初動の過誤
昭和十七年六月五日、陸軍参謀本部作戦課の井本熊男中佐は海軍軍令部からの報告を待っていました。すでに連合艦隊の空母機動部隊がダッチハーバーを空襲したという通報を受けていましたが、続報が入ってこなかったのです。
(ちょっと、のぞいてくるか)
午後、井本中佐は海軍軍令部作戦室に足を向けました。海軍軍令部には協議のたびに何度も来ています。大戦果を期待しつつ作戦室の入口まできました。が、井本中佐はそこで思わず足を止めてしまいます。海軍軍令部の作戦室は異様に静まりかえっていました。参謀たちは海図を囲んで立ちつくし、凍りついたような雰囲気です。井本中佐が入室をためらっていると、顔見知りの山本祐二海軍中佐が気づいてくれ、井本中佐の方へ来てくれました。
「どうだ」
井本中佐はいつにない小声で聞きます。
「どうも、うまくいかない」
山本中佐も小声でこたえました。事情を察した井本中佐は、それ以上はなにも聞かずに陸軍参謀本部へもどりました。
その翌日の正午、海軍軍令部作戦室において陸海軍作戦課の合同会議が開かれました。海軍側は、作戦課長富岡定俊大佐をはじめとして誰もが沈痛な面持ちです。山本祐二中佐がミッドウェイ海戦の結果を説明しました。
「わが機動部隊の主力空母たる赤城、加賀、蒼龍、飛龍の四隻はすべて沈没し、ベテランの搭乗員、兵器員、整備員の多くを失うことになった。現在、連合艦隊は戦場を離脱し、ミッドウェイ西方およそ一千海里の海上に集結中であります」
陸軍側は、作戦課長服部卓四郎大佐をはじめとして誰もがこの大敗北に驚きました。ですが、陸海軍の作戦参謀たちがこの敗北の重大性を腹の底から共有したかといえば、そうではありません。陸軍側にはどこか「他人事だ」という意識があります。
(太平洋の戦いは海軍の担当、陸軍の主戦場は支那大陸)
そんな分担意識があります。これは単なる意識というだけでなく、日本の国防方針でもありました。陸軍の主敵はあくまでもソビエト極東軍ですし、陸軍の支那派遣軍は支那大陸で蒋介石軍と戦っています。ですから陸軍参謀本部の作戦参謀たちは、その関心の大部分を支那大陸へ向けていたのです。ミッドウェイ海戦に関する海軍の報告も、極論すれば興味の域を出ていませんでした。
(ミッドウェイ作戦に対する海軍の態度にはどこか真剣味が欠けちょった。緒戦の勝利に酔っておったのだろう)
井本中佐はこんな感想を持ちました。開戦以来、負けを知らなかった連合艦隊の大敗北に衝撃を受けはしましたが、どこか「海軍の問題だ、陸軍には関係ない」という意識が抜けません。会議後、海軍の山本祐二中佐が井本中佐に近づいて耳打ちしました。
「連合艦隊は、しょげちゃおらんぞ」
「そうでなきゃ困る」
主力空母四隻を失ったとはいえ海軍の認識は「日米はこれで五分と五分だ」という程度でした。前途への希望はなお維持されていました。陸軍参謀本部作戦課も南方作戦を大成功させた直後であり、意気軒昂でした。海軍の劣勢が陸軍の苦難を招くという太平洋戦線の近未来を参謀本部作戦課の誰もが予想し得ませんでした。
海軍は国民に対してミッドウェイ海戦の結果を隠蔽しました。しかし、陸軍の中枢たる参謀本部作戦課には正直に結果を伝えました。そうしておかなければ陸海軍の作戦中枢間に認識のズレを生じ、事後の協同作戦に支障をきたしてしまいます。陸海軍は様々な角逐をかかえながらも、作戦参謀同士は頻繁に情報交換しており、その関係はかならずしも悪くありません。
むしろ深刻だったのは参謀本部内の内訌の方でした。作戦部と情報部は伝統的に対立していました。作戦部は情報部に情報を伝えず、作戦部が情報部に情報を要求することもありませんでした。情報部と作戦部の意思疎通はきわめて劣悪でした。たとえば、情報部で英米情報を担当していた杉田一次中佐がミッドウェイ海戦の敗北を知るのはこの三ヶ月後のことです。
