6話 夏祭りに行こう
自室の時計を確認すると、零はベッドからのそっと起き上がった。
読みかけの漫画は本棚に戻す。続きは気になるが時間に遅れるわけには行かないので仕方ない。
今日は皆が待ちに待った夏祭り当日である。
しかし零にとっては待ちに待ったというよりは、ついにこの日がやって来てしまったという感じだ。
窓を開けて外の天気を確認するが、空は雲一つ見当たらない快晴。
これなら雨天中止の可能性はまずない。
実は雨が降らないことは、事前に何度も確認した天気予報で嫌というほどわかっていたことだった。
だがそれでも、もしかしたらと期待してしまうのが人間である。
零はだらだらと服を着替えながら、今からでも祭りに行かなくてもいい理由を少し考えた。
だがあまりいい案は浮かばない。未だに気乗りはしないが約束を破るわけにもいかない。
零は夏祭りに行く決心をようやく固めた。
整髪料で髪を整え、財布とスマートフォンをポケットにしまい準備完了。
部屋を出ると階段を下りてすぐに台所に向かった。台所では伯母が夕飯の支度を始めている。
零は現在、伯母と伯父と一緒に暮らしている。両親は三年前と二年前に立て続けに亡くしている。
当時の零の精神状態は家族を失ったことで非常に不安定なものだった。
学校では暴力事件、器物損壊等をはじめとする数々の問題行動を起こして出席停止処分になった。
出席停止が解けたあとも零は中学には通わず、残りの中学校生活は自宅に引きこもって過ごすことになる。
家でも自分の部屋に閉じこもり、伯父母が話しかけてもほとんど反応がなかった。
だがそれでも伯父母は根気よく接し続けた。その甲斐もあってか、零の精神は徐々に安定していったのである。
元の心を取り戻しつつあった零を見て、もう一度学校に通えるように伯父母は考え始めた。
しかし零の悪評は地元では知らない人がいないほど広まってしまっていた。
近隣のどの高校に進学させても零は周囲から距離を置かれてしまうだろう。
それを危惧した伯父母は、零のために引っ越しを決意する。零のことを誰も知らない遠方の地でならきっと零は幸せになれる。
そうして引っ越してきたのが今いるこの街である。
「じゃあ伯母さん。行ってきます」
零は意識して笑顔を作り伯母に挨拶した。
無理して明るく振る舞ったのは、夏祭りに行くのが乗り気でないということを悟られたくなかったからだ。
「あら、もう行くの?」
濡れた手をエプロンで拭きながら伯母はそう返した。
「はい。少し早いですけど遅刻したくないので」
そう言い残して零は玄関に向かった。
「あまり遅くならないようにね。最近は物騒だから……」
買ったばかりのスニーカーの靴紐を結んでいると、伯母がやってきて後ろから心配そうに声をかけた。
零は立ち上がって、伯母のほうを振り返ると「友達も一緒だから大丈夫ですよ」と伯母を安心させるために優しく微笑んだ。
友達という言葉を聞いて、伯母はうれしそうな表情を見せた。
高校に入学してから既に三か月が過ぎていた。三か月もすれば周囲の友人関係はもうほとんど出来上がっているのが普通だ。
中学の時を考えれば何も問題なく高校に通えているだけ充分進歩している。
だが休日に外出することもなく独りで遊んでいる零を見て、友人関係がうまくいっていないのではないかと伯母は不安だったのだ。
友達と夏祭りに行くと最初に伝えたとき、伯母は自分のことのように喜んでいた。
少し目に涙がたまっていた、あの時の伯母の顔を零は忘れられない。
自分が迷惑をかけてきたのは理解しているつもりだった。
だが伯父母がどれほど自分のことを想いどれだけ自分を心配してくれていたのかということ、それはその時まで本当のところではわかっていなかったのだ。
「零、待ちなさい」
外に出ようとすると伯父が少し慌てた様子で奥から駆けてきた。
「これを持っていきなさい」
そう言って伯父は自分の財布から五千円札を取り出した。
「だ、大丈夫ですよ、お金は普段のお小遣いで足りていますから」
「子供が遠慮なんかしなくていい。せっかくの夏祭りなんだ。持っていきなさい」
「……ありがとうございます」
零は両手で5千円札を大切に受け取ると財布にしまった。
「気を付けていきなさい」
「はい。行ってきます」
玄関を開けて外にでると、ムンとした暖かい空気が肌に触れた。空の色は茜色に染まりつつある。
