46 何かを無くした世界
紅茶の香りがキッチンじゅうに広がっていた。
パンの香りと、スープの胡椒の香り。
朝からお腹がすく匂い。
「おはよう。ロクシー。」
「あら、おはようございます。フィロック」
「毎朝すまないな。」
「いいえ、居候を住ませると決めたのは私ですので、ペットの犬にでもなった気分で悠々自適に過ごしてくださいな。」
「なるほど、俺は犬か。そう思うと不思議と罪悪感がねえな。」
「ですわよね。」
フィロックが投げた短剣をすらりと躱しながらロクシーは血入りの紅茶を飲んだ。
何度か喉を上下させ、カップの隙間からフィロックを見た。
「な、なんだよ。」
意味ありげな視線を投げかけてくるロクシーにドギマギする。
「いえ………慣れたものですわね。」
「まあな。」
「犬と言われても、怒らなくなりましたのね。」
「お巫山戯だって分かってるからな。」
パンをちぎって口に放り込む。
小麦の香が鼻腔を擽った。
「それに、犬だってのも、あながち間違っちゃいない。」
「ふうん。」
「天涯孤独のその日暮らしの根なし草、そんなだったからな。」
「今では違うと?」
「今でもそうだ。家族は見つかったし、住む場所も与えられている、でも、何一つ自分で手に入れたものじゃない。復讐を誓った俺は、そのためだけに生きてきたからな。それ以外の事なんて、うまく出来ないんだよ。」
「そうですの。」
カップを静かに回すと、赤色の液体が踊る。
朝なのにカーテンの締め切られた部屋で、上からつるされた照明器具の光が水面に反射する。
赤、茶色、黄金色。
色が踊るようなそれをロクシーはまた一口啜った。
「まあ、急がなくてよいのでは?少なくとも私も貴方の姉たちも、貴方より先に死ぬことは無い。急いで誰かに恩返しをしたり、急いで誰かを守ってあげる必要は無いのです。」
「そうだな。」
スープをスプーンですくいながら、フィロックは笑った。
「でも、俺に奥さんでも出来たら違うだろ。」
ロクシーが鼻で笑う。
「それは、無いでしょう。」
ロクシーの言いようにむっとしたフィロックは、スプーンを置いて抗議の声を上げる。
「なんでだよ!俺だって結婚できるはずだ。」
「ええ、出来るでしょうね。可能性的には、でも、貴方今なんて呼ばれてるか分かります?」
「なんだ?」
「………吸血嬢の腰巾着………ふふっ、」
ちっ、と舌打ちをする。わざとらしいそれをロクシーは気にすることも無く、ニヤニヤと紅茶のカップを爪弾いていた。
「誰が腰巾着だ!殺すぞ。」
「知らないですわ。言っている奴らに言ってくださいませ。」
「………くっ、そ。」
乱雑に器を重ねると、立ち上がった。
「どこに?」
「墓。両親の」
「あらそう。」
「庭の花、もらっていいか?」
「好きにしなさい。」
悪態をつきながら出ていくフィロックを見て、ロクシーは笑った。
白いカップの赤い血が揺れる。
今も昔も変わらないのに、
どうしてこうも見えるのだろうか。
昔は赤黒く見えていた血が、今は鮮やかで美味しそうに見える。
おかしいの。
父と母がいなくなってあんなに絶望してたのに。
おかしな人間を捕まえたのだってただの暇つぶしのつもりだったのに。
自分がこなす仕事が嫌いで、でも、やることが自分がいても良いという証明のようで止められなくて。
あんな男、すぐに飽きる。
手のひらの上で転がるように悪意と憎悪だけで才能も無いくせに頑張り続けるそいつが、愉快で、滑稽で、見込みがあると思ったから側に置いておいて。
日々感情を爆発させるあいつが面白くて、よかったと思っていたが、
今の彼は決して前のように、私の求めた彼のようではないが。
なかなかどうして面白い。
何が私をそう思わせるか分からないけど、
「まだ、もう少し、このままでもいいかしら。」
冷たく湿った地面にしゃがみこむ。
カコが近くでひらひらと舞う蝶を見ていた。
冷たい土の中に眠る父達の記憶は無い。
でも、ミサヤ姉さんとサヨリ姉さんが言うには確かにそうらしい。
そこに暖かさも感じないけど、確かにルーツはそこにあるんだと。
「我が弟ながら素晴らしいな。ほぼ毎日のように来ているだろ。」
「姉さん。」
サクサクと草を踏み締めながら姉とそのお付きの蛇たちが近付いてくる。
手に持ったロクシーの館の花を墓石の近くに置くと、立ち上がった。
「生きてる間に話せなかったから、せめて毎日来てやろうかと思って。」
「そうか。」
姉の一番の友達であり、蛇たちのまとめ役のテツがその足を伝って下りてくる。
口にくわえた一輪の花をフィロックの置いた花の隣に置くと、石の上でそっと体を丸めた。
「テツも、両親と会ったことがあってな、いや、この子は私が欲しがったから両親が買ってくれたペットだった。」
「へぇ……」
皆で、可愛がって育てたんだ。
「父さんと母さんと、ミサヤ姉さんとサヨリ姉さんで?」
「………まあな。」
俯いた姉の顔に影が下りた。
何か、あったのだろうか。
もしくは、両親のことを思いだしているのだろうか。
何時も何を考えているか分からない孤高の存在である姉が、ちゃんと意志を持った生き物であることを感じた。
いや、この姉は、機械であるのだが、
「何かを無くした世界でも、何かは生まれるのかね。」
「は?」
「いや、何でも無い。」
「…………何かが何かは分からないけど、無くしたなら、取り戻せば良いと思うぜ。」
ふと気付くと、ミサヤ姉さんが不思議そうな顔でこちらを見てくる。
柄にもなく格好つけたことを口走ったのだと気付くと、かあっ、と頬が熱くなるのを感じた。
「取り戻せないものもある。それは、憶えておけ。」
「ああ。」
くしゃっと頭を撫でられる。
止めろ、と言おうとしたとき、ミサヤ姉さんの体から、ふわっと懐かしい香りがする。
これは……なんの香だろう。
懐かしくて、悲しくて、愛しい香。
ぼんやりと目の前には影が見える。
これは、いつかの記憶?
笑いかける少女の顔。
誰だろう。
「フィロック。どうした?」
「ん?」
「ぼうっとしていたから。」
「ああ。なんか、見えた。」
「は?」
なんだったかは解らない。
でも、何でもいい気がした。
忘れていていい気がした。
いつか思い出すから、その時までは。
カコは今日も蝶に逃げられたようだ。
***
こんにちは。まりりあです。
さて、この話も終わりです。今までありがとうございました。全四十七話?かな?
分かんないですけど、最初は、ロクシーのフィロック以外のキャラクターを想定していなくて、思いっきり、殺したい男と殺されない吸血鬼のラブコメ書こうとしてました。
でも、なぜこうなった?
まあ、いいです。
こんな長丁場になるとは思わず、悩むこともありましたが、なんとか終わりました。やったぁ!
番外編も書くとか言ってましたっけ?いつか、書かせていただきますね。
そしたら、Anotherstoryをご覧ください。
では、またの機会に。