輸送船団の護衛に関し、連合艦隊の全力でこれにあたる」

 海軍は陸軍に約束しました。この段階では海軍はまだ自信を持っていました。陸軍もまた海軍を信頼していました。海軍が輸送船団を守り切れるという前提であれば、田中作戦部長の十月ガ島攻撃再開論は正しいといえるでしょう。むろん海軍には陸軍をだまそうなどという悪意はありません。やれると信じていたし、それができねばもはや勝ち味はないと覚悟を決めていました。海軍はすでに関頭に立っていたのです。これに比べると陸軍は「まだ前哨戦である」という認識でした。


 ガダルカナル島では、攻撃に失敗した川口支隊がなお苦戦していました。川口少将は残存兵力をルンガ川左岸に結集して後図を策そうとしました。ルンガ川はヘンダーソン飛行場の西側間近を流れています。ルンガ川左岸を確保できれば反撃するのに理想的でした。しかし、同じことをアメリカ軍も考えました。アメリカ軍は追撃部隊をくりだして川口支隊を追い払おうとしました。すでに川口支隊の食糧は尽きており、残弾も少なく、おまけに戦傷者が多く、疫病にも悩まされていました。このため川口支隊は退却を余儀なくされ、ヘンダーソン飛行場の西十キロほどのマタニカウ川左岸に後退し、一応の態勢を整えました。しかし、その戦力は尽きかけています。

 川口支隊の窮状はラバウルの第十七軍司令部になかなか伝わりませんでした。熱帯未開の密林内における行軍の困難、アメリカ軍の圧倒的火力、疫病と飢餓など、川口支隊が直面した現実は日本陸軍が建軍以来はじめて体験する種類の苦難であり、電文報告だけでその切実さを伝えることは困難でした。もちろん現地軍は深刻な事実を繰り返し電報しています。しかし、それを受けとる軍司令部側に想像力が欠けていました。未経験の事態を想像するのは不可能だったでしょう。さらに、現地軍からの報告電文の末尾には必ず「わが軍の士気なお旺盛なり」といったたぐいの結語がついていました。決して消極的で悲観的な結論を電報しません。それが慣行でした。そのため軍中央は概して戦局を楽観しました。その結果、上級司令部から川口支隊に対して過酷な命令が出されることになりました。

「マタニカウ川右岸の拠点を占領せよ」

「砲兵によるヘンダーソン飛行場射撃を準備せよ」

 無茶というものでした。


 ラバウルでは井本熊男中佐が再び床に伏しました。無理がたたってデング熱がぶり返したのです。ガダルカナル島に派遣されていた第十七軍参謀松本博中佐がラバウルに戻ったのはその頃です。松本中佐は第十七軍司令部にガ島の実情を報告しました。その報告を聞いた参謀長二見秋三郎少将はガ島奪回をますます悲観するようになりました。

 ようやくデング熱から回復した井本熊男中佐は、九月二十六日にラバウルを発って参謀本部に帰任することになりました。出発の数日前、井本中佐は二見少将に再び呼び出されました。第十七軍司令部の雰囲気は相変わらず重苦しいものです。戦力増強が決まったにもかかわらず、二見少将はまったく事態を楽観していません。

「デング熱はもういいのか」

「はい。ぶざまなところをお見せして、申し訳ありません」

「気にするな。病気では仕方がない」

 あとは何気ない昔話となりました。ですが、話題はどうしてもガ島のことになります。二見少将は苦しげに本心を打ち明けました。

「各種の情況から判断してガ島の奪回は至難であると思う。どうも自分には奪回作戦は成功しないように思われる」

 井本中佐には返す言葉がありません。負けいくさの続く軍司令部の参謀長がどのような心境で過ごしているのか、それは井本中佐の想像の及ばない範囲でした。さらに、デング熱で寝ていた井本中佐は、ガ島から戻った松本博中佐の声涙くだる報告を聞きそびれていました。そのため二見参謀長の悲観論には必ずしも同意しませんでした。二見参謀長に同情しつつも、ガ島奪回は可能であると考えたのです。

 九月二十六日、井本熊男中佐はラバウルを発ち、二十八日、東京に帰着しました。これと入れ替わるように辻政信中佐と杉田一次中佐が参謀本部からラバウルの第十七軍へ派遣されていきました。


 参謀本部に出勤した井本中佐は出張間の出来事を報告しました。ガ島奪回作戦については続行に賛成しましたが、よほどの決意と周到な準備が必要であるとし、楽観は禁物であると報告しました。その際、第十七軍司令部が事態を深刻にとらえていることを述べ、さらに二見参謀長が漏らしてくれた悲観的述懐を引用しました。井本中佐の真意は参謀本部の楽観を戒めるところにありました。

 その日の夕刻、第十七軍参謀長更迭という人事が発令されました。井本中佐は驚きました。

「服部課長、この人事は、井本の報告が原因でありますか」

「いや、こうなるように前々から素地ができていたのだ」

 そう言われても釈然としませんでした。

(このオレが余計なことを言ったばっかりに)

 井本中佐は、二見少将に申し訳ないという気持ちで一杯になりました。後世から見れば、事態の趨勢を正確に予見した二見秋三郎少将が左遷されてしまったのです。


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