7、傷なき痛み分け
四年前ーー。
まだ、コンラッドが家を造るまで至っていない頃。つまり初めの一年間、色々あって彼は魔王城の一室で暮らしていた。
魔王とひとつ屋根の下…それも『前回』自分を殺した相手となど、どう考えても正気の沙汰ではない。ーーのだが、なんの備えもなく野宿して、野生動物の餌食なるよりは好待遇だと妥協した。
ていうか、させられた。
だが、まさかその環境に順応できる程、コンラッドは呑気な性格をしておらず。神経は常に張り詰め、焦りと疲労が溜まって抜けない日々。
流れのまま城にいることになる前に、どうにか自立したい。そう根を詰めて過ごしていた、ある夜。
「ーーチェスでもしないかい」
唐突に部屋を訪ねてきた城の主は、開口一番そう言った。
「…チェス?」
美術を通して歴史的建造物に興味を持ってから、なんとなく漁った建築関係の知識。
地球にいた頃のそれを頼りに蝋燭を灯し、素人ながら洋紙に図面を引いていたコンラッドは、そんな魔王の訪問に隈の濃い目元を更にどんよりさせた。
「忙しいんだけど…」
「うん知ってる」
「………」
笑顔で言い返され、それ以上続かない。
無言の下、迷惑極まりないと訴えるコンラッドを無視して入室し、お構いなしで図面の上にチェス盤を広げるイルミナートに、折れるしかないと息をついた。
イルミナート・テルミニ。自由奔放で残虐。強引かつ『傲慢』な、魔王の中でも異質な存在。
そんな奴に、どんな異論を唱えようと無駄だ。この城に来てから、そのことは身に染みてわかっている。
ーーただ。
隠れて、震える腕を力一杯押える。体は正直、なんてよく言ったものだ。
「はい」
目の前に、湯気のたつ紅茶が入ったカップが置かれる。
瞬いてイルミナートを見やれば、彼は白と黒の駒を盤上に並べているところで。その傍らでは、空中に浮いたカップとお揃いのティーポットが、もう一人分の紅茶を注いでいた。
…何も訊くまい。
「夜中だし、本当は雰囲気的に、ワインの方がよかったんだけどね」
「好きにすりゃあいいだろ」
視線を合わせず呟けば、微かに肩を竦める気配がした。
「キミ、未成年じゃん」
この世界での成人は十五歳。煙草に制限はないが、飲酒は成人してからでなければ口にしてはいけない。元日本人からすると、何ともおかしな話だが…。
「…魔王なのに、そんなの気にするんだ」
「キミが気にしているかと思って」
「別に、あんまり」
「あれ。なんだ、そうかい」
たいして興味もないのだろう。言いながら、注ぎ終わったカップを掴み、僅かに傾けたイルミナートの意図に、コンラッドはいっそ心の底から呆れた。
重く感じる腕をもたげ、カップを取る。そうして、微妙に目が合わないままに、同じものを軽くぶつけ合あった。
陶器同士の、高い小さな音。それが、あんまりに貧弱な開戦の合図だった。
どれ程の時間が経ったのかは、時計のないこの部屋においてわからない。ただ、長かった蝋燭は三分の一に減っていた。
そして。
「ーー引き分け狙いか」
駒の動きを読んだイルミナートが、不意につまらなそうに呟いた。
「最初から考えてたでしょう」
黒の駒を移動しながら、魔王は呆れ顔でコンラッドを見る。
彼は、明らかに動きを変えた相手の駒に、小さく舌を打った。
「…だったら?」
勝負を持ち込まれた時から、コンラッドはずっと『勝つこと』ではなく『引き分け』を目論んでいた。なにせ相手は道楽に生きる魔王。負けたら何を要求されるか想像したくもない。もし勝っても、良いことはなさそうだ。
大体、二、三手進めたところで、実力に雲泥の差があるとはっきり判った。
勝てど負けども利にならないなら、どうにか引き分けるしかないだろう。
コツ、と白のビジョップが盤を斜めに横断する。途中、二手後に王手をかけるはずだった黒のルークを仕留め、そこに居座る。
しかし間髪入れず、真横からクイーンがビジョップを弾いた。
「ーー 羊 」
「は?」
聞こえた単語に顔を上げれば、初めてイルミナートと視線が絡み合った。
今まで合わせないようにしていたそれと。よりによって真正面から、しかも冷めて鋭くなったものと。
怯みかけたコンラッドは、続いた言葉に目を見開いた。
「気弱、臆病者って言ったんだよ。何つまらない試合してくれてるの?」
普段、頼んでもいないのにへらへらと笑っている魔王は、今無表情だった。
「……、」
そして、恐らく。
コンラッドも、一切感情が失せた顔になった。
盤上の駒が静かに動く。瞬間、先に双眸を荒く光らせたのはーーコンラッド。
「黙って聞いていれば、好き放題言ってくれるな…えぇ?」
白のポーンの斜め前に、黒のナイトが進み出て来る。
だが、ナイトは無視し、ポーンは更に前進した。
「誰の気紛れに付き合って、チ ェ スしてると…思ってんだよ!」