陸軍参謀総長の杉山元大将は、ミッドウェイ海戦の敗北を聞くと次のような感想を漏らしたといいます。
「永野君の二ヶ年は半年で終わってしまった。これからは今までとは違う方法で戦いを続けなければならない」
永野君というのは、海軍軍令部総長永野修身大将のことです。永野大将は、「二年間は戦えるが、それ以上に長引くと自信がない」と述べていました。その二年が半年に短縮されてしまったというのです。この杉山大将の認識はきわめて正しかったといえます。ただ、惜しまれるのは杉山大将が参謀総長として具体的な指示を出さなかったことです。
「海軍はアメリカ軍をもはや圧倒できないぞ。よって陸軍部隊を遠隔の孤島などに出してはいかん」
この程度の注意を杉山大将が部下に与えていたなら、その後の戦いは様相を異にしたかも知れません。杉山元という人物は、自己の能力を韜晦し、いっけんバカを装い、そのぶん部下に多くをまかせて能力を発揮させるタイプでした。だから、このときも指導力を発揮しなかったのです。このため陸軍参謀本部は、ただ海軍の奮起を期待するだけとなりました。
「ミッドウェイでは敗北したが、必ず盛り返すだろう」
これが陸軍の海軍に対する認識でした。そしてまた海軍も陸軍の期待にこたえるつもりであり、空母艦隊の再建を急ぎました。
その夜、井本中佐は再び海軍軍令部に呼び出されました。
「連合艦隊はミッドウェイから引き揚げることになった。ついては一木支隊をどこに回航させたらよろしいか」
ミッドウェイ作戦に協力するため陸軍は一木支隊を出動させていました。しかし、ミッドウェイ作戦が中止になった今、この一木支隊をどうしたらよいか、という海軍からの問い合わせです。
「海軍としては瀬戸内に帰還させてはどうかと思います」
海軍側の提案に井本中佐は賛成しましたが、上司の決裁が必要です。
「明日まで待ってくれ」
そう依頼して海軍軍令部を辞去しました。
翌日、参謀本部作戦課で一木支隊の行き先が検討されました。一木支隊は瀬戸内ではなく、グアム島に回航させることに決められました。これはミッドウェイの敗北を秘匿するためでした。
この時期、陸軍参謀本部作戦課は、次期作戦を支那大陸へ指向していました。南方作戦の成功によってすでに南方資源地帯を掌中にしています。この際、支那大陸の奥地に進攻して蒋介石を屈服させ、長引いている支那事変に決着をつけてしまいたいと考えていたのです。だから、ミッドウェイ海戦の敗北後もなお、陸軍参謀本部作戦課は大規模な支那大陸進攻作戦を研究していました。
その作戦の大要は次のような雄大なものです。十五個師団からなる一軍をもって西安を占領し、泰嶺山脈を越えて拠点を確保し、北から四川省へ進攻する準備を整える。別の一軍に六個師団の兵力を与え、揚子江を遡上させ、万県付近を占領せしめ、進攻態勢を整えさせる。そして、両軍の態勢が整ったところで北と東から四川省へ分進合撃し、重慶および成都を制圧して蒋介石を屈服させる。
この対支進攻作戦を熱心に推進したのは作戦部長田中新一中将、作戦課長服部卓四郎大佐、作戦班長辻政信中佐の三名です。この三名は、大東亜戦争の開戦前から陸軍作戦を主導しています。そして、見事に南方作戦を成功させました。大戦果をあげた直後でもあり、田中作戦部長らは意気揚々と支那事変の解決に向けて作戦を指導していました。
しかしながら、井本熊男中佐をはじめとする作戦参謀の多くは、会議の席上において対支進攻作戦に不同意を表明しました。その理由は、この大作戦が非常な大兵力と大物量を必要としたからです。支那方面だけに大兵力を注ぎ込んでしまえば他方面に支障をきたす懸念が出てきます。
