3話 父の苦悩、娘の悩み
年頃の娘との関係で苦労する父親は多いとよく聞くが、浅葉孝仁はそれでも自分はうまくやれているほうだと思っていた。
娘を授かった一年後に最愛の妻を失った孝仁は、幸福の絶頂から一転、絶望の淵に突き落とされた。父子家庭になったことで、いろいろと不安と苦労もあったが、これまで子供二人を男手一つで立派に育ててきたという自負がある。
娘の沙也加は妻に似て、素直で優しい子に育った。しっかり者でわがままをほとんど言わず、兄の俊よりも手間のかからない子だった。今では家事のほとんどをこなしていて、食事もいつも沙也加が用意してくれている。最近は逆に孝仁が助けられているくらいだ。
そんな家族思いの娘だが、今は夕飯も作らずにずっと部屋に閉じこもっている。孝仁と俊はその原因を探るため、二階にある子供部屋の前で呼びかけを続けている。
「沙也加! 何があったかわからないが、父さんは沙也加の味方だ。必ず力になってみせる。お願いだから理由を話してくれないか?」
孝仁はドアに耳をつけて沙也加の声を待った。
「お父さんには関係ないからあっちに行ってて!」
やっと娘の声が返ってきて少し安心したが、閉じこもっている理由はまだわからない。
友達の家から大泣きして帰ってきたと思ったら、部屋に鍵をかけてそのまま、今の状態が続いている。
「梨々花ちゃんとケンカでもしちゃったか? 大丈夫、ちゃんと話せばすぐに仲直りできるさ」
「違う!!」
どうやら友達とケンカをしたというわけではないらしい。
「やっぱり、お前が何かしたんじゃないか?」
「オレは何もしてねぇよ」
兄の俊は朝から出掛けていて帰ってきたのも、沙也加のあとだった。朝に会ったときは沙也加の様子に変わったところはなかったので、自分が原因ではないと主張する。
「もしかして……アレ、なんじゃねぇか?」
「アレって……まさかアレか?」
友人とケンカしたわけでもなく、家族のせいでもない。年頃の娘が急に取り乱し、理由も話せないとなると、
「沙也加は今年でもう11歳だ。アレが来ていてもおかしくないだろ」
確かにそれなら父親と兄に話せないというのも納得がいく。
「沙也加! いきなりのことでビックリしたかもしれないが、それは沙也加が大人に近づいた証なんだ。恥ずかしがることはない。とても素晴らしい事なんだよ。父さんが赤飯を用意するから部屋から出て、一緒にお祝いしよう!」
「違うから! お父さんキモイ!! あっち行って!!」
「おいふざけるな、全然違うじゃないか! お前のせいで娘から初めてキモイって言われたぞ。どうしてくれるんだ!」
孝仁は俊の胸ぐらを両手で掴んで怒りをぶつけた。父親が思春期の娘に拒絶されることはよくある話だが、自分は無縁だと思っていた孝仁はショックを隠せない。
「親父が赤飯なんて言うからだろ……アレが本当に来ても余計なことすんなよ」
「その話はとりあえず置いておくとして、アレが違うなら原因はやっぱりアレじゃないか?」
「まぁアレが一番、可能性が高いだろうな」
年頃の女の子が抱える悩みといえば、やはり恋の悩みだろう。大泣きしていたところから察するに失恋したのかもしれない。
「しかし沙也加が振られるなんてことありえるか? 世界一可愛い10歳だぞ?」
「考えられねぇな」
親バカな孝仁に兄バカな俊も同意した。
「沙也加が告白して振られる可能性はゼロだ。おそらく相手に好きなヤツがいることがわかって、想いを伝えることもできなかったってところだな」
「なるほど、そういうことか。沙也加! もしかして沙也加の悩みは御幸君が関係しているんじゃないか?」
「――――!」
沙也加の返事はないが、否定もしなかった。御幸零の名前を出した後、ドアの向こうで何か大きな物音が聞こえた。図星を突かれて動揺しているのだろう。