日は暮れ始めているが気温はまだまだ高い。立っているだけで汗が噴き出してくる。
エアコンで冷やされた涼しい室内に直前までいた反動で余計に暑さが堪える。
待ち合わせ場所は祭りの会場の近くにある小学校だ。匠と帆夏が通っていた小学校らしい。徒歩で三十分ほどの距離である。
伯父に「車で送っていこうか?」とも言われていたのだが、零は遠慮して断ってしまっていた。
この暑さの中、三十分は結構きつい。早くもそう感じ始めた零は断ったことを少し後悔した。
待ち合わせ場所に近づくにつれ、同じ方向に進む人が増え始めた。皆、祭りに向かっているのだろう。
浴衣を着た人もチラホラ見かけるようになった。
零は小学校までの道のりが少し不安だったので、浴衣の人たちの流れに付いていくことにした。
それから少し歩くと目的地の小学校が見えてきた。ここからでも祭りの喧騒がわずかに聞こえてくる。
小学校のグラウンドは祭りに参加する人達のための駐車場として開放されている。零が到着する頃にはグラウンドは既に車でいっぱいになっていた。
スマートフォンで時間を確認したが待ち合わせの時間にはまだ三十分近くある。外で待っているのは暑くて嫌なので近くにあったコンビニに入ることにした。
コンビニで立ち読みをして時間つぶしていると、ピコンっとスマートフォンの通知音が鳴った。
スマートフォンを確認すると、匠から今着いたというメッセージが届いていた。時間を見ると待ち合わせの十分前になっていた。
すぐに返信、それからコンビニを出て再び待ち合わせ場所に向かう。
コンビニを出て左にまっすぐ。次の角を曲がればすぐ小学校がある。五分もかからない距離だ。
だがもうみんな集まっていたら待たせるのは悪いので少し急ぐことに。
角を左に曲がるところで零の体に衝撃が走った。
「あ、すいません」
尻もちをつきながら反射的に零はそう謝った。零は揉め事を嫌うので明らかに自分に非がない場合を除き、すぐに謝るようにしている。
零とぶつかった人物は二メートルあるのではないかと思わせる大男だった。
髪は金色に染められ肌は色黒。頑強な肉体に派手な柄シャツを纏ったワイルドな印象を与える外見をしていた。
男は零を立ち上がらせるため手を伸ばした。
巨躯に見下ろされたことで若干恐怖を感じながらも、零は男の手を取ってそれに応じた。
「……すまねぇな、怪我はねぇか?」
「あっ、はい。大丈夫です」
男は零の顔をまじまじと見た。
「…………」
「あの……? どうかしましたか?」
「……いや、何でもねぇ。悪いが急いでるからよ」
男はそう言い残すと、慌てた様子で走り去って行ってしまった。
男の態度が少し引っかかったが考えても仕方がない。零も待ち合わせ場所へ急いだ。
待ち合わせ場所の小学校見えてくると、匠が校門の横で手を振っているのが見えた。
「おっす、零」
「匠だけ? 他の二人は?」
「帆夏たちもそろそろ着くって連絡あった。それより聞いてくれ零。さっき森下から仕入れた情報によるとあの倉科先輩が祭りに来てるってよ!!」
匠は興奮を抑えられないといった感じで、いつにも増してテンションが高かった。
「誰それ?」
零は興味なさそうにそう返した。
「バッカ、お前。虹陽100ランキングその2。虹陽女子生徒美人ランキング堂々の第1位、倉科美咲先輩をなんで知らねぇんだよ!」
匠は知っていて当然の常識のように倉科美咲について語った。
「ふーん。学校で一番の美人ってことか。」
「倉科先輩はすげえんだぞ。文武両道、容姿端麗な上に性格も良いって噂だ。中学の時はクラスの男子全員から告白されたらしい」
「それはさすがに盛りすぎじゃない?」
「いやいや嘘じゃねえって!」
「ちなみに早瀬さんと藤原さんは?」
「佳奈ちゃんは3位で一年だけなら1位だな。帆夏は――」
「楽しそうですね。何の話ですか?」
突然声がかかった。声をかけたのは佳奈だ。そしてその隣には帆夏もいる。
二人は浴衣を着ていて帆夏は少し恥ずかしそうにしている。
「なんでもないよ! それより二人とも浴衣すごく似合ってるね。なんていうか、普段より大人っぽい感じがしてきれいで……。とにかくすごくいいと思う」
女子のランキングで盛り上がっているのはまずいと思い、零はごまかすために慌てて二人の浴衣姿を褒めた。
「ほんとに!? 私、浴衣にあんまり自信なかったんだけど……えへへ、ありがとね。零ちゃん」
「ありがとうございます。零くん」
