24話 別人
小さな獲物が意識を失うと凶蝕者は収まりきらない衝動を次の獲物へと向けた。
次の獲物は逃げる力すら失った少女。凶蝕者に慈悲の心などあるはずもない。相手が女子供であろうと、どれだけ苦しみ、泣き叫ぼうと凶蝕者には関係ない。
人であった時の心など、とうに失い、全て別のもので塗りつぶされた。
残っているのは、破壊と殺戮衝動の二つのみ。自身の肉体が朽ち果てるか全てを破壊し尽くすまで、それが収まることは決してない。
標的を美咲に変えた凶蝕者はゆっくりと彼女に迫る。
凶蝕者は足を引きずる彼女を容赦なく掴んで持ち上げた。その巨大な掌で美咲を握りつぶすつもりだ。
必死に抵抗するが今の美咲には為す術がない。
いくら頑丈な仮面能力者でも空き缶のように潰されれば死は免れない。
強い心を持った彼女でも、全身から聞こえ始める嫌な音と苦痛には耐えきれず声を上げる。
耳を塞ぎたくなるような少女の絶叫が響き渡る、その時だった。
突如として高速で接近した影が凶蝕者に衝突した。
横から来た強い衝撃で凶蝕者は美咲を手放した。
袋小路の苦痛から少女を解放した影は、宙に投げ出された彼女をキャッチして、緩やかに地面に着地する。
「危なかったッスね。先輩」
「御幸……くんなの?」
「そッスよ。倉科先輩の後輩の御幸ッス」
美咲が確認するのも無理はない。自分の目の前にいる零は、口調も雰囲気もそれまでの彼とは大きく異なっていたのだから。
「その仮面は……?」
零の仮面はさっきまでの不完全な仮面ではなく完全な仮面だった。
だがその仮面を見た美咲には違和感があった。
二割程度しかできていなかったとはいえ、さっきの仮面と形状が違いすぎる。
仮面の色もまったく違う。混じりけのない白だったのが今は空のように深い青だ。
そして仮面以上に気になるのが零の発する波動である。
仮面の発現前後で波動に変化があるのは珍しいことではないが、零から発せられる波動は違いすぎる。
通常時の零とも半覚醒時の零とも違う。
ここまで違うとはっきり言って同じ人間とは思えない。波動だけなら完全に別人だ。
だが目の前にいるのは間違いなく零の姿をした人物だった。
痛みと疲労で頭がクラクラしている今の美咲では、疑問の答えを導き出せない。
「申し訳ないッスけど話は後で」
そう言うと零は凶蝕者のほうに目を向けた。凶蝕者は自分を吹っ飛ばした零への怒りが収まらないのか、荒々しく向かってきた。
「やっぱ仮面を破壊しないとだめか~。ま、零が頑張ってヒビ入れてくれたし、あと一回か二回叩きこめばいけそうッスね」
「零?」
美咲は混乱した。目の前の少年は自分の名、そして自分のやったことをまるで他人のしたことのように語った。
「じゃあそろそろ行くッスよ」
零は美咲の目の前から一瞬で姿を消した。美咲が消えたと思った時には、彼は凶蝕者の懐に潜り込んでいた。
目にも止まらないほどの速さに美咲は驚愕した。
零はそのまま凶蝕者の腹に勢いよく殴りつける。
凶蝕者はわずかにひるんだが、すぐに立て直すと腕を零に向かって振り下ろした。
「遅いッスよ」
零はまた消え、凶蝕者はそのまま何もない地面を叩いた。
「こっちッス」
零は凶蝕者の後ろをとっていた。今度は美咲も見逃さなかった。
とてつもない速さで移動している。
仮面のない今の美咲には目で追うのがやっとだった。
凶蝕者は振り向く前に背中に蹴りを入れられ正面に倒れた。
変わったのは仮面や波動だけではない。動きがさっきまでの零とは別次元だった。
「そういえばさっきは人の体、サッカーボールみたいに蹴り飛ばしてくれたッスよね」
今度は地面にうつ伏せになっている凶蝕者の頭部に移動していた。
「次はお前の頭がボールな」
零は起き上がろうとして顔を上げた凶蝕者の顔面を思いきり蹴り飛ばした。
その衝撃で仮面は破壊され、数メートル飛んだ先で地に着く前に全て塵となって消え果てた。
「でかすぎて思ったほど飛ばなかったッスね。消化不良なんで次は飼い主に飛んでもらいますか」
凶蝕者をあっさり片付けた零は、奇術師のほうを向いて彼を挑発した。
「…………」
「さっきまでと違ってやけに静かッスね」
「さっきと違うのは君のほうでは? ずいぶんと雰囲気が変わりましたがそれが本当の君ですか? さっきまでのは演技だったのでしょうか? いいえ違いますよね。演技をしていたわけではない。私に向かってきた無謀な少年。彼の心は確かに本物でした。仮に演技だったとしても生命の波動まで偽ることはできない。……君は誰ですか?」
「…………」
零は答えなかった。
「答えたくない……ですか。まあ大方予想はつきます。にわかには信じがたいですが。少年、君は二重人格ですね?」
「二重人格!?」
美咲は驚きを隠せなかった。信じ難い話ではあるが、零の豹変ぶりを見てしまうと否定はできない。
「仮面は精神、心の具現化であり発現する仮面は一人一つが原則。心が二つある人間はいませんからね。だがもし、人格が変わるほどの変化が起こったのなら仮面に影響がでてもおかしくない。仮面の形状が形成途中だった先ほどのものと比べて、大きく違うのはそれが理由です。生命の波動もおそらく同様の理由で変化したのでしょう」
「あらら、バレちゃったッスね。ま、いっか」
「御幸くん、本当なの!?」
「本当ッスよ。確かに俺は零の別人格、ちなみに名前は信五っていいます。よろしくッス、倉科先輩」
「よ、よろしくっす……」
美咲は頭の中を整理できないまま、彼の語尾に合わせて挨拶を返した。
「ずいぶんとあっさり認めましたね」
「まあ、零の周りの連中にバレなきゃ特に問題ないッスから。ということで俺たちの平穏のためにもこのことは他言無用でお願いしますよ。倉科先輩」
「それはいいけど……御幸くん、君は本当に……」
二重人格、それだけでも驚くべきことだが一人の人間が二つの仮面を発現させる、前例のない事態に美咲は戸惑いを隠せなかった。




