8話 仮面使役者
影の世界に投げ入れられた零は、ボールのように地面を転がった。
口の中で鉄の味と不快感が広がっていき、反射的にそれを唾液と一緒に吐き捨てた。
口を拭いながら立ち上がると、ちょうど襲撃者もこちらの世界へ入ってきた。
それと同時に空間の裂け目は消失。
零はまだ自分で影の世界への扉は開けない。
現実世界へ戻る手段は完全に断たれてしまった。
(落ち着け……美咲さんかチカラさんが絶対に気づいてくれる。それまで時間を稼がないと)
「どうした? ずいぶんと悠長だな。殺し合いはもう始まってるんだぞ。さっさと仮面を出せよ」
出せるものならとっくに出している。
零はまだ自分の意思で仮面を出せない。
仮に出せたとしても半覚醒の状態では勝負にならないだろう。
「そっちだって仮面出してない。そもそもお前の目的はなんだ?」
「奇術師の仲間……といえばわかるか?」
「奇術師に言われて僕を殺しに来たってことか?」
「そうだ」
「嘘だ」
襲撃者の狙いはまだわからないがそれが嘘だということは断言できる。
「嘘? なぜオレの言葉が嘘だとお前にわかる?」
「凶蝕者をペットにしているような頭のおかしいやつに友達がいるとは思えない」
「根拠にはならないな。仮面能力者は頭のネジが飛んでる――というより元からないような連中ばかりだ。そんなやつらでも利害が一致すれば手を組むこともある」
「利害の一致? それこそおかしい。あいつが誰かに殺しを頼んで自分は出てこないなんて絶対にありえない。自分でやることに意味があるんだ。もっといえば殺すこと自体はあいつの目的じゃない。殺しはあいつの目的を果たすためのついででしかない」
零は美咲から奇術師の目的は聞いていた。
奇術師がつまらない嘘をつくようなやつではないことは、一度の接触で充分わかっている。
美咲に語ったことは奇術師の真意だと零は確信を持って言える。
奇術師の目的は、人が持つ嘘偽りのない本物の感情に触れたいというものだ。
人を死の絶望に追いやることで、普段取り繕っている偽りの仮面をはがしとり、心の内に隠した醜い素顔をさらけ出させる。
それは美咲には何ひとつ理解できないものだったが、零には一部、理解できる部分もあった。
その願いのために誰かの命を奪うということは零にもまったく同意できないが。
「ずいぶんと奇術師のことを理解しているようだな……確かにオレは奇術師の仲間じゃない。オレは仮面の殺人鬼だ」
「それも嘘だろ」
「…………」
「お前は世間を騒がせている仮面の殺人鬼とはたぶん違う。本物だったら素顔で制服っていうわかりやすい特徴を残したまま犯行に及ぶわけがない」
根拠はそれだけではない。まだ日も沈み切らないうちに住宅街での襲撃。影の世界を使えば人目に触れるのを避けられるとはいえ迂闊すぎる。
警察と仮面能力者、表と裏の世界の人間の双方から追われ、死体以外に何一つ手がかりを残していない仮面の殺人鬼の行動とは思えない。
「そもそも影の世界へ放り込まれたのも変だ。理由はわからないけど、仮面の殺人鬼の被害者は全員、現実世界で遺体が発見されている」
影の世界で人を殺せば遺体すら発見されず、完全犯罪がたやすく成立するはずなのにだ。
にもかかわらず、現実世界で人を殺しているのには何か理由があるはずだ。
だが目の前の男は影の世界を利用した。
仮に影の世界で殺人を犯したあとに、遺体を現実世界に運んだとしたら警察の捜査ですぐに犯行現場が違うことがバレるだろう。
零が知っていることは、ニュースからわかる程度の情報だが犯行現場が違うという可能性はなかったはずだ。
「仮面の殺人鬼ではなくても、俺がお前をぶっ殺しにきたってことには変わりないぜ」
そう、そこが零にはわからない。
奇術師の仲間ということはありえない。仮面の殺人鬼でもない。
男は無差別殺人犯ではなく、御幸零を狙って殺しに来た。
命を狙われる心当たりはまったくない。
「おしゃべりはこれで十分か? 少し話しを引き延ばしたぐらいじゃあ仲間は間に合わないだろうがな」
見透かされていた。もう少し話を引き延ばしたかったがここが限界。
男はスクールバッグの中を漁り仮面を取り出した。
バッグを荒っぽく横に投げ捨て仮面をつける。
その仮面はある生き物を模した仮面だった。
二つのピンと立った耳に鋭い牙。
仮面の形状からすぐにこの男の仮面の力がわかった。
「狼……。狼の仮面能力者」
「違うな。俺は『仮面使役者』だ」
「仮面……使役者?」
「そんなことも知らないのか? こいつは俺の精神を具現化した心魂の仮面ではない。現実にある仮面だ。世界には特殊な力が宿った仮面が存在する。その力を引き出して戦うのが『仮面使役者』だ。つけただけで仮面能力が強制的に発動する仮面もあるが、この仮面は使役者としての才能がなければ扱えない仮面だ。お前がさっき言った狼ってのは当たりだ。俺はこの仮面に宿る狼の力を借りて戦う、狼の仮面使役者だ」
(生命の波動の特訓で使った仮面は強制的に発動するタイプの仮面。目の前の男の所持する仮面は才能がないと扱えないタイプの仮面ということか)
「おしゃべりは終わりといったはずだったな。一瞬で死にたくなければ、お前も仮面を出すんだな」
仮面をつけた男の姿がみるみるうちに変わっていく。
あらゆるものを食いちぎるための強力な顎と牙。
容易に傷つけることが敵わない美しい白銀の毛並み。
地面についた両腕は前足へと変わり、全てを引き裂くための爪が生える。
男は仮面をつけた大狼へと変貌を遂げた。
全身を完全に狼へと姿を変えた男は、零に向かって威嚇の声を上げた。
辺りに響き渡る狼の雄たけびが、零の肌をビリビリと刺した。
狼は獲物である零を基点にし、右へ左へと脚を運ぶ。
目線の先には零をしっかりと捉えたまま、仕掛けるタイミングを図っている。
仮面を発現できない零が仮面能力を発動させた相手に勝つのはほぼ不可能だろう。
零は攻撃という選択肢を頭から外した。
今は時間を稼いで生き延びるのが最優先だ。
奇術師の時のような無謀な特攻は、ただ自分の死期を早めるだけだろう。
防御と回避に専念することに。
ただあの鋭い牙による攻撃だけは防御ではなく、絶対に回避しなくてはならないだろう。
あれに噛みつかれたら最後、人の体なんて簡単に食いちぎられて終わりだ。
敵は依然、仕掛けてこない。
(仮面を出さない自分を警戒しているのか? もしかして僕が仮面能力者だとは知っているけど、仮面が出せないということはまだバレてない?)