日本は米英蘭支の四ヶ国と戦っています。これに加え、極東ソ連軍に対する備えもおろそかにはできません。日ソ中立条約があるとはいえ、ソビエト共産党が条約を守るかどうか、どちらかといえば信用できません。まさに四面楚歌だったのです。そんな状況下で支那方面だけに過重な兵力と物資を投入してしまえば均衡を欠きます。
それでも積極派の田中中将、服部大佐、辻中佐は対支進攻作戦にこだわりました。大胆な作戦で短期間のうちに蒋介石軍を屈服させてしまえば、大きな余力が生まれます。その余力を対ソ戦と対米戦にふりむければ、以後の作戦を有利に展開できます。服部作戦課長は、作戦課内の意思統一を図ろうとしました。また、対支進攻作戦に必要な軍需物資を確保するため、陸軍省との折衝をくり返しました。
陸軍大臣東條英機大将に対する説明が行われたのは七月十三日です。田中新一作戦部長の説明を聞いた東條陸相は対支進攻作戦に対して否定的見解を述べました。陸軍省の各部局も消極的態度を示しました。所要兵力と資材があまりに莫大だったからです。
一方、現地の支那派遣軍司令部は対支進攻作戦に乗り気でした。支那派遣軍の参謀たちが頻繁に上京し、参謀本部や陸軍省に対して支那進攻作戦をはやく具体化せよと催促しました。
作戦課長服部卓四郎大佐は、何とかして対支進攻作戦の決裁を得ようとし、命令計画案や作戦実施要領案を何度も修正しました。その作業の多くを担当したのは井本熊男中佐です。井本中佐自身は対支作戦に消極的でしたが、宮仕えの身である以上、命令されれば仕事をせねばなりません。外柔内剛の美丈夫といわれた服部大佐は、内面の激しい闘志に似合わず、人当たりのとても柔らかい人物でした。穏やかに指示されると部下はその気にさせられてしまいます。井本中佐は幾度も文案を修正しました。その作戦案を手にした服部大佐は、決裁を得ようと参謀総長、参謀次長、陸軍省などと幾度も談判しました。ですが、同意はなかなか得られません。
八月一日、作戦課内で作戦審議が行われました。作戦班長の辻政信中佐は、対支進攻作戦を実施して支那事変を終結させるべきことを闘志満々に説きます。
「この作戦によって蒋介石の息の根を止めるのだ」
辻中佐は超人的な体力と精神力の持ち主で、派手な言動で陸軍内に知られ、「作戦の天才」との世評を得ています。歯に衣着せぬ発言のため、味方もいるが敵も多い人物です。辻中佐は熱烈に支那進攻作戦の必要を説きました。これに対して井本熊男中佐は冷静に反対論を展開しました。
「もし仮に、この作戦が成功したとしても蒋介石が降参するとは限りません。蒋介石はインドへでもロンドンへでも逃げていくでしょう。日本軍は泥沼のゲリラ戦に足を取られ、身動きできなくなる。また、この作戦遂行のためには関東軍の一部を割かねばならず、対ソ戦備に心配が生じます。加えて莫大な鉄と石油が必要になります。これをまかなうためには航空機の増産をあきらめねばなりません」
「では、どうするのだ」
辻中佐が鋭い眼光で詰問します。そう問われると、井本中佐にも妙案はありません。
「南方作戦は成功しましたが、軍政の施行はまだこれからです。いまは軽挙妄動せず、占領地域の政情を安定させ、資源を確保し、防備をかためるべきです」
「そんな悠長なことを言っておる場合か。いまこそ積極果敢に勝利をつかむ好機ではないか」
日本は四周を敵に囲まれています。思い切った内線作戦で乾坤一擲の積極行動に出るべきか、事態を静観して守りをかためるべきか、判断は難しかったといえるでしょう。結局、この日の課内審議では結論が出ませんでした。しかし、最後に服部作戦課長が訓示し、作戦課の方針を示しました。
「対支進攻作戦の研究は今後も続ける。このまま漫然と時を過ごしてよいとは考えられぬ。昨今、作戦課では課長以外はみな対支作戦に反対しているとの風聞を耳にした。これはまことに心外である」
