8話 羞恥
「零、結局その猫どうするんだ?」
零が地面に下ろそうとしても、沙也加は服に爪を引っ掛けて抗った。何度試しても胸から離れてくれない猫に零は苦笑する。
「匠はちなみに犬派、それとも猫派?」
「猫って言ったら飼う流れになりそうだから、犬派で」
匠は零の次の反応を先読みし、猫を押し付けられるのを回避した。匠は別に猫が嫌いではないが飼うとなると話は別だった。
「えー。犬とか吠えるし、話聞かないし、すぐ噛む……というか本気で殺しにくるし、謝らないから良いとこないよ?」
「お前犬に何されたんだよ?」
嫌いを超えて、もはや恨み、憎しみを感じさせる零の発言に対して、匠は怪訝な顔をした。
「まぁ犬っていうか狼の話だけど……」
「日本の狼って絶滅してなかったっけ?」
(零さん……まだ根に持ってたんだ……)
沙也加の兄、俊の爪痕は零の心と身体に深く刻まれた。身体の方は沙也加が治したが、心の方はまだ傷跡は残ったまま。冤罪で殺されかけたのだから無理もない話だった。
「とにかく猫のほうが……ほら! こんなに可愛いよ」
零は沙也加猫の顔を匠に近付ける。この愛らしい生物を見て可愛くないという人間はいないだろう。どんな頑固オヤジでもこの猫の目を見たら、きっとメロメロになってしまうに違いない。
さらに零は沙也加猫の手を取って、匠に向かって可愛さアピールをしてダメ押しする。
「いくらおすすめされても飼えねぇよ。親が猫アレルギーだし」
「あ、そうなんだ。じゃあ仕方ないか」
どれだけ好きでもアレルギーの壁は超えられない。アレルギーは最悪の場合、本当に死んでしまうので、それを言われてしまったら零も引き下がるしかなかった。
「どっちにしろ、俺には懐いてねぇんだし、お前が飼えよ」
「うーん……でも伯父さんと伯母さんが許してくれるかわかんないし……」
本当は許可が出るかどうかよりも、わがままを言っていいものかという気持ちが零をためらわせていた。
これまでさんざん迷惑をかけてきた上に、これからもしばらく迷惑をかけるのは間違いない。いつ死ぬともわからない道を選んでしまったので、恩を返すことができるかもわからない。
それでも自分は伯父と伯母に、わがままを言ってもいいのだろうか、考えてもわからない。猫を飼ってみたい気持ちと、迷惑をかけたくないという気持ちの間で零は揺れる。
「聞くだけ聞いてみろよ。少しぐらいわがまま言っても許してくれると思うぞ、家族なんだから。もしダメなら帆夏に飼えるか聞いてやるからさ。その猫もたぶん帆夏なら懐くだろ」
零は少し驚いた顔をした後、口元を緩ませた。
普段は馬鹿なことばっかり言っているのに、こういう時には人の気持ちを察してくれるので、零は彼に全幅の信頼を置いている。
「うん、わかった。聞いてみる」
匠が背中を押してくれたことで、零も決心がついた。
(あれ? どうしよう……わたしこのままだと零さんのペットになっちゃう)
「でもなんで匠には懐かないんだろ? やっぱり下心が透けて見えるのかな?」
「いや、さすがに俺も猫をエロい目では見ねぇよ!」
匠の気遣いにお礼ぐらい言ってもいいのだが、照れくさくて零はついついからかってしまう。匠を満足いくまでいじり倒した零はその後、彼と別れて沙也加猫と二人で家に向かった。
玄関の前で一呼吸。沙也加猫と目を合わせる。
(零さん……?)
不安そうな零の顔を見て、沙也加も不安そうに鳴く。
心配してくれた沙也加猫の頭を撫で、零は曇った顔を吹き飛ばし笑顔を作る。
「大丈夫、ありがとう」
意を決して、玄関ドアに手を掛けると零が開ける前に先にドアが開いた。
「あら、おかえり。零くん」
玄関を内から開けて出てきたのは伯母だった。外出着に着替え、エコバッグを持っているのでどうやらこれから買い物に行くみたいだ。
「ただいま、あの伯母さんお願いが――」
「あら可愛いネコちゃんね。どうしたの?」
伯母はすぐに零の抱えている沙也加猫に興味を示した。
「なんか帰り道で会って……それで懐かれちゃって」
「抱っこしてもいい?」
「え、はい。どうぞ」
匠の時は全力で拒絶したが、零の足を引っ張らないように沙也加はお行儀よくした。ついでに渾身の上目遣いと甘えた鳴き声のセットを添えることで、伯母を籠絡しようとする。
「人懐っこいわね。名前は決めたの?」
「え、いや、まだです」
「じゃあ早く決めてあげないとね」
「飼っていいんですか?」
「そのために連れてきたんでしょ?」
「でも伯父さんに聞かなくてもいいんですか?」
「あの人は何言っても『わかった』としか言わないから大丈夫よ。興味なんてなさそうにね。でもたぶん、私たちよりこの子のことをいっぱい可愛がってくれると思うわ」
「……ありがとうございます」
「いいのよ。零くんのお願いごとなんて初めてだから、こっちもうれしいわ」
「うれしい……ですか?」
「あのね、親からしてみれば、子供のわがままやお願いはとってもうれしいのよ。わがままばかりだと困っちゃうけどね。でも零くんは遠慮してばっかりだから、もっと私たちに甘えていいのよ?」
「……はい」
(そっか……零さんから感じる温かさとか優しさは、零さんだけのモノじゃなくて周りのみんなのおかげなんだ……)
零の友達、零の家族と会った沙也加はそんな風に考えた。人の性格、人格は個人だけで形成されるものではない。周りの温かさが今の優しい零を作ったのだと。
「じゃあ、私はそろそろ買い物に行ってくるわね」
「わかりました。いってらっしゃい」
「ニャー! 〔あばよ!〕」
沙也加も『いってらっしゃい』と言いたかったのだが、また違う言葉に変換されていた。意味は近付いているので、猫語自体は少し上達していた。
「あ、そうだ。そのネコちゃん、少し汚れちゃってるから洗ってあげたほうがいいわ。お風呂は沸いてるから一緒に入っちゃってね」
伯母はそう言い残して、買い物に行ってしまった。
(ん? ちょっと待って? いまお風呂って言った?)
