16話 黒騎士の狙い
「――ん!」
遠くで誰かの声がする。何度も何度も同じ言葉を続けている。女の子の声だ。
「――ん! ――さん!」
だんだん大きくなる声に耳を澄ます。
「零さん!!」
女の子が呼んでいたのが自分の名前だと気づいた時、零は目を覚ました。
「沙也加ちゃん……?」
「零さん、良かった!」
身体を起こそうとするが、沙也加に慌てて止められる。
「怪我は治しましたけど、生命エネルギーは回復していません。だからまだ横になっていてください」
沙也加の言った通り怪我は完治しているようだが、体は鉛のように重い。
黒騎士に敗北した零は、無意識に残っていた生命エネルギーを傷口に集中させた。生命エネルギーは生きるための力であり、普段から過剰に生産されているのは、こういった不測の事態に備えてのことだ。命を脅かす脅威を退けるために身体能力を引き上げる、痛みを軽減し傷を治癒する、それが生命エネルギーの本来の使い方である。
それでも沙也加の治癒の能力がなければ、いくら回復に専念しても死ぬのを少し先延ばしにするだけだったろう。死ぬまでの時間を稼いだからこそ、沙也加の治療が間に合ったので無駄というわけではないが。
「ここは……沙也加ちゃんの家?」
「はい。お兄ちゃんが気づいてここまで運んでくれたんです。あと少し遅かったら間に合わなかったかもしれません」
沙也加の兄の俊は、部屋の隅で腕を組んで壁に寄りかかっている。
最も助けられたくない人間に助けられたことに零は複雑な心境だった。
「……ぁりがと」
聞こえるか聞こえないかくらいの声だった。俊に届いたかはわからないが、沙也加には聞こえたようでうれしそうに微笑んでいる。
「起きたならさっさと話せ。何があった?」
零を心配するそぶりは微塵もなく、俊はいつものように冷たく言い放った。
「それは……」
言葉に詰まった。いずれみんなが知ることになる。隠しても意味はない。それでも事実を告げたくない。今の精神状態で起こったことを正しく伝えられる自信がない。そもそもわからないことが多すぎる。
舞は何を隠していたのか? なぜ零に会いに来たのか? 鳴海に伝えてくれと言ったあの言葉の意味は? 約束の真意は? 黒騎士の正体と目的は? なぜ波動を感じなかった? 舞を凶蝕者に変えたあの仮面は?
当事者なのに蚊帳の外にいるようだ。何一つわからなくてイライラして落ち着かない。
「オレの感知範囲に凶蝕者が引っかかった。すぐに追跡したが凶蝕者のニオイは感知範囲の外に消え、最初に感知した場所でお前が倒れていた」
零が黙っているのを見かねて、俊がここに至るまでの経緯を話し始めた。
「ニオイからして凶蝕者はまだ3級だった。お前でも負けるとは思えない」
「凶蝕者は今どこに?」
「まだ見つかってないんです。影の世界に逃げられると、凶蝕者でも感知は難しいから……」
まだ舞は生きている。とはいえ仮面が完全に黒に染まったことは確認済み、手遅れだ。あれからかなり時間が経っているので、凶蝕化も進行して2級になっていてもおかしくない。
「こっちも影の世界に入れば、オレの鼻なら少し探せば見つけられる。いつでも殺せる凶蝕者なんかどうでもいい。いま問題なのはそこじゃない。お前は本当に凶蝕者にやられたのか? 答えろ、チビ」
隠しておくことはできそうにない。幸いここには鳴海はいない。恋人が凶蝕者になったと知れば、鳴海でも冷静ではいられないだろう。伝えるタイミングは考えなければならない。
最悪、鳴海に伝えるのは全てが終わってからになるかもしれない。恋人に手をかけることなどあってはならない。
