32話 悲劇
気が付くと、零は白い家の前に立っていた。
なぜ自分がここにいるのか、直前まで自分が何をしていたか思い出せない。何か取り返しのつかないことをしてしまった気がする。
必死に思い出そうとしてもひどい頭痛がして思考を妨げられた。
零は白い家の表札を確認する。
「みゆ……き……」
表札には確かに御幸と書かれていた。伯父母の家ではない。けれど零にはこの雪のような白い家にどこか見覚えがあった。
「もしかして……」
零は生唾を飲み込み、インターホンを鳴らそうと指を伸ばす。
「えっ?」
ボタンを押そうとした人差し指がすり抜けてしまった。何度押そうとしても結果は変わらず、ボタンを押すことができない。
仕方ないので諦めて勝手に家の中に入ることにした。体がすり抜けるのならドアも関係ないはずだ。
零の予想通り玄関ドアに手を伸ばしても、やはりドアには触れられずすり抜けてしまう。
意を決して、家の中へと踏み入った。零の全身がドアをすり抜ける。
家の中も見覚えのある景色が広がっていた。玄関に飾られている造花やおしゃれな置物も全て知っていた。
家の奥から話し声が聞こえてくる。女性の声だ。その懐かしい声に零の瞳から自然と涙があふれ出した。
声に誘われて、家の奥へとゆっくり進んで行く。一歩進むたびに話し声が次第に大きくなってくる。
リビングに行くと、この家の住人達が楽しそうに食事をしていた。
住人は四人。大人が二人と子供が二人。近くにいるのに誰も零の存在に気が付かない。
壁をすり抜ける体といい、まるで幽霊になったような気分だ。
だがそれよりも不思議だったのは、二人いるうちの一人の子供、その顔が黒く塗りつぶされていたことだ。声もその子のだけは聞こえない。
もう一人は顔のわからない子供の正面に座っている。その子はまだとても幼くて椅子に座ると、足が床に届かないようで、食事をしながらブラブラと揺れている。
「あの子は……僕だ」
間違いなかった。ここは昔、零の家族が住んでいた家だ。
幼い零は小さな口いっぱいにご飯を頬張っている。その様子を隣で優しそうな目で見守って「おいしい?」と話しかけているのは、
「お母、さん……」
零の母はとてもきれいな人だった。それに優しくて、温かくて、少しマイペースというか破天荒なところもあったが、そういうところも含めて零はこの世界で一番母のことが好きだった。
「好き嫌いするなよ、零」
そう言ったのは母の正面にいる男だった。零の父親だ。
父はいつも額にしわを寄せている人だった。零にはそれが怒っているように見えて怖かった。普段からほとんどしゃべらない人で、零が父からもらった言葉はしつけのためのものばかり。抱きしめられたことも、頭を撫でてもらった記憶もない。
零はこの男が何を考えているかわからず、幼い頃からずっと苦手だった。
それでも父は母と話している時は幸せそうに笑っていた。遠くから初めてそれを見た零は、この人でも笑うのかと、そう思った。
昔、零は母に聞いたことがあった。父は自分のことが嫌いなのかと。
それを聞いた母は零を抱きしめると、『お父さんは少し不器用で昔から素直になれない人なの。でも大丈夫! お母さんと同じくらい零たちのことが大好きで愛してるから。だから心配しないで』とそう言った。
母は嘘をつかない人だ。だから零は大好きな母のその言葉をずっと信じていた。
「お母さん! お父さん!」
零は両親に呼びかけた。無駄だとはわかっている。これは過去の記憶だ。それでも叫ばずにはいられなかった。自分も加えて欲しかった。戻りたかった。あの頃の幸せの日々に。
二人に言葉は届かなかった。
しかし、子供は零の方を見た。真っ黒な顔でこちらを凝視している。
その子の事だけはまったく思い出せない。その子は椅子から下りるとこちらに近付いてきた。
その黒い顔に恐怖を感じた零は思わず目を背けた。
気が付くと零はまた違う場所にいた。家の中にいたはずなのに外にいる。夜の街で零はポツンと立っていた。
突然空気を切り裂くような絶叫が聞こえ、零は声の方へ急いだ。
「行きなさい!!」
「嫌だ! 母さんを置いて行くなんて!! それに――――だって……」
鬼気迫る声に嫌な予感がする。途中うまく聞き取れない部分があった。聞こえなかったというよりもノイズが入ったような聞こえ方だった。
零が到着すると、そこにいたのは制服を着た中学生の自分と仮面をつけた母だった。
(母さんは仮面能力者だった……?)
母は血を逃していた。誰かと戦っているのだ。
「――――は必ず助けて絶対に戻るから。だから今は逃げて」
また言葉にノイズが入った。
「でも――」
「愛しているわ、零」
中学生の零はその言葉を聞くと、母に背を向けた。
「待て! 逃げるなっ!」
零は叫んだが、逃げていく過去の自分を止められなかった。ここでもまた自分は逃げたのだ。
また突然景色が変わった。今度はまた家の中だ。暗く薄暗い部屋だった。
そこにいたのは、椅子にロープで縛り付けられた過去の零。体はやせ細り、肌は傷だらけ、生気のない青ざめた顔をしている。
そんな自分を見下ろしているのは、零の父親だった。その顔を一目見てわかった。父は正気を失っていると。
昔の自分は父に虐待されていた。
(いや違う。これは……)
虐待なんて生易しいレベルではない。これは拷問だった。
(そうだ……。母さんがいなくなってから父さんはおかしくなったんだ)
妻を失った悲しみと怒りは零に向けられた。初めは殴られるだけで済んだが、父の拷問はどんどんエスカレートしていった。途中から見たこともないような道具をいっぱい使うようになって体をボロボロにされた。
周りが気付かなかったのは、父に傷を治す力があったから。学校に行くときには体はきれいに元通りにされた。そして家に帰ってくるとまた拷問で体を痛めつけられる。それの繰り返し。
それが何日も続いた。
何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も何日も――。
来る日も来る日も体を壊された。
抵抗しなかったのは罰だと思ったから。母を見捨てて逃げたのだから仕方ないと思った。
耐えられたのは途中から記憶が曖昧になったからだ。拷問が始まって、気が付いたらもう終わっている。そんな日が続くようになった。
あとになって知ったことだが零の拷問は、別の人格が肩代わりしてくれていた。痛みを別人格に押し付け零はまた逃げたのだ。
ある日零が目を開けると、ちょうど拷問が終わって拘束が解かれるところだった。
「……信じ、てるよ。父さんは、本当はこんなことをする人じゃないって。今は家族を失って辛いだけで……本当は僕のことも愛してくれてるって、ちゃんと知ってるから」
それを聞くと父は笑い出した。こんなに大笑いするところは見たことがなかった。
「父……さん?」
悪魔のように笑ったあと、また父はいつもの顔に戻った。
「オレはお前のことがずっと疎ましかった……。お前たちが生まれてから芽依はオレを見なくなった。芽依をオレから奪ったお前たちが憎くて仕方なかったよ」
零はずっと信じていた。大好きな母のことも大嫌いな父のことも。でも二人には裏切られた。
母は嘘つきだったのだ。母は結局帰ってくることはなかったし、父は子供のことなどこれっぽっちも愛していなかったのだから。