「なんでここであのチビの名前が出るんだ?」
「なんでってお前まさか気付いてなかったのか?」
孝仁は息子のあまりの鈍さに呆れてしまい、何か言おうとしても何も言葉が出ず、少しの間、口を半開きにしていた。
「沙也加があのチビを!? おい沙也加! そうなのか!」
恋愛面に関して異常に鈍感な兄は、ようやく意味を理解し沙也加を問いただした。
「…………」
何度もドアを強くノックしたあと、ドアノブにも手をかけるが、鍵がかかっているので開くはずもない。
最悪、ドアを破壊することも考えたが、それをやったら一生関係を修復できなくなりそうで、踏みとどまった。
俊は諦めてドアに背を向ける。
「おい俊、ちょっと待て。どこへ行く」
階段を下りていく俊からただならぬ空気を感じ取り、孝仁は慌てて呼び止めた。
「今からあのチビをぶっ殺しにいく」
「待て待て。落ち着け」
玄関から出ていこうとする俊の腕を孝仁が掴んで引き止める。
抵抗する俊に孝仁も力が入りもみ合いになった。
孝仁が床に俊を押さえつけ暴走を止めたところで、インターホンが鳴った。
突然の来訪者に二人は動きを止める。
「ああ、よかった。来てくれたみたいだ」
孝仁は、ほっと安堵の息をついた。
「あ? 誰か呼んだのか?」
「ああ。実はさっき救世主を呼んでおいたんだ」
孝仁は俊の拘束を解き、急いで客人を迎え入れた。
「こんばんは」
浅葉家にやってきたのは、大人っぽく落ち着いた清楚な装いの女性。俊もよく知っている人物だった。
「遅くにすまないね、美咲ちゃん。助かるよ」
「いえ。それより沙也加ちゃんはどうですか?」
「まだ部屋から出てこない。情けないが我々ではダメそうだ。お願いできるかい?」
「はい。任せてください」
今は美咲のその言葉に期待するしかなかった。
母親がいない沙也加は、悩みや不安を気軽に打ち明けられる存在が家庭にはいない。成長するにつれて、父親や兄には言えないことも増えていた。
そんな沙也加でも、空のように広く、海よりも深い包容力を持つ美咲になら、無条件で甘えられる。普段から姉のように慕っている美咲になら、沙也加も心を開いてくれるはずだ。
「さやちゃん、こんばんは。大丈夫?」
孝仁と俊が少し離れて見守るなか、美咲はドアの向こうにいる少女に優しく語りかける。
言葉とは不思議なもので、同じ言葉でも言う人によっては信じ難いほどに強い力を持つものだ。
美咲の言葉にも不思議な力がある。特別なことは何も言わなくても、その声色が、その言葉に込められた感情が、聞く者に安心とやすらぎを与えてくれる。
「……美咲ちゃん」
「みんな心配してるよ。誰にも言わないって約束するから、私にだけこっそり教えてくれないかな?」
鍵を開ける音が聞こえたあと、ドアノブがゆっくりと回る。だが沙也加はすぐには出てこない。
いま美咲がドアに手をかければ簡単に開けるが、彼女はあせらず沙也加が、自分で外に出てくれるのをじっと待つ。決心した沙也加がドアを開いて出てくると、すぐに美咲の胸に飛び込んできた。美咲は優しく抱きしめ返して背中を軽くポンポンと二回叩く。
「大丈夫、大丈夫だから」
美咲は沙也加を抱きしめながら、孝仁たちに目配せした。孝仁と俊は美咲に全てを任せ、同時に頷く。
美咲は沙也加を抱えると、二人の会話を聞かれないように部屋へ入って鍵を閉めた。
男二人は音を立てないよう慎重に移動し、会話を盗み聞きするために耳をドアにつける。
部屋に入った美咲は沙也加のベッドに腰かける。沙也加が抱きついたまま、離れようとしないので、美咲はそのまま会話をはじめることにした。
「何があったか話せそう?」
「……うん」
涙で目元を腫らした沙也加は、自分が部屋に閉じこもった原因、事の顛末を語り始めた。