強固な決意を人当たりのよい外面で包み込んでいる服部課長の訓示は、穏やかでありながらも、課員の緊張を促すものでした。
作戦課内の空気は沈滞しました。誰が悪いというわけではありません。意見の対立を抱えた組織とは、そういうものです。参謀本部作戦課は、昭和十七年六月から八月にかけて、支那奥地へ進攻すべきか否かで押し問答を繰り返しました。
その状況を打破したのは、アメリカ軍です。
八月七日午前十時頃、海軍軍令部の佐薙毅中佐から井本熊男中佐に電話が入りました。
「すぐに来てくれ」
井本中佐は佐薙中佐からガダルカナル島の戦況を聞きました。「ガダルカナル」という地名は初耳でした。
「ラバウルからの連絡によると本早朝、アメリカ軍はガダルカナル島およびツラギ島に対して砲爆撃を実施したのち、まずツラギ島に上陸した。ツラギには海軍の水上機基地があったが、午前五時半の電報を最後に連絡が途絶えた。ツラギ島の沖には敵の戦艦一、巡洋艦三、駆逐艦十五、輸送船若干が進入している模様である。また、ガダルカナル島の沖にも巡洋艦三、駆逐艦七、輸送船二十七が接近しており、上陸作戦を実施するものと予想される。敵の航空母艦は確認されていないが、おそらくツラギ島の北方海面に所在しているものと予想される。
ラバウルの海軍第二十五航空戦隊は直ちに中攻二十七機、零戦十七機、艦爆九機を発進させたが、その戦果はまだ不明である。また、重巡洋艦五隻を基幹とする海軍第八艦隊は、本日午後一時にラバウルを出撃し、ガダルカナルへ向かう予定である。ガダルカナル島はラバウルからおよそ一千キロ南である。攻撃実施は明日になるであろう。ツラギ島には警備隊三百六十名のほか海軍陸戦隊一個中隊が進出していたが、果たして無事でいるかどうか。ガダルカナル島には警備隊百五十名と海軍陸戦隊一個中隊、飛行場設営隊二千五百名がいるものの、戦闘力は弱い。ほんの数日前に飛行場が完成したばかりであり、これをアメリカ軍に奪われるのはなんとも残念だ。
アメリカ軍はニューギニア東端のラビに飛行場を完成させ、戦闘機を配備した模様である。どうもアメリカ軍の動きが活発化しているようだ」
井本中佐は参謀本部作戦課に戻り、聴取した内容を報告しました。しかし、これを重大事であると判断した参謀はひとりもいません。
「ガダルカナルというのはどこにあるのだ」
誰もがその地名と位置を知りませんでした。もちろん兵要地誌などありません。そして、まさか、この島でアメリカ軍と死闘を演ずることになろうとは微塵も考えませんでした。
「それにしても、なぜ今ごろ、こんな場所に敵は上陸してきたのか」
アメリカ軍の作戦意図が不明でした。そもそも日本陸軍には、(アメリカ軍との戦いは海軍の担当である)という分担意識があります。そして、関心は支那奥地への進攻作戦に向いていました。だからアメリカ軍に対する感度は鈍かったのです。
「何はともあれ、海軍を支援する必要があるだろう」
この程度の認識でした。この日、ラバウルの第十七軍司令部にあてて参謀次長電が発せられました。
「海軍に対する所要の支援を実施せよ」
翌朝も、井本熊男中佐は海軍軍令部に顔を出しました。その後の戦況を確認するためです。山本祐二中佐が概況を説明してくれました。それによると、海軍第二十五航空戦隊が相当な戦果を上げ、第八艦隊もガダルカナルへ向かっているとのことでした。しかし、海軍が完成させたばかりのルンガ飛行場は一個師団ほどのアメリカ軍によって占領されてしまいました。
日本海軍はこの事態を重視し、八月下旬を目途として第二艦隊、第三艦隊および主力艦隊を南太平洋トラック環礁に集結させることを決定しました。連合艦隊のほぼ全力です。
(海軍はいよいよ本腰を入れよったな)