うまく褒められたか自信がなかったが、二人が喜んでいるのを見て零は安心した。特に帆夏の方は褒められてとても喜んでいる。自信がないと本人は言っているが本当によく似合っている。
帆夏は充分かわいいのだが、自分がモテるという自覚がまったくない。
それはいつも近くにいる佳奈と匠のせいだ。隣にいる佳奈が学年一の美人ということもあって、帆夏はどうしても霞んでしまう。
男子たちが近づいてきても、自分ではなく佳奈が目当てだと帆夏は思ってしまう。
さらに匠と帆夏の関係は外野の人間が入って行きづらいものがある。二人が付き合っていると勘違いしている人も少なくない。
「ちょっと! さっきから何、黙ってんの? 女の子が浴衣を来て来たんだからアンタも何か言いなさいよ」
帆夏は匠の前で「ほれほれ」と浴衣を見せつけた。
「…………」
「ねぇ、ほんとにどうかしたの?」
零も帆夏に続いて匠の異変に気付いた。いつもなら黙っていることのほうが珍しい匠だが、帆夏たちが到着してからまだ一言も発していない。
「あっ、もしかして私の浴衣に見とれて声も出ないとか?」
「......ああ。きれいだ」
「えっ!?」
匠の意外な反応に、帆夏は面食らったように目をぱちくりさせた。
いつもの匠なら帆夏の浴衣姿をからかって喧嘩になっていたことだろう。それを見た佳奈と零が仲裁に入る、それがいつもの流れだ。
今回もきっとそういう流れになると零は内心そう思っていた。
だが目の前には真面目な表情で浴衣を褒める匠といつもと違う彼に戸惑い困惑する帆夏という、なんとも不思議な光景が広がっていた。
「えと、その……ぁりがと」
いつもの元気で明るい帆夏と打って変わって、その声は消え入りそうなほど弱弱しいものだった。
匠の顔を見ることが恥ずかしいからか下を向いて、頬を真っ赤にしている。
「いや~、しかしほんとにきれいだ」
「も、もういいから!」
帆夏はさらに頬を紅潮させ、もう耐えられないといった感じだが、匠はお構いなしで続けた。
「いや言わせてくれ。白の下地にぱっと見で明るい印象を与える向日葵……。細かに入った星模様はポップな雰囲気を演出している。帯は鮮やか、かつ上品な橙色。さらにさりげなく蝶をあしらっているのが実に良い。派手過ぎず、地味すぎず、調和のとれたすばらしい逸品だなこれは。うん。まさに馬子にも衣装……いや、ゴリラにも衣装といったとこ――」
匠が全て言い終わる前に、帆夏の強烈な拳が匠の顔面をとらえていた。
「痛ってえな! なんだよ。褒めてんだろーが!!」
「浴衣をね!! 女の子が褒めてほしいのは浴衣を着た可愛い自分であって、浴衣そのものじゃないの! ていうか最後のほうは普通にバカにしてたよね!?」
「俺ははただ感想を言っただけだ。嘘偽りのないありのままのな」
「それがムカつくって言ってんのよ!」
少し前までの良い雰囲気が嘘のように、またいつもの見慣れた光景に変わってしまった。
「なんか、またいつもの流れになっちゃったね……」
「ええ。ですがこの方があの二人らしくて良いですね」
「そうだね……。確かにこの二人にとってこれが一番のグッドコミュニケーションなのかもしれないね」
喧嘩するほど仲が良いという言葉もある。二人はよく喧嘩をするし、お互いに結構ひどいことを言うこともある。
傍から見れば二人はすごく仲が悪いように見えるかもしれない。
だが基本的にその喧嘩はその場限りのもので、後に引きずったりはしない。
喧嘩をしても距離を置いたりお互いの関係性が変わったりしてしまうこともない。
それはこの程度では、自分たちの関係が崩れたり離れたりすることは決してない、そう二人は心のどこかでお互いを信頼しあっているからだろう。
だから二人の間に遠慮も気遣いも必要なく安心して喧嘩ができるのである。
人と距離を置いてしまう零から見ると、そういう関係性はとても貴重なものだと思うし少しうらやましくもある。
零が祭りに行くことをはっきり断れなかったのは、こういう関係性が出来上がっていないからかも知れない。
祭りに行くのを断ったことがきっかけで、みんなが自分から離れていってしまうかもしれない。それを零は恐れたのだ。
「零くん、どうかしましか? そろそろ二人の喧嘩を止めようと思うのですが……」
「う、うん。そうだね」
「帆夏ちゃん。そろそろ祭りに行きますよ。いつまでも喧嘩してると置いて行っちゃいますよ?」
佳奈が呼ぶ声に二人はしぶしぶ従った。