第二話
昼休み。
喧噪が廊下に溢れる。各教室からは、多数の生徒が廊下を歩くアツキを眺め、ひそひそとした声もあちこちから聞こえる。
そんな中を、アツキと真癒は歩いていた。学園のおよそ八割は、真癒がもう案内し終わって、今はクラスに戻っている最中だ。
昼休みはあと数十分を残すだけとなっているにも関わらず、アツキ達への好奇の視線は途切れることはない。
実際に、歩いているのはアツキだけではないのだが──しかし、その多くの視線はアツキに照射されていると言っても過言ではなかった。
「……なんか凄い見られてるな」
「みんな、一霧君のことが気になるんですよ」
ボソッと呟くにアツキに、隣で歩く真癒は微笑んで言った。
「異世界から来たことに加えて、遥か昔に滅びた男性という種。話題は尽きないです」
「まあ、それはわかるけど……」
それでも慣れないものは慣れない。
「……でも、本当に良かったのか? 昼休みを俺の案内なんかで潰して?」
「私が自分でやりたいって思った事ことですから……それに、一霧君は私に対してそんなこと気にしないでください!」
「うん、まあ、それなら良いけど」
「たとえ、私が敵にやられても気にしないで逃げてください」
「いや、それは気にするだろ!」
というか、どんな状況だ。
アツキの声に、真癒は嬉しそうな──困ったような表情を浮かべる。
「えっ! き、気にしてくれるんですか! それは、その、嬉しいですけど……一霧君は逃げてくれないと困っちゃいます」
「……困っちゃうんですか」
「はい、困っちゃいます。そんな行動は被害を大きくするだけですから……そんなことは間違っても、明日言っちゃダメですよ」
「明日?」
「もう忘れたんですか? 明日、神力の実践演習があるって、二階堂先生がおっしゃってましたよ」
「えーっと……」
確かにそんな言葉は聞いたような気がするが──何せ、そんなことを言われても、アツキには一片たりとも理解はできない。
アツキの心情を察したのか、真癒は慌てて言う。
「そ、そうですよね! 一霧君は今日この学園に来たばかりですよね! そ、それなら、わかんないことがあったら私に聞いてください。一応、私筆記テストでは一年生の中で一番ですから!」
「へぇー、そうなんだ」
「……戦闘とかの実技は得意じゃないですけど……」
「そうなんだ……」
打って変わって落ち込む真癒。
戦闘の実技がどういうものかはわからないが──確かに、真癒を見る限りでは運動などは得意ではなさそうだった。
というか──
「……授業で、戦闘の訓練とかあるのか?」
「はい、ありますよ。週に四回ほど」
「そんなに!」
「はい……えーっと、一霧君がいた世界ではなかったんですか?」
不思議そうに問いかける真癒に、アツキは絶句した。
これがこの世界の普通なのだ。生き残るためには、唯奈が言っていた《外敵》──倒しても倒しても現れ続ける《敵》と戦うしかない。
それがこの世界のルール。理。法則なのだ。
「……そういうのはなかったかな。じゃあ、明日の演習って……」
「神力を使った戦闘訓練ですよ」
「マジかよ……」
向こうの世界で喧嘩をしたことなどはゼロではないが──そんなに積極的にやっていたわけではないし、『戦闘』とはまた違う。
と、アツキはふと思ったことを口にした。
「……そういえば、俺ってその何とかっていう力は使うことができるのか?」
男性はその力を使うことができないから──淘汰されて絶滅したのだ、と唯奈は言っていた。その通りであれば、アツキは力を行使することはできない。
「使えるかどうかはわからないです……でも、まったく持っていない、っていうわけではないみたいです」
「そうなのか?」
「はい。男性は女性と同じぐらい神力を持っていたと言われています。でも、持っていても使えなかったようなんです」
「……持っていても使えなかった?」
「理由はわかりませんが、大半の男性は使えなかったようなんです。ほんのごく少数の人達は使えたようですが……それでも、男性が絶滅してしまったということは、やはり女性の方が神力の扱いは上手なのかもしれませんね」