苛立ち交じりで叫び、奪った駒からひとつを掴んで入れ替える。
盤の端、つまり 黒 の陣の奥に侵入したポーンは、その機能を大きく変えられる。
昇格ーー兵隊から、女王へ。
同時に、その軌道上には。
「!」
「チェック」
黒の王ーー。
イルミナートが瞬いて、無表情をふと崩す。
「…へえ」
意外そうにコンラッドを一瞥し、それからキングの駒を爪でつついた。
脳内で瞬時に行われる予測。ここから数手先に待つであろう結果に行きついて、彼は唇を三日月に歪めた。
「なるほど……本命は 千 日 手 かい。どちらにせよ、姑息だねぇ」
「魔王相手なんだ。それくらいじゃないと釣り合わない。言いたいだけ言え」
つい先程声を荒げたのは挑発に乗ったフリか、はたまた今それを誤魔化しているのか。
どちらにせよ、いい加減疲れたとばかりに頬杖をつくコンラッドを、イルミナートは気づかれない程度に一瞬睨んだ。
本当に、なんて釣り合わないのか。
生まれてこのかた、チェスでは一度も負けたことがない自分が、まさか。まんまと。こんなひよっこに引き分けを強要されるなど。
しかも、初めからこれが目的でした、などと。
これだけの技量があるくせに、なんとも臆病で幼稚な選択をしたものだ。リスクを負わずして勝てるものはなく、逆行する意志がなくて得るものは皆無。わかっているだろうに。
ーー何も、このチェスに限ったことではないが。
「…はあ、」
ついには突っ伏したコンラッドに、魔王はやれやれと明後日を見た。
自分はまだ、鬼ごっこをしてやるとは、言ってないのに。
「ーーChi non risica non rosica.」
長く口にしなかった、懐かしさも薄れた言葉。
それを、どこかぎこちなく唱えて、イルミナートは半分意識のない、脆弱な臆病者に囁いた。恐らく、名前を呼んだのは、この時が初めてだろう。
「ねぇ、コンラッド・ルカーチェス。もし…いつかキミが、真正面から挑んできたら」
初めから全力で、魔 王に『 王 手 』を求めたなら。
「その時は、本当に 千 日 手 でもいいよ…」
果たして聞こえていたかは、知らないが。
蝋燭が溶けきって、火が消える。
イルミナートは最後に、白と黒両方の王を盤の中心に転がして横たえ、音もなく席を立った。
後に残ったのは、広げっぱなしのチェス盤と。
「ーー…やなこった」
暗闇に落とされた、くぐもり声だけだったーー。
「……………」
目を見開いて、視界にうつったのが木目だと理解するまで、何分かかっただろう。
やがて耳が機能し出し、身体が自分の意思で動かせると思い出して初めて。
ーーその場に、勢い良く起き上がった。
《ひゃあ!》
「え」
間近で聞こえた悲鳴にぎこちなく首を動かせば、灰色のボーダーコリーが固まっていた。
「…マ、ロ?」
我ながら、なんとも情けない声で愛犬を呼べば、彼女は耳をピンと立てて困惑した風に「クー」と鳴く。
《大きな音がしたから来てみれば…。どうしたんです。こんなところで横たわって》
びっくりしましたよ。
そう言われ、改めてここがどこかを確認する。
間違いない。見慣れた廊下、ーー自宅の裏口の前だ。
「あれ……なんで、」
俺、生きてんの?
口元がひくりと痙攣する。ーー夢? いいや、あれは現実だ。
確かに腕を離され、『落とされた』。あんな高さから落ちて、無事でいられる訳がない。
ではどうして、などと考えるだけ無駄だ。
ーー自分は、生かされた。
「…はは、冗談…きつ……」
ふらりと。今やっと起き上がったというのに、眩暈に勝てずまた倒れ込む。
愛犬の焦ったような声がするが、応じる気力がない。
「忠告…か」
逆らうな。抗うな。つまり、そういうことだ。
これから戦場になるこの狭い島で、巻き添えを喰らわない確率は著しく低い。ただの村人である身で、生き残れる可能性に至っては更に下回る。
いつ死んでもおかしくない。だから、もう諦めろ。下手に生存しようとするな。
そういうことだ。
チャンスはあった。
イルミナートの提案に頷いていれば、良かったのだ。黙って手を取っていれば。
ーー今なら、ボクがキミを庇護してあげられるよ
「…本当に、あの時見限られたんだ」
目元に片腕を乗せ、そのまま閉口する。
何を、わかりきったことを。承知の上だっただろう。
あちらにとっては、替えの利く、いつだって切り捨てられる程度の存在。
そもそも魔王と友好的にするなんか、不可能だ。常識が違う、歪な関係にしかならない。だから、一線を引いていた。踏み込まなかった。
大体の前提として、自分は一度奴に殺されたのだから、好意的になれるはずが…。
はずが、ないのに。
ーーばいばい。ボクの…
「なにが、『友達』だ…くそ」
何故こんなにも、込み上げてくる悔しさが、喉を熱く焼くのだろうか。