零は自分の手で舞を殺す覚悟を決めていた。それが目の前にいたのに何もできなかった男の責任だ。鳴海には恨まれるだろう。もう彼から教えを乞うこともできないかもしれない。
零は起こってしまった悲劇を包み隠さず二人に語り始めた。話の途中で孝仁も帰ってきたので、彼もまじえて最後まで話した。
沙也加は相当ショックだったようで、舞が凶蝕者になったことを告げた時点で泣き始め、今もまだ流れ落ちる雫を止められないようだった。俊は壁に体重を預けて目を閉じ、沈思黙考している。孝仁も顎に手を当て何かを考え込んでいるようだった。
「あの……チカラさんと舞さんの関係のことは……」
「ああ、もちろん知っているよ。舞ちゃんとは何度か僕たちも会ったことがある。優しく明るい子だったよ。沙也加とも仲が良くてね」
沙也加が泣いていることから、舞が浅葉家と面識があることは予想できた。舞は浅葉家にとっても大切な知人だったのだ。
「ごめんなさい。僕は……何もできませんでした」
「君が責任を感じる必要はない」
孝仁は、自分を責めうつむく零の肩に手を置いた。
「御幸君、今は辛くても前を向くしかない、そうしなければ状況は悪くなる一方だ。この間の話は覚えているね? これも乗り越えるべき壁のひとつだ。この道を歩くと決めたのなら君は進まなければならない」
零は顔を上げた。まずはそれからだ。下を見て目をそらしていては何も始まらない。前をしっかりと見なければ壁は乗り越えられないのだ。
「それでいい。前が向けたのなら次はどうすべきかみんなで考えよう。それでまずひとつ確認したい。君たちを襲った仮面能力者が黒い鎧を纏っていたというのは、間違いないんだね?」
「はい、間違いないです。黒い鎧で騎士のような見た目でした」
零としては確認するまでもないことだった。あれほどわかりやすい特徴を見間違えるわけがない。
孝仁は俊と互いに目配せした。
「可能性はある。死体が見つかってねぇんだからな。そのチビが言うことが本当だったらの話だがな」
「だがもし本物ならなぜ御幸君を殺さなかった……? トドメをささないどころか『覚醒の仮面』まで使ってる。やっていることは当時と真逆だ」
二人は黒騎士について何か心当たりがあるようだった。
「知ってるんですね? あいつのことを……」
「……二年前、仮面の力を持つ者が何者かに次々と殺される事件があったんだ。『仮面狩り』といってね……我々もそれで仲間を失った」
(二年前って……確か早瀬さんのお兄さんも――)
佳奈の兄は仮面能力者であり、二年前に殺されたと彼女は言っていた。
「わたしたちは『仮面狩り』を止めるために、みんなで犯人を捜しました」
涙を拭って答える沙也加の瞳はまだ赤かった。
「じゃあ、その犯人が……」
「黒騎士だ」
佳奈は兄を化け物に殺されたと言っていた。化け物とは仮面凶蝕者のことだと零は解釈していたが、黒騎士の常軌を逸する強さから佳奈は化け物と表現したのかもしれない。まだ黒騎士が佳奈の兄を殺したと決まったわけではないが、時期が一致しているから可能性はある。
彼女の名前を出すことはできないので、零はその話を胸の奥にしまった。
「黒騎士は、なぜ仮面能力者を……?」
「理由はわからない。対話も試みたが、まともに話の通じる相手じゃなかったからね」
零の質問に孝仁は軽く首を振って答えた。
いきなり問答無用で斬りかかってきたことから、確かに孝仁の言う通り、話ができそうな相手でないことがわかる。
「犯人を突き止めたものの、黒騎士の強さは尋常ならざるものだった。鳴海君がいなかったら僕たちもどうなっていたかわからない」
「二年前はチカラさんが黒騎士と戦ったんですか?」