言葉を紡ぎ終わって。
突如、真癒はハッとした表情を浮かべる。
「あっ!」
「? どうかしたのか?」
「あー、えーっと、一霧君すみません。次の授業で使う道具を、先生に持ってくるように言われていたんでした。私、教室に戻る前に先生のところに行くので、一霧君は先に教室に戻っていてください」
「一人じゃ大変だろ。俺も手伝おっか? こうしてお世話になったんだし」
「申し出は嬉しいですけど、大丈夫ですよ。私こう見えて力持ちですから」
真癒が、細い腕を曲げて可愛らしく力こぶをつくる。
「──だから、一霧君は教室に戻っていてください」
「まあ、そういうなら……」
真癒に押し切られる形となって、アツキは渋々首肯した。
「一霧君は教室までの戻り方わかりますよね?」
「ああ、もう教室の近くだしな」
「なら、大丈夫ですね。また後で、一霧君」
言って、真癒は慌ただしくパタパタと廊下を駆けていく。
「大変そうだなぁ……」
半分ぐらいは自分に責任があるのも忘れ、呑気に言って。
アツキは真癒を見送ると、辺りを見回した。
昼休みが終わるまで、まだ時間がある。今、教室に戻っても時間を持て余してしまうし、何より一人で過ごさなければならない。それなら、校舎を散策した方が得策だろう。
それに──
「…………はぁ」
アツキは誰にも聞こえないほど小さく溜息をついた。
視界の端から、多数の女子が見えるのだ。今までアツキを独占していた真癒がいなくなったせいか、好機と判断して、女子が猛禽のごとく眼を光らせていた。
……誰もいないところに行こう。
しみじみと内心で呟いて、アツキはその場から離れる。
アツキが選んだのは、この青桜学園の屋上だった。
アツキが所属する一年四組からはそう離れておらず、かつ人が一番来ないような場所がそこだったのだ。
案の定──アツキの思惑通り、屋上への階段を昇るにつれて喧騒から離れていく。
屋上へと続く扉の前に立つ。
アツキのいた世界の学校では、危険なため、概して屋上は締め切っていることが多い──が、この青桜学園は違ったようで、アツキが扉を引くとすんなり開いた。
「────」
屋上を吹き抜ける心地良い風が、アツキの顔を撫でる。視界いっぱいに、雲一つない蒼穹の空が映りこむ。
屋上自体はそんなに広いものではなかった。四方全てフェンスで囲まれおり、およそバスケットコートぐらいだろうか。
しかし、こうして見渡す限りではアツキがいた世界の高校と何ら変わることもない。
──と。
不意に、アツキの視界に一人の先客──女子生徒が映った。
男子なら誰しもが見惚れるような相貌。──あの不時唯奈とも遜色がないほど美しい顔立ちで、ずっと窓の外を眺めていた少女。
その少女が、アツキよりも先に一人でフェンスにもたれかかって空を眺めていた。まだ、アツキに気づいていないのか、こちらに顔を向けることなく宙に視線を漂わせている。
その光景は、まるで一枚の絵画のようだった。
思わず見惚れて少女を見つめてしまう。
「なにか見えるのか?」
気が付くと、アツキは無意識の内にそう言っていた。
少女の視線がこちらに向けられる。
あたりをきょろきょろ見回して──自分が話しかけられたことに気づくと、少女は初めて声を発した。
「……別に何か見えるわけではないです。ただ、空を眺めるのが好きなだけですから。空は嫌なことを全て忘れさせてくれるので」
言って、少女は再び蒼穹の空へと視線を戻す。もう、アツキに話すことは何もないと言わんばかりの態度。
取り付く島もない。
と。
その少女は不意に、ゆっくり立ち上がって、うーんと腕を伸ばした。
夏服の制服から、黒いアームカバーに覆われた両腕が伸びる。黒い布は手の甲までではなく、念入りに手全体まで覆っていた。
日焼け対策のためなのだろうか。
アツキの視線に気づいたのか、少女は何の感情の色もない視線でアツキを見て、素っ気なく言う。
