妖怪トラウマデトックス
ある日私のネグラに転がり込んできた女は初めから怪しかった。寒い夜に宿に泊まる金も無いと言う割に生理学の厚い洋書を大事そうに抱えていたし、眠り込んだ私の腕や脚をつついて稀にヒヒヒと笑い声を漏らした。
ある夜気づくと、彼女は私の胸に巨大なガラスの破片を突きつけていているように見えて、しかしそうではなく、私の胸から巨大なガラスの破片を取り出したところであった。
私が叫び声を上げたのに驚いて彼女も叫び声を上げたので警察が来たが、彼女が事情を説明することなく必死に追い返すので、私もそれに抗わず何も説明せずに何も問題はありませんごめんなさいと謝って帰ってもらった。
安心した彼女がガラス片をよく見るように促すのでじっと覗き込むと、小さい時に人前でして今は忘れていた大失敗が映っていた。思い出すのも耐えられないほど嫌な思い出だったのに、そんなこともあったなあとしか感じずにその光景を思い出せたことが意外だった。
「君のトラウマ。いや、君のトラウマ『だった』ものだ」と彼女は言った。
こんな大きな異物が私の身体の中に刺さっていたのかと私は驚いた。
すると彼女は、同じようなものを20個近く私から取り出して「まだまだあるぞ」と言った。
腕から取り出された長い金属片はバネのような形をしていて、筋肉を引き裂かずにそれを取り出した彼女の手つきは見事だった。
「こんな状態でなお生きていられるだなんて君はまるで生命の神秘だ」と彼女は笑った。
一体どんな哲学を用いてこんな耐えられないはずの心の傷に耐えてきたのかね、と彼女は尋ねた。
そしてさらに何十もの破片を身体から取り出したから、部屋はゴミ袋で一杯になった。
問い詰めると彼女には十分な生活費もあって医学部で勉強していると告白したが、よく調べてみたら勉強しているどころか広く知られた研究者だった。外科医療にインド哲学を応用して多大な成果を上げているらしいから大したものだなと褒め称えると、厚生労働省の権威体系に矛盾する研究の発表は教授が許さないからひどく妥協した論説ですら墜落寸前の低空飛行だと彼女は嘆いた。
「私が研究したかったのはあんな初歩的な茶番ではなくて……」と言って手を止めた彼女の目からは涙が零れた。抜き取ろうとしていた合板が肉を吊って私が痛みに悲鳴を上げて、やっと彼女は気を取り戻し、震えの止まった美しい手つきでその合板を抜き去った。
「あなたの身体は面白い」と言って彼女は子供のように笑って、だから私はほしいままに異物を抜き出させつづけた。
もちろん、絶望によって死の直前にあった私の心は、彼女が異物を取り除くほどに軽くなったから、彼女は疑いもなく私の命の恩人であった。
毎日呪っていた世界の側は何一つ変わらないのに、彼女が近くにいてくれてトラウマの全てを除き去ってくれるから、まるで地獄から天国というように世界は一変して感じられた。
私のメンタルが弱いのだろうか、毎日私の心はまたボロボロになって、仕事が終わって帰宅するたび、彼女は私の顎から数本の針を抜き出し、複雑に枝分かれした凶暴な金属片を脳から抜き取った。
あなたの心をデトックスすることは広大なこの世界で実に私にしか解けないパズルだから、失礼かもしれないけど私にとってあなたは最高のオモチャです、と彼女は言った。
その言葉をどう受け止めるべきか私には分からなかったけど、この世界にまさかこんな人がいただなんて全く知らなかったし、彼女と過ごす今が私には幸せだったから、私は心から、「ありがとう」と言った。