「黒騎士に対抗できるのは彼だけで、他の者は足手まといにしかならなかった。一対一の激闘の末、致命傷を負った黒騎士は敗走。仮面狩りもその日で止まったことから、黒騎士は逃げた先で力尽きたのだと我々は思っていた」
それがなぜ今になって戻ってきたのかは、孝仁たちにも説明できなかった。二年前に仮面狩りをしていた黒騎士はなぜ今回は零を殺さず、仮面の力を持たない舞を狙ったのか。そしてやはり気がかりなのは、あの仮面についてだ。
「舞さんを凶蝕者に変えた仮面について何か知ってますか?」
「あの仮面は『覚醒の仮面』と言って、つけた者の心魂の仮面を強制的に発現させるというとても危険な代物だ」
「どうして黒騎士は舞さんを凶蝕者に変えたんでしょうか?」
「いまパッと思いつく理由は二つある。黒騎士は何らかの理由で仮面凶蝕者あるいは仮面能力者を必要としていた。舞ちゃんが狙われたのはたまたまで誰でもよかったのかもしれない。御幸君に覚醒の仮面を使わなかったのは、すでに仮面の力を持っていたから」
舞の様子からして、零にはあれが偶然で無差別によるものとは思えなかった。彼女が何かを知っていたのは間違いない。
「もうひとつの理由は復讐だ。二年前に死にかけた上に仮面狩りの邪魔もされた黒騎士は鳴海君のことを恨んでいるはず。舞ちゃんが鳴海君の恋人だと知った黒騎士は本人ではなく彼女を狙った。ただ殺すのではなく凶蝕者に変えるという非道なやり方でね」
「じゃあ本当の狙いは僕や舞さんではなくチカラさん……」
「かもしれないね。俊はどう思う?」
「……鳴海さんが狙いっていうのは同意見だがそれは復讐のためじゃねぇ。仮面狩りをまた始めるためだ。鳴海さんがいなくなれば、黒騎士を止められなくなる。北条さんを殺さず凶蝕者にしたのは、鳴海さんをおびき出すエサにするためだ」
「でもそれならなんで凶蝕者に変えたの? 普通に人質にするほうが……」
「鳴海さんは人質を取られた程度で大人しくなるような人じゃない。言いなりになったところで人質が解放される保証はないからな。鳴海さんがそういう人だということくらいは黒騎士もわかっているはずだ。人質が通用しないのなら、凶蝕者に変えて鳴海さんの心を揺さぶったほうがいいと向こうは判断したんだろ」
凶蝕者に変貌した恋人を前にして冷静でいられるはずがない。心の力が仮面の力に直結する仮面能力者に動揺は命取りだ。前回は勝っているとはいえ、怒りで冷静さを失った状態ではどうなるかわからない。
黒騎士の狙いが鳴海を殺すことなら必ずそこを狙ってくるはずだ。
「じゃあチカラさんには話さず、僕たちだけで……」
「御幸君、それはダメだ」
「でも……」
「我々だけで対処できるなら確かにそれがベストだ。恋人が凶蝕者になった姿なんて鳴海君に見せたくはないからね。だがさっきも言ったが黒騎士は強すぎるんだ。鳴海君になんとかしてもらうしかない」
ここにいる全員が束になっても黒騎士には敵わない。舞だけならなんとかなるが、舞を殺そうとすればおそらく黒騎士も現れるはず。となるとやはり鳴海に頼るしかない。
「親父、黒騎士はともかく覚醒の仮面が出てきたってことは……」
「わかってる。裏で動いているのはおそらく……もしかすると仮面の殺人鬼も……」
「倉科さんには?」
「隠してもいずれバレる。伝えるしかないだろう」
「何の話ですか?」
二人の話についていけなくなった零は説明を求めた。
「いや、いいんだ。気にしないでくれ。今はまだ不確定なことばかりだ」
そう言われても美咲の名前が出た以上、気になって仕方がない。
「もう少し情報が集まったら御幸君にも話すよ」
不満そうな顔をする零を見て孝仁はそう言った。追求したところで今は答えてはくれないのだろう。零は引き下がるしかなかった。