井本中佐は思いました。ですが、あくまでも他人事だという意識が抜けません。アメリカ軍との戦いは海軍の分担だから、陸軍が口を出してはいけないという遠慮すらありました。海軍と陸軍は一蓮托生だという認識に欠けていたのです。とはいえ必要な協力は互いにするという意識はあります。案の定、山本中佐から支援を要請されました。
「ガ島奪回作戦のため陸軍兵力を派遣して欲しいのだが、見通しはどうですか」
そう問われた井本中佐は、深い考えもなく、すぐに動員できそうな部隊を思い浮かべます。
「グアムの一木支隊、それから歩兵第四十一連隊、川口支隊あたりは早く派遣できると思う。しかし、動員については参謀本部で検討させていただきたい」
八月下旬までに陸海軍の戦力を結集してガダルカナル島を奪還するという方針で井本中佐と山本中佐は一致しました。その内容を井本中佐は服部作戦課長に報告しました。そののち作戦課内で会議が開かれ、海軍への支援策が検討されました。
「遠隔地の孤島に陸軍部隊を送り込んだら危険である。輸送が途絶したらどうするのだ」
そんな悲観論は皆無です。誰もが海軍を信頼しており、制海制空権は当然に確保されるものと思い込んでいます。さらに、ガダルカナル島などは早々に片付けて、支那奥地進攻作戦を実施したいという雰囲気が強く、結論はすぐに出ました。
「現在、一木支隊は宇品へ回航中である。これをグアムに引き返させて、乗船のまま待機させておこう。そうすればすぐガダルカナルへまわせる」
一木支隊をガダルカナル島へ投入するという作戦課の判断は杉山元参謀総長に伝えられました。杉山参謀総長は東條英機陸軍大臣に会い、一木支隊をガ島へ投入すると説明し、同意を得ました。この内定事項はただちに文書化され、参謀本部と陸軍省の関係部局へ回覧されます。課長、部長、局長などが押印していき、すべての印がそろえば正式な機関決定となります。このとき、ガダルカナル島への一木支隊投入に危惧の念を抱いたのは陸軍省軍務局軍事課長の西浦進大佐だけでした。西浦大佐にはノモンハンでの苦い記憶があり、わるい予感がしたのです。
満洲とモンゴルの国境ノモンハンで紛争が起こったのは昭和十四年です。その際、関東軍から東京に要請電がとどきました。第二十三師団を投入してソ連軍に一撃を加えたいという内容でした。当時、陸軍省軍事課高級課員だった西浦進中佐は軍事課長の岩畔豪雄大佐に次のように進言しました。
「手際よく事件が解決すればよいのですが、下手をすれば事件が拡大し、日ソの全面戦争にもなりかねません。ここはしっかり揉んだうえで決断すべきです」
「そのとおりだ」
岩畔大佐は同意してくれました。参謀本部と陸軍省との間で議論になりました。参謀本部作戦課長の稲田正純中佐は、第二十三師団を直ちに投入して一撃を加えれば問題は解決すると主張しました。これに対して岩畔大佐は反論します。
「不用意に師団を出すのは危険である。敵の意図をさぐり、こちらの作戦計画を練ったうえで、出すか出さぬかを決めるべきだ」
「それでは遅い」
「事件が拡大した場合に参謀本部はどこまでやるつもりであるのか。一兵がやられたからといって十兵を投じ、十兵がやられたからといって百兵を投ずるという無計画ではあぶない。充分な研究をして、しかる後に態度を決定すべきである」
稲田中佐と岩畔大佐の激論になりました。最終的に論議をさばいたのは板垣征四郎陸軍大臣です。
「まあ、いいじゃないか」
わかったような、わからないような判断で第二十三師団のノモンハン投入が決まりました。その結果、戦闘は長期化しました。十倍の敵を相手とした第二十三師団は敢闘したとはいえ、壊滅的な打撃を受けてしまい、陸軍を揺るがす大問題となりました。
(あのときと似ている)
西浦進中佐は稟議書に判を押すのをためらいました。
(一木支隊は精強だが、うまくいかなかった場合には次々と兵力を投入することになる。あんな遠いところに兵を送るなどノモンハン以上の惨事になりかねん)
