4、過ぎ去りし日々
たぶん、誰でもよかった。
その日、その時、その世界に執着という感情を持っていなかった者で、『彼女』の声が偶然聞こえた生命体なら、誰でも。
高層建築物から身投げしようとしている者も、電車の前に飛び出したばかりの者も、薬物を大量に摂取した後の者も、単に日々に飽き飽きしながらアスファルトを靴底で踏んでいる者も。
その瞬間、地球上には幾らでもいたはずだ。
眼前の絶望だけ見て、曖昧な未来とささやかな希望に興味の失せた生物など……幾らでも。
ただ、単純に。
くじ引きで適当に掴まれた紙切れが、『自分』だっただけ。
誰でもいい、誰でも構わない。果ては、こちらが応じても無視しても、一向に『関係ない』『どうでもいい』、一方的な神託。
それが、今から二十三年前、花村臨の身に起こった出来事。
* * *
「初めまして。地球の御住民様」
確か、初めて会った時、唐突に目の前に現れた人型のそれは、優雅に西洋貴族のような礼をしながら、そう口にした気がする。
薄桃の身丈より長い髪を揺らし、何色にもよく染まって見える白銀の双眸を細め。三対の紅い、羽にも見える光を背にした、十歳程の美少女。
「わたくしは【 聖域 】六翼神が一柱、女神サ」
ついでに続いた、恐らく自己紹介前の口上を遮った言葉は。
「ああ、そんなイマドキの中二病も一瞬で冷静になって引くような設定説明はいいよ」
なんて羅列だと記憶している。
というか、きょとんと目を丸くした少女なんか、その時の臨の眼中にはなかった。
絶望、絶望、絶望。
その、目視できない、実に曖昧で個人的な単語を具現化した現状しか、臨には見えていなかった。
厚い硝子越しの一室。もう、機械と融合したようとしか表現のない、ベッド上に横たわった一人の女性。
あらゆる電子機器に繋がる無数のコードの集合先。
いっそ、それらすべてを動かしている大本の主電源みたく、中心で微動だにせず『そこにある』肢体を、それだけを。臨は見つめ続けていた。
「……お前、死神とか言ったら、殴るぞ」
数分、もしかしたら数十分の沈黙の後に、僅かばかりも眼球を動かさず言った臨に、少女はにこりと笑った。
「死神などではありません。先程、説明致しました通り、わたくしはただの女神です」
「はっ、女神ね」
鼻で笑い、臨は無気力な目をする。
この自称女神様が現れる直前、耳鳴りのような現象と共に聞こえた問い。
『この世界に嫌気が差してませんか?』
臨は笑ってしまった。何を、当たり前のことを。
ーーそんなもんじゃねぇよ。寧ろ、惑星ごとなくなって欲しいね…
つい、そう口に出して呟いて、臨は硝子の向こうを睨んだ。日頃常に思っていたことだが、今日心底強く、願うか呪うかのように言葉にした。
直後。
彼女は隣に現れていた。驚くことはなかった。感情は、さっき、一足先に死んでいる。
「で、女神様は何しに来たの? この世界を壊しに来た感じじゃないから、俺個人的には興味ゼロなんだけど?」
嘲笑う気配すら漂わせる臨の声に、しかし彼女はまったく気にした風もなく応じる。
「貴方を、此処ではない世界にお連れしようかと」
人間、何もかもに無関心になると、本当に突飛もない妄想話すら受け入れるんだな。
そう心のどこかで臨は思った。
「理由は」
「ありません」
即答だった。
「理由などありません。強いて言うならば、貴方がわたくしの声に一番早く答えたからです。この地球で、一番初めに、貴方がわたくしを認識したからです」
この世界を嫌い、他の世界に憧れ、現実から逃避し、在りもしないとわかっていながら惨めに空想に縋っている者なら。貴方じゃなくてもいい。
他意も悪意もなく。
言い切った少女を、臨は初めて視界にいれた。
「人柱でも募集してんのか、お前の世界」
「いいえ。求めているのは救世主です」
「それを人柱って言うんだろうが」
元の世界に執着心がないような人間に任せたい救世主とは……また随分、遠回しかつなんて陰険な人材募集だろうか。さしずめ、自分の世界の人間を犠牲にしたくないから、他のところから代わりを探しているといった魂胆の見える要求。
なるほど。普通なら、絶対に頷かない。
「何か勘違いなされているようですが、救世主とは言葉のままですよ」
「は?」
少女は人差し指を立てた。
「貴方が居たくないこの世界から、文字通りの『逃避』を御提供致します。代わりに、わたくしらの世界を救ってくださいませ」
やはり微塵も悪意のない声音で、釣り合いの取れない要求を、女神とやらは笑顔で言った。
この時、臨は何と答えたのだったろう。
ただ、それに対する返答ではなく、まったく別のことを考えていたのは確かだ。『これを利用しよう』、なんて悪知恵を働かせていた。
そして。彼はそれを条件にすることに成功した。
「では、よろしいですね?」
『すべて』終えてから、少女の伸ばした手を取ってこの世界に来たのは、それから数時間後。
地球から人知れず人間が一人消え、後に異世界で勇者と呼ばれる者が現れた日である。
何一つ面白くない、くだらなくて安っぽい。無価値な物語のきっかけ。
そして、サララ・マエスタスという女神と、臨の出会い。その経緯。
* * *
井戸の縁に座り、空を見上げながら、コンラッドはぼうっとしていた。
ああ、遠い昔の記憶のようだ。
いや実際二十年も前の話だから、そういえばそうなのだが。
「……地球じゃ、何年経ってるんだろ」
呟いてから、ああさっき他人ンち壊してくれた馬鹿三人に訊けば良かったなぁ、なんて考える。
「この世界の奴から『地球』なんて言葉出たら、さぞ驚くだろうな」
たぶんコンラッドも驚く。
井戸の底に視線を落として、まだ冷たい自分の腕を何となく触る。
元居た世界に戻りたいですか?