「じゃあ、一緒にお風呂入ろっか」
(ええええええええええええええええええええええええええええ!!)
急に暴れ始めた沙也加猫を落とさないよう、零はしっかりと抱え直した。
「あれ? もしかしてお風呂入るってわかるの? 匠より賢いね」
(どどどうしよう……お風呂って二人とも裸じゃん! というかよく考えてみたらわたし、猫の姿とはいえずっと零さんに裸を見られてたんだよね……しかも裸で抱っこもされちゃってるし)
そう考えてしまうと、ものすごく恥ずかしくなってきた。沙也加は零に助けてもらうつもりだったが、猫の正体が自分であると、どんどん打ち明けづらくなってきた。今は助けてほしい気持ちよりバレたくないという想いのほうが強い。
零は一度寝室に寄って着替えを用意してから、バスルームに向かった。
(ごめんなさい、零さん。でもわたし何も見てませんから)
沙也加は脱衣所で服を脱いでいる零に背を向け、さらに目も閉じている。少し見たいという邪心もあるが首を振って振り払う。
(待って……零さんも一応わたしの裸を見ているわけだし、わたしが見る権利もあるんじゃ……)
沙也加は片目だけ開けてチラッと横を見る。横にある洗濯かごに、零の脱いだ服が次々と投げ込まれていく。最後に零のボクサーパンツが投げ込まれたところで、沙也加のボルテージが最高に達した。
(もうどうにでもなれっ!)
投げやりになる沙也加を、一糸まとわぬ零が後ろから抱き抱えて、いよいよお風呂タイムに突入する。
「少し熱いかな……?」
沙也加のために零は少しぬるめにシャワーの温度を調節する。
「よし! このぐらいでいいかな。おいで」
(ああ~ダメだ。零さんに優しく『おいで』とか言われたら絶対逆らえないよ~)
沙也加はバスチェアに座っている零の膝の上に、おとなしく座った。
零は人肌程度の温度に弱めの水量にしたシャワーで、沙也加猫の身体の汚れを優しく洗い流していく。
身体全体を軽く湿らせた後に零は石鹸を手に付け泡立てていく。猫用のシャンプーがないためそれの代用だ。スマホで調べたら、人間用のシャンプーは猫の肌には強すぎるためおすすめできないが、低刺激の石鹸なら使ってもいいということがわかった。
よく泡立てると手で直接、沙也加猫の身体を丁寧に洗っていく。
(こ、これはさすがにまずいよ! 零さん!)
軽くシャワーで洗い流されるだけだと思っていた沙也加は油断していた。零の手が身体のあちこちに触れる感覚。猫の身体でもデリケートな部分に触られるのは、さすがに耐えられない。
(あ、どうしよう……なんかおトイレ行きたくなってきちゃった)
人の身体でもたまにお風呂中にトイレに行きたくなることがあるが、猫の身体でも同じことが起きてしまった。もしかしたら身体を触られて刺激を受けたことも関係しているかもしれない。
風呂場は窓も入り口も閉まっている。完全な密室、逃げ場はなかった。
猫の姿でも零の前で排尿するなんて死んでもできない。
沙也加はなんとかトイレに行きたいという意思を伝えようとするが、石鹸が嫌で暴れているだけだと勘違いされてしまう。
「もう少しで終わるから我慢してね~」
(ダ……ダメぇっ……これ以上触られると本当にもうっ……!)
そこで沙也加の身体が突然輝きだした。それは凶蝕者に掴まれた時のあの光と一緒だった。
(ま、まさか!)
最後に一度強く発光したあと、沙也加は元の姿に戻っていた。
膝に乗っていた沙也加がいきなり元の姿に戻ったことで、零は彼女に押し倒される形になった。
(う、うそ……戻っちゃった)
凶蝕者の仮面能力は時間制限があり、自動で解除されるものだった。
不幸にも最も悪いタイミングで能力が解除されてしまった。沙也加はいま倒れている零の身体にまたがってしまっている。二人とも全裸の状態でだ。
「え……!? 沙也加ちゃん? なんで?」
猫がいきなり光り出したと思ったら、次の瞬間には裸の女子小学生に変わっていた。あまりにも唐突すぎて、事態が飲み込めず、零の頭の中では疑問符が乱舞した。
「こ、これは、えっと、あっ……」
そこで沙也加の限界が来てしまった。これまで我慢していたものが一気にあふれ出し、零の身体を濡らした。
沙也加はたちまち、顔に紅葉を散らすと、火がついたように泣き出してしまった。