あいにく、この日は日曜日でした。陸軍省には次官も局長もいません。相談相手がいないため西浦中佐は思い切って東條英機陸相の玉川の自宅に電話をかけました。
「大臣、もっと充分に揉んでから決定すべきです。軍旗を奉じた一木支隊を投入してしまうと、否でも応でものっぴきならないところまでいってしまいます。ノモンハンのときと同じです。大臣、一木支隊の投入には同意しないで下さい」
「いや、実はきのう杉山と話をすましてしまった。杉山が言うものだから、おれは同意してしまった」
(万事休す)
西浦中佐は不本意ながら稟議書に押印しました。
陸海軍の作戦中枢はガダルカナル島に上陸したアメリカ軍の兵力を一個師団およそ二万と判断していました。航空偵察によって視認された輸送船の隻数が判断根拠です。この判断は正確でした。しかし、陸海軍の秀才たちの頭脳は、この程度の簡単な思考作業では満足できません。脳髄を搾り尽くさなければ仕事をした気がしないのです。その結果、余計な思考をグルグルと巡らせることになりました。
「アメリカ軍の本格的反攻は昭和十八年半ば以降であると予想される。それにしては時期が早すぎる。今回のガ島上陸は本格的反攻ではないはずだ」
アメリカ軍の反攻開始は昭和十八年半ば以降である、という日本軍の判断には根拠がありました。それは第一次大戦の戦例です。参戦を決定したアメリカ軍は、欧州に大軍を展開させるまでに一年半ほどを要しました。これに加え、日米開戦後に米紙がすっぱぬいたアメリカ政府の戦争計画がこの一年半説を裏付けていました。
また、日本の陸海軍が想定していたアメリカ軍の本格的反攻とは、大艦隊による海上進攻のことでした。これに対抗してわが連合艦隊が艦隊決戦を挑む。そのような艦隊決戦思想が陸海軍の先入観になっていました。だからこそガダルカナル島にアメリカ軍が上陸したという事実の解釈に参謀たちは困惑したのです。
このことは不思議といえば不思議です。なぜなら日本軍は南方作戦において島伝いの進攻作戦を見事に成功させ、南方資源地帯を制圧していたからです。それと同様の戦術をアメリカ軍が採用したとしても不思議ではなかったはずです。
とはいえ、これは後世の岡目八目というものでしょう。陸海軍の秀才たちは真剣な勉学によって血肉化させた知識を信じていました。アメリカの本格反抗は大艦隊の海上進攻であり、日米の艦隊決戦が生起する。まさか、アメリカ軍が四軍の統合運用による島伝いの進攻戦略を採用するとは、この段階では想像できなかったのです。
こうした理由から、はるか南洋の孤島にアメリカ軍が上陸した意味を陸海軍の作戦頭脳は本格的反攻とは考えませんでした。
「では、いったい何なのか」
軍事行動には必ず目的があります。強行偵察あるいは飛行場破壊が目的であろうという意見が出ました。だとすれば、アメリカ軍は目的を達した後に撤退するかもしれない。おそらく飛行場を破壊した後に撤退するのだろう。こうした楽観論が支持を得ました。
そこに捷報が入ります。海軍の第八艦隊がガダルカナル島のルンガ泊地に夜襲突撃を敢行し、敵重巡四隻を撃沈したというのです。さらに海軍航空隊による空爆の戦果が過大に伝えられました。
「海軍はやるなあ」
陸軍参謀本部は感心し、海軍軍令部は胸を張りました。さらに、八月十日に実施された航空偵察の結果が報告されてきます。
「ガ島周辺に敵艦艇および輸送船を認めず」
ここにおいて陸海軍の頭脳は、アメリカ軍はすでに撤退し、わずかの残置部隊のみがガ島に駐留しているとの結論に達しました。陸海軍中枢の参謀は誰もが秀才です。情報も集めていました。前線からの報告も届いていました。そうでありながら最終的に大間違いの戦況判断に落ち着いてしまいました。秀才たちの判断ミスを招いたものは、おそらく先入観だったでしょう。