なんて馬鹿馬鹿しい問い、臨でもコンラッドでも、きっと同じ答えだ。
「『あいつ』の居ない世界なんか、クソ食らえ」
地球に戻りたかった訳ではない。ただ、すべて終わった後でなら、ものの見方が何か変わるかと期待があっただけで。
余計も、『戻ってあの世界で生きたかったか』については別問題で。
ただ。可能なら、確認したくて堪らなかった。
あの世界で、最後にしてきた自己満足の行為。その結果がどうなっているかを…。
まあ今となっては、些細なことだが。
「…過ぎた時間は戻らない。戻せない。生と死は絶対、か」
どの世界でも共通の理。
捻じ曲げてはいけない不可避の運命。
誰も干渉を赦さないそれを、サララは侵した。
たった一人の、異世界人のために。
「ふむ、矛盾だなぁ」
ーーずっと。この世界に来てから、考えていたことがある。
それを突き詰めるため、わざわざ関わりたくもない魔王とも繋がりを持った。
すべては『花村臨』が生前しようとしていたことを、『コンラッド・ルカーチェス』が引き継ぎ、実現・実行するために。
先程、マイロらを散々に言ってはいたが、結局人間思うことは同じだ。
他人なんて知ったことか。自分にさえ都合が良ければ、万事良し。
つまるところ、二十三年前、次々に魔王を下していた勇者にも、世界を救うつもりはさらさらなかった。
見つめる井戸の底は暗い。暗くて、ここからだと、まるで底無しの穴みたいに感じる。
ふと、とある偉人の遺した言葉を思い出した。
ーー『お前が深淵をのぞく時、深淵もまたお前をのぞいているのだ』
「…俺と同じ地球から、人間が二十年越しに送られてきた」
それも六人。
「六人……六人ねぇ」
前回、臨が打ち倒したとされる魔王の人数も、六人だ。事実はともかく、そう噂は流れていた。
この時点で、実は幾つかある仮説の裏付けが可能になる。
だが、まだ足りない。というよりも、根本的に、大前提として。
「俺、村人なんだよなぁ…」
すべての仮説に、確信と定義と根拠を持たせても、行動に移すための労力と戦意が不足している。
全盛期じゃないんだ。魔力諸々、寧ろマイナスに振っている。
二次元ファンタジーの主人公気取りで魔王討伐チート合戦をするか。
農夫としてスローライフ時々魔王出没、を取るか。
そりゃあ、もう考えるまでもない。考えるまでもーー。
「……………、いや…いや長考するわ、その二択」
何でずっと視界に魔王がちらつくんだ。魔王から離れた第三の選択を誰かくれ。
選んだのは自分だ、という突っ込みだけは、あえてしない。
「……」
実行するなら、タイミングは今だ。
この世界の表面も知らない、新しい勢力である六人が、かつての臨みたく『後戻り』できなくなる前に、動く必要がある。
だが、その手段がない。
正確には、コンラッドにはない。
協力者が必要だ。だが、現状思い浮かぶ数人の候補は、皆、花村臨の関係者だ。
或いは、サララが健在であれば幾らか手は打てたろうが、やはり『詰んで』いる。
「はあー。『人生を危険にさらせ』たあ、よく言ったもんだ」
いい加減に、井戸の縁から地面に足をつけ、コンラッドは息をついた。
「……夢見てばかりじゃあ、生きていけねぇってのに」
太陽は少し雲に隠れていて、程良く風もある。畑を耕す続きにはもってこいの気象だ。
あまり長く不在にしては、愛犬と愛馬が心配して、戻った時に質問攻めが始まってしまう。
やれやれと肩をほぐしながら、裏口の取っ手を回して家中に入る。
勇者だとはっきり言い切った少年の顔を浮かべ、自虐だななんて吐き捨てた。
自分は、今は所詮村人なんだと、言い聞かせて。
コンラッドは、扉の鍵を閉めた。