エピローグ
ガダルカナル島をめぐる日米の戦いは昭和十七年八月に始まり、昭和十八年二月に終わりました。この間、ほぼ半年です。当初、日本軍は事態を軽視しました。その認識を改めるのに三ヶ月ほどを要しました。やっと事態が重大であることを認識した陸海軍は、健軍以来はじめてとなる大命の転換を迫られました。これにほぼ一ヶ月を要します。そして、撤退作戦の立案と実施に二ヶ月をかけ、ガダルカナルに決着をつけました。この惨憺たる敗北は日本海軍に致命的な消耗を強いました。以後、日本海軍は制空制海権を回復できなくなり、そのために陸軍部隊の輸送が思うに任せず、敗退を繰り返すことになります。
すでに飢餓と疫病で半死半生となっていた第十七軍を見捨ててしまう方が純軍事的には合理的だったかも知れません。しかし、日本軍は、その第十七軍を救出するために多大な犠牲を払いつつ撤退作戦を実施しました。連合艦隊は消耗していましたが、撤退作戦を遂行する能力はまだありました。その能力を温存したくもなったでしょうが、むしろ、能力の限りに撤退作戦を実施しました。これを「宋襄の仁」として批判することもできるでしょうが、日本軍は決して友軍を見捨てず、能力の限り撤退作戦を遂行しました。その心意気は後世の師表たりうるものです。
ガ島撤退後、第八方面軍はニューギニアおよびソロモン方面の作戦に取り組みましたが、戦況は好転しません。ニューギニア東端のラエやサラモアに所在する日本軍部隊は完全に孤立していました。ガ島と同じ戦況です。そこで陸海軍は増援部隊をラエに送り込もうと考えました。第五十一師団の約七千名を八隻の輸送船で輸送するのです。これを護衛するのは駆逐艦八隻と陸海軍航空隊です。
ニューギニア東端は、遠隔のガダルカナルに比べれば比較的に近距離です。ラバウルからの上空直掩によって輸送船団を守ることができると考えられました。楽観は出来ないものの成功するだろうと予想したのです。
二月二十八日にラバウルを出港した輸送船団は、三月二日、ダンピール海峡にさしかかります。ラエは目前です。しかし、圧倒的なアメリカ軍機の度重なる航空攻撃が始まりました。日本軍航空隊は防戦に努めましたが、圧倒的な戦力差はどうにもなりません。この結果、輸送船八隻すべてが沈み、護衛の駆逐艦も四隻が沈没しました。完全な失敗です。
ほんの一ヶ月前にガダルカナルという消耗の泥沼から足を引き抜いたばかりなのに、新たにニューギニア方面で激しい消耗が生じたのです。第八方面軍司令部は憂色に満ちました。
そもそも陸軍がニューギニアに部隊を送り込んだ理由は海軍の要請があったからです。この点、ガダルカナルと同じです。ニューギニア南岸にあるアメリカ軍の航空基地ポートモレスビーを攻略するためでした。参謀本部は、慎重な検討をすることもなく部隊を送り込み、その部隊を飢餓と疫病の地獄に陥れてしまいます。
(第二のガ島)
口にはせぬものの、誰もがそう思いました。苦しい作戦指導を続ける第八方面軍司令部に対し、陸軍参謀本部の参謀たちは容赦ない悪罵と叱責を言い放ちました。それらは私語であり、放言であり、決して電報されたりはしません。それでも人から人へ、口から口へと伝わり、はるかラバウルにまで聞こえてきます。
「南太平洋の情勢が好転しないのは、ガ島の部隊を甘やかして撤退させたからだ。軍隊が弱くなった」
「あの撤退作戦は意味のない作戦だった」
心ない風聞は第八方面軍司令部要員を憤慨させました。冷静で知られた井本熊男中佐の怒りも最高潮に達します。
(参謀本部の連中は何も変わっちょらん。何も学ばん)
井本中佐は、参謀本部の反省を促すため、自分が実際に見聞したガ島の体験を百枚ほど原稿用紙に記しました。その末尾は次のとおりです。
「軍中央には、ガ島撤退は間違いであった、斬り込み玉砕せしむるべきであったと考えている人間が相当にいるらしい。陸軍にもいるし、海軍にもいる。撤退が癖になって爾後の作戦が弱気となり、戦う気魄を失ったという。これらは、このうえもなく不謹慎で恥知らずな言辞である。南太平洋方面における不振の責任を回避し、全責任を第一線部隊だけに負わせようとする卑怯な態度である。
そもそも、ガ島作戦に関して最も深く自省三思して、責任を痛感すべきは軍中央である。軍中央にあってガ島作戦を計画し、指導した参謀本部要員には洞察力なく、先見の明なく、しかも第一線部隊の実情や苦心を察してやる気持ちも能力もない。そんな薄情な人間どもである。吾人もまたそのひとりであった」
井本少佐の痛烈な反省です。しかしながら、この反省は活かされませんでした。戦局は、もはや反省など役に立ちようもない段階に達していたのです。