狼は一度足を止めた。
(来るッ!!)
直感通り狼は零に向かって突進して来た。
零はすぐさま左手を自分の顔に運ぶと、あたかも仮面を発現させるぞというポーズをとった。
それを見た狼はその場で急ブレーキをかけた。
零の駆け引きは成功した。
狼は零が仮面を発現させると思い、迂闊に飛び込むのは危険と判断して攻撃を中断した。
「どうした。来ないのか?」
さらに強気で相手を煽る。
仮面を発現できないとバレた時点で零の寿命は一気に縮まる。
悟らせてはいけない。少しでも長く隠し通さなければ。
「そうか。お前仮面を出せないんだな?」
零のブラフはすぐに見破られてしまった。
「言っただろう。においでわかるって。そんなに波動が揺らいでたらバレバレだ」
狼は再び零に襲い掛かる。
攻撃に備えるが反応できず、風が通り過ぎるように狼は零の横を通り過ぎた。
右脚に遅れて激しい痛みが走った。
零は痛みに耐えきれず、その場に膝をつく。
脚は真っ赤に染まり、血が絶え間なく流れ出ている。
通り過ぎる瞬間、狼の爪でえぐられていたのだ。
(やばい……ただでさえ動きが速いのに脚をやられた)
痛みで零の額からは汗が流れる。
相手は獲物に逃げられないように、確実にこちらの機動力を削いできた。
零は振り返って狼を探す。
狼はまたさっきと同じように、左右を行ったり来たりして様子を伺っている。
(連続で仕掛けてこない……。出血で僕が弱るのを待っているのか?)
零は着実に追い詰められていた。
怪我以上に厄介なのは、相手が零に対して油断を一切していないこと。
圧倒的な力の差に関わらず、慎重に事を運び隙はまったく見せない。
敵を仕留めるために一つずつ丁寧に相手の選択肢を奪っていく。
まるでプロの狩人だ。
これでは奇術師の時のようなラッキーパンチには期待できない。
零は一度深呼吸すると瞑目した。敵の前で目を閉じる、普通ならそれは自殺行為だ。
(美咲さんは言っていた。波動の感知で相手の攻撃を予測することができるって。目を開いていたところで狼の攻撃は避けられない。なら少しでも波動の感知に集中する)
目を閉じていても狼の位置はわかる。光が教えてくれる。
狼が発している生命の波動、その光から敵の情報を読み取る。
光が一層強くなった。それと同時に零は横に飛んだ。
だがそれでもわずかに間に合わず左脇腹を狼の爪がかすめた。
零は痛みで目を開き、傷を確認するとすぐに右手で傷を押さえた。
さっきと違い深くはない。
だがまた血を失った。これ以上失うと意識を保つのが難しくなってくる。
(一か八か……まだ動けるうちに賭けに出るしかない)
再び波動の感知に集中し、狼が仕掛けてくるのを待つ。
狼は中々仕掛けてこない。それなら今度はこちらから動くまでだ。
零は足の痛みに耐えながら走り出した。
狼に向かって――ではない。それとは反対方向。
狼に背を向け隙だらけの状態。自分が逃げることを選択したと思い込ませる。
たとえ罠だとバレたとしても狼は追わざるを得ないだろう。
零の思惑通り狼は追ってきた。
(ここだッ!!)
狼が背中に飛びかかる瞬間を見計らい、零は振り返ってカウンターを入れる。
狙いはもちろん仮面だ。
たとえ仮面をうまく破壊できても傷だらけの零と無傷の男では、まだ相手が圧倒的に有利だ。
それでも状況は変わる。相手は慎重なやつだ。
もしかしたら、そこで退いてくれるかもしれない。
零の気力を振り絞ったパンチ、最後の賭け。
だがそれは呆気なく阻まれてしまう。
零の拳は狼の腕に掴まれていた。
「なッ!?」
眼前の光景に零は驚愕した。
目の前にいたのは巨大な黒い影。
顔は狼だが体は人間と狼が合わさったような恐ろしい風貌。
前足は筋肉質な腕に変わり、爪はより鋭くなっている。
四足歩行から二足歩行に切り替わり、零を見下ろしている。
狼男。目の前にいる化け物は、映画や小説に出てくる有名な怪物そっくりな姿だった。
「この姿の俺は多少スピードが落ちるが、パワーはさっきより数段上だ」
もはや、策や駆け引きでどうにかなる状況ではなかった。
圧倒的な力の前に零の意識は刈り取られた。




