4話 何もない世界
アタッシュケースの中身を確認した後、四人は憩いの館から隣にある本の館に移動した。
外の遊具や工房の館はまだ大勢の児童で賑わっているが、本の館は人がまばらで閑散としていた。
「チカラさん、なんでここに来たんですか?」
「ん? ああ、そうだな。まぁ一番の理由は……」
そこまで言って鳴海は沙也加のほうをチラリと見る。
零もそちらに視線を送った。
視線の先では目をキラキラさせた沙也加が近くの本棚を見つめていた。
「沙也加、お前は本を読んでいていいぞ」
「いいの!?」
「ああ。仮面を持ってきてくれてありがとな。終わったらまた呼ぶから」
「うん! わかった!」
沙也加は嬉しそうに返事をすると、目当ての本を探しに奥のほうへと消えていった。
「これが一番の理由だ。沙也加は本が好きなんだ」
「そ、そうですか。特訓には関係ないんですね」
「いや、ある。今日やる特訓はかなり絵面が地味でな。沙也加が退屈しないようにここを選んだ」
「やっぱり沙也加ちゃんのためなんですね……」
「リキさん、小さい子には優しいもんねー」
「俺はいつでも誰にでも優しいだろうが。とにかく俺たちは特訓を始めるぞ。零、お前はとりあえずそこのソファに座れ」
零は鳴海の指示に従い、ソファに腰かける。
布張りで温かみのある優しい肌触りのソファだが、思っていたより硬く反発力が高いため、座り心地はそれほど良いものではなかった。
「仮面能力者が発現させる仮面を俺たちは『心魂の仮面』、もしくは『気魂の仮面』と呼んでいる」
鳴海は先ほど沙也加から受け取ったアタッシュケースから仮面を取り出した。
沙也加が持ってきた仮面は全体が白で模様などは一切なく、のっぺらぼうのような仮面だった。
鳴海はのっぺらぼうの仮面を零に見せながら説明を続けた。
「だがこの仮面は違う。この仮面と仮面能力者が使う仮面の違いはわかるか?」
「仮面能力者の仮面は自分の心を形にしたもの……。でもこの仮面は違いますよね?」
零は少し考えた後にそう返した。
「そうだ。これは『心魂の仮面』じゃねぇ。現実世界にある物で作られた普通の仮面だ」
「でもこの仮面、普通の仮面とも何か違うような……?」
何が違うかは零にもうまく説明できない。理由はわからないがこの仮面は普通ではない。それだけは、はっきりと断言できる。
「ああ。お前の言うように確かにこの仮面はただの仮面とも違う。実はな、現実にある仮面の中にも特殊な力が宿っている仮面があるんだ。この仮面にもある力が宿っている。特訓にはそのある力を利用させてもらう」
「ある力って何ですか?」
「この仮面をつけてみればわかる」
鳴海に促されて零は仮面に手をのばした。
「待て」
だが仮面に触れる前に鳴海に止められてしまった。
「やっぱり俺がつけてやったほうがいいな。お前はできるだけ体の力を抜いてリラックスした状態でいろ。ソファももっと深く座れ」
零はよくわからないまま言われたようにソファの背もたれに寄りかかった。
手を膝の上に置き全身から力を抜いて待機した。
「よし。じゃあ仮面をつけるが……つけた後もお前は何もしなくていい。とにかく心を落ち着けて平静を保て。いいな?」
鳴海の言った『平静を保て』という部分がひっかかり、零は不安に駆られ始めた。
生まれてしまった不安、それを生唾と一緒に強引に飲み込むと零は覚悟を決めた。
「はい……。わかりました」
(チカラさんに仮面をつけてもらう、ただそれだけ。何もしなくていい)
心を落ち着けるために、これからやることを頭の中で確認、そして反復する。
そんな零の思惑とは裏腹に、近づいてくる仮面に零の鼓動は早まっていってしまう。
仮面で顔が完全に覆われた瞬間。すぐに零は異変を感じ取った。
仮面をつけてから何も見えない。仮面で視界が塞がれたとか暗くてよく見えないとかそういうレベルではない。
音も消えた。周囲の雑音は何一つ耳に入ってこない。
匂いも消えた。本の館に入ってから感じた、古くなった本の匂いも目の前にいるはずの鳴海から香っていたコーヒーの匂いも感じない。
そして一番、深刻だったのが――。
(体の感覚がない。手も足も何も感じない。)
手を動かそうとしても感覚がないから動かせているかわからない。
声を出してみたが口を動かせたかどうかすらわからない。
自分が立っているのか座っているのか。
仮面をつける前は座っていたはずだが今となってはそれすら怪しい。
鳴海は何もしなくていいと言ったがそれは間違いだ。
これでは何かしたくても何もできない。
自分の力で仮面をはずすことすらままならない。
唯一の救いは心が消えていないこと。それ以外は全て消えてしまったが。
(でもなんとなくわかったかも。この感覚がなくなる仮面をつける意味……)
そこまで考えて変化があった。
突然全ての感覚が戻ったのだ。理由はすぐに分かった。
「どうだ。この仮面をつけた感想は?」
鳴海の声が聞こえた。
感覚が戻ったのはやはり鳴海が仮面を外してくれたからだった。
「……この部屋、こんなにうるさかったですか?」
「ハハッ。わかるぜ。普段は周りの音なんてあんまり意識しちゃいねぇからな。この仮面をつけた後だとうるさく感じるよな」
「僕はどのくらいこの仮面をつけていましたか?」
「一分も経ってねぇよ。もっと長く感じたか? それとも短く感じたか?」
「……よくわかりません。時間の感覚もおかしくなっていました。あの何もない世界では」
「そうか。でも感じられるものもあったろ?」
「はい。自分の心はなくなりませんでした」
「そう。心だ。だがもう一つ感じられるものがある。それが――」
「生命の波動ってことですよね? 悔しいですけどそれはまだ僕には感じ取れませんでしたが」
「そこまでわかっているなら上出来だ。すべての感覚が奪われるあの世界でも生命の波動、生命エネルギーは感じ取ることができる。目の見えない人間はそれを補うために聴覚、嗅覚、触覚といった他の感覚が鋭くなることがある。この仮面をつける理由、それは他の感覚を封じることで生命の波動を感知しやすくするためだ。これで今日の特訓内容はわかったな?」
「はい。仮面をつけてあの何も感じない世界で生命の波動を感じ取る。ですよね?」
「そうだ。そして合格の条件は自分の力で仮面を外すことだ。じゃあ早速もう一回やるか?」
「はい。お願いします」
「しかしお前、意外と肝が据わってるな。いきなり感覚を全て奪われるのは相当キツイ。普通はあの仮面をつけるともっと取り乱すものなんだがな。お前はあんまり暴れなかったな」
「それはたぶん前に少し似たようなことがあったからだと思います」
奇術師と出会った日。
零は恐怖で自分の体の感覚が遠くなっていく感覚を味わった。
だがあの時と違い今回は全ての感覚が完全になくなっている。
今回のほうが状況としては悪いはずだ。
(でも、それでも心がある。心が死んでいたあの時に比べれば今回のほうがマシだ)
「チカラさん、今度は自分でその仮面をつけていいですか?」
気合いを入れ直し、今一度、特訓に臨む。
「構わねぇが落として壊すなよ。値段のつけられねぇ代物だ」
「……やっぱりつけてもらっていいですか?」
「そういうところは弱気なんだな」
鳴海は笑って零に再び仮面をつけた。
(最初の特訓でつまずいているわけにはいかない。今度こそっ!)
生命の波動の感知のための特訓、二回目の挑戦が始まった。