5話 虹陽高校
丸太坂を上り切ると、ようやく虹陽高校の校舎が二人の視界に入ってきた。
虹陽高校の校舎は建築から既に四十年以上経過している。そのため、見た目は廃墟と見間違えてもおかしくないほどだ。
老朽化が深刻で外壁は錆び付き、床は軋むうえに天井が雨漏りすることも。設備も整っておらず、エアコンが設置されていないため夏の教室内はサウナに。窓の取り付けが甘いせいか、隙間風が吹き込み冬は冷蔵庫と化す。
それが原因で体調不良を訴える生徒は後を絶たない。
扇風機は設置されているが、地球温暖化が進んだ日本の猛暑の前では焼け石に水である。
本日の苦行が終わり零はほっと一息ついた。
一方、匠はというとパンツを拝み足りなかったのか、何度も後ろを振り返って未練がましく丸太坂を見つめている。
「遅刻するよ」
そう言いながら、零は変態の腕を引っ張り校門へと向かった。
校門の前には、パンチパーマの門番が腕を組んで仁王立ちしていた。
門番の正体は虹陽高校体育教師の一人。小布施公子である。
鍛え上げられたその肉体は、とても44歳女性のそれには見えない。特に脚の筋肉がすさまじい。はじめて小布施を目の当たりにしたとき、零は蹴りで人を殺せそう、匠はスーパーロボットみたいな脚だなと思ったほど。
全盛期には嘘か実か熊を素手で撃退したという逸話をもつ。虹陽の生ける伝説、それが小布施公子その人である。
「おはようございます!! 小布施先生!!」
運動部の声出しのごとく、声を揃えて腹の底から声を出す二人。もはや朝の挨拶というより絶叫に近い。
もちろん二人がここまで気合を入れて挨拶をするのは、小布施に対してだけである。
「おはよう、二人とも元気が良くて大変よろしい。だが二人そろって遅刻とはいただけないね」
「いやいや先生、まだ遅刻まで五分ありますよ」
匠は校舎の時計を指差して、小布施の間違いを慌てて訂正した。
「ああ、すまない。確かにまだ五分あるね、二人とも遅刻常習犯だから勘違いした」
「お言葉ですが先生。いつも遅刻しているのは匠だけです。自分はいつもギリギリセーフです」
「いやー。最近は電車が遅延することが多くて……」
(匠は電車通学じゃないでしょ)
匠のしょうもない言い訳に、零はあきれて目を横にそらした。
「電車の遅延が原因なら、次は遅延証明書を持ってきなさい。それから今日は遅刻していないからいいですが、二人とももう少し時間に余裕を持って行動するように。さぁ、はやく教室に向かいなさい。HRに間に合わなければ遅刻と変わりませんよ」
二人は返事をしてダッシュで昇降口へと向かった。
「友達を売るとはひどいじゃねぇか」
「しょうがないでしょ。あのままじゃ僕まで巻き添えで、小布施に目をつけられるところだったんだから」
二人は軽く言い争いをした後、下駄箱で靴を上履きに履き替え廊下を疾走し、ようやく教室までたどり着いた。
匠はその勢いのままドア開ける。そしてすぐさま両腕を水平に伸ばしたジェスチャーを行い「セーフ!!」と野球の審判のごとく、おおげさにコールした。
「どうやら今日は珍しく全員揃ったみたいですね、HRを始めるから二人とも早く席に着きなさい」
匠の歓声とは対照的に、静かに穏やかな声でそう告げたのは、零たちの担任教師の赤坂透だ。
清潔感のある見た目に爽やかな笑顔。黒縁メガネが与える知的な印象から、女子生徒の人気は高い。
熱心な授業風景。生徒と正面から向き合って、真剣に接するその姿勢はまさに理想の教師といったところだ。
零は「早く進めよ」と匠の尻に蹴りを入れた。匠は赤坂の指示と零の蹴りにおとなしく従った。
二人が着席すると朝のHRが始まった。学校、クラスに関する諸連絡が赤坂の口から淡々と告げられていく。
その間、零は睡魔と戦い続け欠伸がバレないように、手で口を覆ってごまかしていた。当然、赤坂の話はほとんど頭に入ってこなかった。