しかし、心地良い声音が告げたのは、アツキの予想とは懸け離れたものだった。
「ああ、これはですね……これを身に付けないと、私は私でなくなって、生きてはいけなくなるからです」
「生きて……いけない?」
大げさな物言いをする少女に、アツキは繰り返す。
しかし、その少女は無表情のまま、それには答えることなく、フイッと顔を逸らした。
数秒後。
ポツリと、少女の口から言葉が漏れた。
「あの……一つ聞いても良いですか?」
「ああ、何でもいいぜ」
この青桜学園の積極的に根掘り葉掘り聞いてくる女子には、アツキはややウンザリしていたが、この少女には不思議とそんな感情を抱かなかった。
「向こうの世界って、どんなところなんですか? 戦争とかってあるんですか?」
「──どうしてそんなことを聞くんだ?」
アツキの疑問に、少女は肩を竦める。
「純然たる興味、です。……それで、どうなんですか?」
「戦争はあるよ。でも……俺の国ではなかったかな」
「そうですか。いいところですね……この楽園世界では人間同士の戦争はありませんが、戦闘は日常的に行われるので」
少女は屋上から視線を下に移した。屋上の下には、グランドが広がり、その奥には訓練場っぽいアリーナが鎮座している。
「戦いは嫌いです」
静かに、少女はボソッと呟いた。瞳から煌めく意思の光が強く輝いた。思わずゾッとするような声──が、それには初めてこの少女の感情が見え、籠められた思いは、アツキには途方もなく強いモノに感じられた。
少女は顔を上げると視線を扉に固定して、アツキの方を見ることなく扉の方に向かう。もうこれで、アツキとの会話は終わりというように。
アツキが何も言えないままそれを見送っていると、少女は扉に手をかけて──背を向けたまま、空気を震わせた。
「もう、私には近づかない方がいいですよ。あなた自身が消えたくないのなら」
「えっ──?」
アツキの疑問の声に、少女は答えることなく扉を開ける。
アツキの視界に、無表情の少女の顔が映った。このままだと、アツキは何もこの少女のことを聞けないままになってしまう。
そんな予感に駆られて──
最後の最後で、アツキはその少女の背中に、ずっと聞きたかったことを浴びせた。
「──君、は?」
少女は扉の向こうに消える。
扉が閉まる寸前、小さな声がアツキの聴覚に触れた。
「御影柴乃、です」
「今日一日、こちらの世界の授業を体験してみてどうだったのかしら?」
一日目の授業を全て消化し、精神的に大きくクタクタになった放課後。
学園内を歩きながら、アツキは唯奈と喋っていた。
相変わらず、アツキに対する好奇の視線は多く、常に見られている感覚が消えることはない。
それだけでなく、唯奈と一緒にいることが余計に拍車をかけているようだった。美人で若い学園長というのは憧れの対象になりやすのかもしれない。
「もう色々疲れて……正直、授業どころじゃなかったな」
どこに行ってもアツキは好奇の視線に晒され、アツキが一か所にいるとわらわらと女子に囲まれる。男子冥利に尽きるのだが──やはり限界というものがあって、精神的に大きく疲れてしまったのであった。
「あら、それくらい有名人税と思いなさい」
「そうは言ってもなぁ……」
それだけで割り切れない部分も多々ある。
「……まあ、そんなことより今どこに向かっているんだ?」
授業が終わると同時に、唯奈に呼び出されたのだ。おかげで、アツキを囲むように女子の集団がじりじりと近づいたのは回避することができたが──どこに向かっているかなどはまったく知らされていないのだった。
「あなたがこれから生活する場所よ」
言って、唯奈はビシッと前方を指差した。
白亜の建物。大きさはかなり巨大で、千人収容しても随分と余裕がありそうだ。授業を終えた女子が入っていくさまを見ると、まるで女子寮のようだった。
というか──
「女子寮じゃねーかよ!」
アツキの叫びに、唯奈は当然とばかりに首肯する。
「当たり前でしょう? ここにしかそういう場所はないのだから。──それとも何? 不満があるのかしら?」