「アメリカ軍の反攻は昭和十八年半ば以降に始まる。その形態は大艦隊の海上進攻である」
この観測が秀才たちの頭脳を支配していました。秀才たちの頭脳は、この観測に合致するような理論を見事に構築し、そして納得したのです。
さらに悪いことに、「アメリカ軍は弱い」という先入観もありました。その根拠は第一次大戦時の観戦武官の報告です。当時、欧州の戦線を視察していた日本軍の観戦武官は、敵の攻撃に驚きあわて、パニックを起こし、逃げ惑うアメリカ兵を目撃しました。
「なんたる弱兵か」
これが日本陸軍のアメリカ陸軍観となりました。これは半ばまで正確でした。確かにアメリカ兵は弱かった。太平洋の戦場でもアメリカ兵はその弱さをしばしば露呈しました。しかし、これは兵の強弱というよりも、むしろ日米の建軍思想の違いでした。
日本軍の場合、将兵に厳しい訓練を課し、練りに練り上げて名将と精兵をつくりあげようとします。武士の修行のような訓練を将兵に課したのです。事実、日本軍には武道の達人が何人もいました。将兵の勇敢さが戦闘力の重要な要素でした。そして、精兵は弾薬を無駄遣いしないものとされました。兵器を使う際にも一発一発の弾丸や砲弾に心を込め、「当たれ、当たれ」と念じつつ一発必中の信念で撃ち込んでいきます。無駄ダマなどは絶対に撃ちません。
一方、アメリカ軍の建軍思想はまったく異なっています。エリート将校や一部の精鋭部隊を別とすれば、将兵に必ずしも精強さを求めませんでした。弱兵でもかまわない。ただ、弱兵を装備によって強くすることを考えました。どんな弱兵であっても、たくさん食べさせ、休養を与え、強力な装備と大量の弾薬を持たせ、頑強な陣地を用意してやれば強兵になる。極端にいえば、兵士にはトリガーを引くことだけが期待されていました。アメリカ軍将兵は、銃砲弾の一発一発に心を込めるような面倒なことをしません。大量の銃砲弾を惜しげもなく連射して、ぶあつい弾幕を張ります。その凄まじさは、熱帯の樹木がみるみるうちに枝葉を削りとられ、数十秒後には一本の立木になるほどです。熱帯の密林も一夜にして禿げ山と化すほどです。徹底した砲爆撃ののちに歩兵部隊を前進させるのです。砲撃によって敵軍はすでに壊滅しています。これなら弱兵でも充分に役に立ちます。
日本軍は将兵そのものを強い人間に養成しようとし、アメリカ軍は大量の装備と合理的戦術によって弱兵を強兵に変えようとしたのです。こうした日米の戦争文化の差異は、こののち太平洋の各戦線で顕在化していきます。実際、日本軍内にいた武道の達人たちは、敵兵の姿も見ないうちに砲爆撃によって四肢を吹き飛ばされ、戦う術を失いました。
しかしながら、昭和十七年八月の時点においては、日本軍の秀才たちの多くはアメリカを知らず、陸軍士官学校や陸軍大学校で教えられたアメリカ観を信奉していたのです。真面目に学んできた秀才ほど先入観にとらわれやすいものです。いっそのことバカか、さもなければ天才であれば先入観に支配されることはありません。しかし、バカは軍中枢に存在できず、天才は周囲に理解されないため組織から排除されてしまいます。秀才ぞろいの参謀たちは先入観に支配され、戦況判断を誤りました。そして、誤謬に満ちた戦況判断に基づいて陸海軍は中央協定を結びます。
「ポートモレスビー攻略を遂行するとともにソロモン群島要地(ガダルカナル島)を奪回す」
この日、参謀本部はラバウルの第十七軍司令部に対して中央協定の内容を知らせるとともに、次のように参謀本部の要望を伝達しました。
「中央としては、むしろ戦機を重視し、なし得れば一木支隊と海軍陸戦隊のみをもって速やかに奪回するを可とせざるやと考えあり」
翌日、陸軍参謀本部は第十七軍司令部に対して「ソロモン群島の要地(ガダルカナル島)を奪回すべし」と命令を発しました。