横目に他のクラスメイトたちを見てみると、同じく眠そうにしている者、真面目に話を聴く者、机の下でバレないようスマートフォンをいじる者などさまざまだ。
匠はというと座っていても落ち着きがない。足をバタつかせ、HRが終わるのを今か今かと待ちわびているようだった。
「……以上でHRを終了しますが、最後に一つだけ――。最近この街で起こっている物騒な事件についてです」
クラスの空気が変わるのを感じた。下を向いていた者も今では顔を上げ、クラス全員が赤坂を凝視している。
「ニュースを見た方は既に知っていると思いますが……昨夜、またこの街で痛ましい事件が起こってしまいました。警察の捜査ではおそらく例の殺人鬼による犯行の可能性が高いようです」
「……仮面の殺人鬼」
クラスの誰かがそう呟いた。それは赤坂にも聞こえたようだ。
「殺人鬼に関する噂がいろいろ広まっているようですが、どれも信憑性に欠けるものばかりです。不確かな情報に惑わされないように注意してください。ただこの街に殺人鬼がいるのは確かです。人通りの少ない道は避け、夜遅くに外を出歩くといった軽率な行動も控えてください。今週は午後の部活動も禁止です。週末には夏祭りがありますね。中止すべきという声もあるようですが、今のところ予定通り開催されるようです。ですが生徒の夏祭りへの参加については、職員会議で検討中です。祭りへの参加が禁止になる可能性も頭に入れておいてください」
夏祭りを楽しみにしていた生徒たちから不満の声が上がった。赤坂は生徒たちの憤りを鎮めることが不可能と判断したのか、HRを強引に終わらせて教室を出て行ってしまった。
「おっはよ! 零ちゃん!!」
HRが終わり、ノロノロとした手つきで一限の準備をしていると、明るく弾んだ声で挨拶をされた。
声の主はクラスメイトの藤原帆夏。
栗色のボブカットの髪に、大きくぱっちりとした瞳が印象的な女の子だ。明るく誰に対しても分け隔てなく接する優しい子だが、怒ると結構怖い。
基本的には幼馴染みの匠にしか怒ることはないので、匠とその他の生徒とでは彼女の評価は正反対である。
匠の彼女に対する評価は怪獣だのゴリラだの散々なものだが、零にとっては元気で優しくて笑顔が可愛らしい女の子という印象である。
零は手を止めて「ぉふぁよう、藤原さん」と軽く欠伸をしながら返事をした。
「ふふっ。今日も眠そうだね」
帆夏は優しく微笑みながら、零の顔の前で「起きてるー?」と手を振った。
「うん、少しね。睡眠は充分とれてるはずなんだけどなあ……。いっぱい寝ても眠気が取れなくて困る」
「ふーん、大変だね。じゃあもしかして、さっきのHRの話も眠くて聞いてなかった?」
「最後のほうはちゃんと聞いてたよ。……物騒だよね、殺人事件なんて」
「うん、それもなんだけど……。夏祭りに行けなくなるかもって、ホントありえないよね!?」
どうやら帆夏にとっては、街で起こる連続殺人よりも、夏祭りに行けるかどうかのほうが重大な問題らしい。
「そっちの話ね。でもまぁ、まだ決まったわけじゃないし、犯人も祭りまでには捕まるかもしれないし、たぶん大丈夫じゃない?」
祭りがどうでもいい零は、テキトーに答えた。
「だよね! 大丈夫だよね! それでね。佳奈と一緒にお祭りに行く予定なんだけど、零ちゃんも一緒に行こっ!」
(あっ……。そういう話の流れか)
祭りに行く気のない零は何と言って断るか思案した後、曖昧な笑みを浮かべた。
そこへ祭りという単語を聞きつけた、お祭りバカ野郎の匠がどこからともなく現れた。
「フッ夏祭りか。俺は忙しいんだがな。仕方ない。お前たちの頼みだ。予定は空けておくとしよう」
「……それでね。零ちゃん、集合場所どこにする?」
無視である。
「仕方ない。お前たちの頼みだ。予定は空けておくとしよう」