「いや、不満とかそういうのじゃなくて……ほら、色々問題とかあるだろう?」
「? 何を言っているのかしら。いったいどんな問題があるっていうの?」
「そりゃあ──」
言いかけて、アツキは口を噤んだ。
この楽園世界には女性しかいないのだ。──と、なればそういった倫理観も希薄になるのは当然である。
「……ともかく、あそこだけは止めてくれ。主に、俺の精神的に」
「むっ、いちいち文句をつけますわね。なら、ちょっと条件が悪くなるけど、そこで良いかしら?」
「ああ、女子寮じゃなかったら、ちょっとぐらい条件が悪くても我慢できるぜ」
「それなら、あそこなんてどうかしら?」
唯奈が別方向を指差す。
寂れ、白いペンキが剥がれた建物。薄暗くとても気味が悪い。ひびが幾つも入り、修繕されていない窓からは、鉄格子で絶対に内から出られないように作られた部屋が見える。まるで、牢屋のようだ。
というか──
「牢屋じゃねーかよ!」
「牢屋というと聞こえが悪いけど、通気性抜群──夏はとても涼しいですわよ」
「それって、ただ四方が壁で囲まれていないだけですよね!」
「なに? まだ文句があるのかしら?」
「文句しかねーよ!」
「でも、いよいよ他に住めそうな場所なんてありませんわよ。阿月君にはどちらかに住んで貰わないと」
「──うぅ……」
女子寮か牢屋。
前者は、アツキの精神面的に──後者に至っては論外である。
「はぁ、しょうがないわね」
頭を抱えて悩むアツキに、唯奈はここぞとばかりに大きく溜息をついて言った。
「とっておきの場所を提供してあげますわ」
「最初からここを紹介してくれれば良かったのに」
非難めいたことを、口にしながらアツキはベットの上に身を投げた。
質素なつくりの部屋で、調度品もほとんどない。あるのは、ベットと箪笥ぐらいだろうか。しかし、この部屋にはトイレもお風呂もついているので文句はとても言えない。
元々は学園の宿直室だったらしく──もっとも、今は機能していないが──ここで一応生活はできるようになっていた。
学園からも距離は近く、この元宿直室は学園と女子寮のちょうど中間あたりにある。
「ふうー」
息を吐いて、アツキはベットに放り投げられた腕輪を見た。
白銀の煌めきを誇るそれは、見たところ金属のようなものが素材で──唯奈から渡された、アツキの唯一の武器だ。
いったい、この腕輪がどうして武器になるのかはわからないが……この学園の学園長たる唯奈が言うのだから、間違いはないだろう。
男には神力が使うことはできない。──真癒の話だと数人は使えたようだったが、アツキはどうなのか、まだわからないのだ。だからこそ、何か別の《外敵》に対する武器が必要なのはわかるが──
「せめて、剣とか渡してくれれば良かったのに……」
頭では理解していても、アツキはそう思わずにはいられなかった。……もっとも、真剣が渡されたところで、使うことなどできるはずもないが。
それにしても──
と、アツキは今日一日のことを思い返した。
女性しかいない世界へ異世界トリップをした後、その学園に入学。一連の出来事は、今日に全て起こったのだ。特に、学園の入学に関しては驚愕するほどのスピード。
そして──
最後に、アツキの脳裏に浮かんだのはあの少女──御影柴乃のこと。
──ああ、これはですね……これを身に付けないと、私は私でなくなって、生きてはいけなくなるからです。
──もう、私には近づかない方がいいですよ。あなた自身が消えたくないのなら。
「……いったい何が……?」
ボソッと、無意識のうちにアツキの口から漏れた。
聞くことはできなかった。その先を。そんな風に。
柴乃が持つ視線。感情出さない顔。柴乃がつくりだす壁は──
「まるで……」
意識が薄暗くなっていく。自身が予想していたより遥かに溜まっていた疲労が、アツキを襲って瞼が閉じていく。
──かつての自分を見ているみたいだ。
その声は、アツキの口から発せられることはなかった。