9話 期待外れ
地面に転がっている零を見て、狼男は舌打ちした。
「期待外れだな。こんな奴に鳴海さんたちは何を……まぁ、もうどうでもいいか」
零は呆気なく敗れ、狼男の期待していたものは見られなかった。
獲物に立ち上がる気配はなくこれ以上は無駄と判断した狼男は、元の姿に戻ろうと仮面に触れる。
その瞬間だった。地に伏していた零がいきなり、ムクッと起き上がったのだ。
狼男は仮面に触れた手を戻し再び臨戦態勢に入る。
意識は完全に失っていたはずだった。壊れた機械が勝手に動き出したような不気味さだ。
狼男は零から少し距離を取り、警戒を強めた。
「ニオイがさっきまでと別人だ」
狼男は生命の波動をニオイとして嗅ぎわける。
目の前の人間のニオイが、瞬きするほどのわずかな間に全く別のものに変わっていた。
バスケットいっぱいに詰めた何種類もの果物が放つ甘酸っぱい香りが、降りしきる雨の中に立つ木々のニオイへと変わる、そんなことは本来なら絶対にありえない変化だ。
今まで幾人もの人間の波動を嗅ぎわけてきた狼男にとっても前例はない。
ニオイを変える人間もいるにはいるが、これほどの変化は異常と言わざるを得ない。
「話に聞いてた別人格ってやつか」
零は答えない。
起き上がった彼はキョロキョロと周囲を見渡した後、傷だらけになった自分の体を確認。最後に狼男を見ると恨みのこもった眼差しを向けた。
自分に向けられた怒りを感じ取った狼男は、第二ラウンドの始まりを確信した。
ところが怒りの元凶である自分に向かって来ることはなく、零はあろうことか突然火が付いたように泣き出した。
「ううっ……ひどいよ。血がこんなにいっぱい。いたいよぉ……」
子供のように泣き続ける零に狼男は面食らった。
「おいっ! 敵を前にしてなに泣いてやがる! みっともねぇ。別人格なら仮面を出せるんだろ? さっさと出せチビ」
その狼男の叫びは怒りというより、呆れに近かった。
「チビじゃないよぉ。ぼくの名前は歩六」
「名前なんかどうでもいい。仮面を出さないと殺すぞ。チビ」
「仮面を出したら殺さない?」
「うるせぇ。いいから早く出せ!」
「わかったから、そんなに怒鳴らないでよぉ」
歩六は狼男に怒鳴られながら、涙も乾かぬうちに、慌てて仮面を発現させた。
空の青より深い藍色の仮面は、歩六の口元だけを隠して涙にぬれる瞳までは隠してはくれない。
「ぼくの仮面は『寂寥の仮面』。仮面能力は――」
「バカか。いきなり敵に仮面能力をバラそうとしてんじゃねぇよ!」
「ごめんなさいぃぃ!!」
言われた通りに仮面を出した歩六だったが、怒鳴られたことでまた子供のように泣き出してしまった。
「いちいちイラつかせやがって。もういい、さっさと死ね」
狼男は構えると、鋭利な爪を歩六に向ける。
「こっちに来ないでえええええ!」
歩六は泣きながら、近くにあった小石を拾ってがむしゃらに投げつけた。
「そんなもんで俺を止められるわけが――」
狼男はそこで言葉を切った。歩六の投げた石に異変があったからだ。
一つだった石は二つに、二つの石は四つに、石は分裂を繰り返し、散弾のように狼男を襲った。
とっさの出来事に狼男は、無数の石の回避はあきらめて防御を選択する。
ダメージは最小限に抑えた。
ただの小石とはいえ、仮面能力者が投げたとてつもない速度の石。その上ここまで数が多いとさすがに無傷とはいかなかった。
歩六は続けて小石を投擲。自分に近づけさせないよう弾幕を張る。
「バカが。同じ手が通用するかよ」
狼男は姿を完全な狼へと切り替えた。
パワーよりもスピード重視で小石の弾幕をかいくぐる。
小石はかすりもせず、狼は弾幕をぬけた。そして攻撃の射程距離に歩六を入れると、再び狼男の姿に変身する。
鋭い爪で歩六を狙い一気に腕を振り下ろす。
この距離ならもう回避は間に合わない。
防御をするにしてもパワーに差がありすぎてどうにもならない。
この鋭利な爪にかかれば人の体など簡単に八つ裂きだ。
だが狼男の爪が歩六を引き裂くことはなかった。
狼男の腕は歩六の腕に掴まれ止められていた。
普通なら歩六の細い二本の腕で、狼男の剛腕は止めることは到底不可能だっただろう。
しかし止められた。答えは簡単、歩六の腕が二本ではなかったからだ。
「てめぇ、今度は腕を増やしやがったのか!?」
歩六の腕は右腕五本、左腕五本、合計十本の腕で狼男の腕を掴んで止めていた。
歩六の仮面――寂寥の仮面の能力は【増殖】あらゆるものを増やす力。
「もうやめようよ。今ならまだ死ななくてすむよ」
「たった一回俺の攻撃を止めたくらいでずいぶんな自信だな」
狼男は歩六の腕を振り払った。
「俺がお前程度の仮面能力者に殺されるわけねぇだろ」
「ぼくじゃないよ。殺すのは一輝だよ。一輝は犬が嫌いだからきっと殺されちゃうよ」
「オレは犬じゃねぇ!! 狼だっ!!」
歩六の言葉に激昂した狼男は、もはや一切の容赦なく攻め立てた。
歩六は増やした腕で必死に抵抗するが防ぎきれず、体の傷は増えていく一方。
耳を覆いたくなるような絶叫も誰にも届かない。
やがてその声すら止み、そこにあったのは全身を赤く染め、無残な姿へと変えられた少年とそれを見下ろす狼男の姿だった。
「何が殺されるだ。主人格も別人格もハッタリをかまして生き延びようとするだけの雑魚能力者じゃねぇか」
狼男は苛立ちを抑えきれずその場に唾を吐き捨てた。
「やっぱり、期待外れだったな」
「いきなり襲ってきて勝手に失望か……身勝手な男だな」
言ったのは零でも歩六でもない。波動の違いですぐに新たな人格だと狼男は理解した。
「それに行儀も悪いようだ。飼い主がいるかは知らんが、オレが代わりに躾けてやる。犬っころ」
さっきの歩六は高く子供のように幼い声だった。
それとはまったく違う低く落ち着いた声。そして歩六にあった、あどけなさは消え失せ、その言葉の端々に冷たさと悪意を感じさせる。
「どの人格もオレをイラつかせるのが好きなようだな。御幸零!」
「オレをあのクズの名前で呼ぶな。オレの名は一輝だ」
「お前がさっきの泣き虫が言ってたやつか」
「犬っころ。あのクズを苦しませたことだけは褒めてやる。尻尾を巻いて帰るなら見逃してやるから、今すぐオレの前から消え失せろ」
「調子に乗るなよ。御幸零。次に舐めた口をきけば、真っ先にその喉元を食いちぎる」
「一度言ったはずだぞ。オレをあのクズの名前で呼ぶなとな……もういい、躾けはやめだ。人の手を噛む駄犬は殺処分する」