どうやら匠は、自分の声が聞こえていなかっただけだと、ポジティブに考えたらしく同じセリフを繰り返した。
「時間も決めないとね! 早く週末にならないかなー」
匠が横でまだ何か言っているが、帆夏は構わず話を続けた。
匠を視界に入れず、匠が何をしようとピクリとも反応しない徹底ぶりである。
完全に匠をいないものとして扱っている。とうとう匠の心が折れた。
「あのー、すいません。帆夏様。どうか私めの話を聞いていただけないでしょうか?」
帆夏はため息をついたあと、ゴミを見るような目を匠に向けると、
「で、なに?」
帆夏は冷たく言い放った。
「お二人はどうやら夏祭りに一緒にいくご様子で。それになんと佳奈ちゃんも――」
「だから?」
匠の言葉を遮って畳みかける帆夏。匠の目にはうっすら涙が浮かんでいる。
「わたくしもご一緒させていただきたいのですが……」
匠は床に這いつくばって懇願した。
「そう……一人で行けば?」
「鬼かてめーはああああああああああ!!」
匠は床から起き上がり、帆夏に詰め寄ってきた。
「だいたい零を最初に祭りに誘ったのは俺だぞ!」
「はあ!? 知らないし。どうせ断られたんでしょ?」
二人の諍いは次第にヒートアップし、お互いに罵詈雑言を浴びせかける。
零は完全に蚊帳の外である。
他のクラスメイトはといえば、よくみかける光景なので皆、我関せずといった態度である。
それにそもそも根本的な問題が一つ。
「えっと……僕、祭りに行くとは一言も――」
「お二人は今日も仲がよろしいですね」
静かな声でそう告げたのは、帆夏の親友である早瀬佳奈だ。
他の高校一年生と比べると、年齢のわりに落ち着いた雰囲気で物静かな印象の女の子である。
二人のやりとりを見て上品に微笑むその表情は、可愛いというよりは美しいという表現がしっくりくる。
「あっ。おはよう早瀬さん」
「おはようございます。零くん。……なんだか顔色がよくないようですが大丈夫ですか?」
佳奈は心配そうに、零の顔を覗き込んだ。
「ちょっと眠いだけだから大丈夫だよ」
佳奈の瞳に見つめられて、少し照れた零は目を横にそらした。そらした視線の先で未だに繰り広げられる、匠と帆夏の口論を見て「いや。やっぱりあの二人のせいかも……」と顔色が悪い原因を訂正した。
「あっ!! 佳奈ぁ。聞いて! こいつホントありえないんだけど」
佳奈に気づいた帆夏は彼女に泣きついた。佳奈の豊かな胸に顔をうずめる帆夏。その帆夏の頭をよしよしと撫でながら
「二人ともケンカはダメですよ?」
佳奈は穏やかな声で喧嘩の仲裁に入った。
「いやー聞いてよ。佳奈ちゃん。俺と零で祭りに行くことになったんだけど、そいつが自分も連れていけとうるさくてさ。……まぁ仕方ないから連れていってやるけどね。しょうがないやつだよ。まったく……あっ、でも佳奈ちゃんならもちろん大歓げ――」
「勝手に話をねつ造してんじゃないわよ!!」
匠の嘘にキレた帆夏は、匠の頬に渾身の右ストレートをおみまいした。
後方に吹っ飛んだ匠は、よろよろと起き上がった後自身の頬をさすりつつ
「ついに本性を現したな。この暴力女ああああああああ!」
と怒りの雄叫びをあげる。
匠と帆夏、二人の怒りはピークに達していた。
ここまでくると零ではどうすることもできないので、大人しく二人を見守ることにした。
おそらく匠が帆夏にボコボコにされてこの喧嘩は終結する。普段二人の喧嘩でよくあるパターンがそれだ。
ただし今日はこの場にもう一人、怒っている人物がいた。
「二人ともケンカはダメだといったはずですよ?」
静かな声だった。静かだが凄みのある声だった。顔は笑っていた。笑っているが目は笑っていなかった。
「ご、ごめんなさい」
二人が謝ることで、喧嘩は平和的に解決した。
謝る相手が違う気がしたがそれはきっと些細な問題だ。
この日、クラスメイト達は絶対に怒らせてはいけない存在を知ったのだった。