悪魔はいません。戦争のあと、眠れない夜が残ったのです ~前世精神保健福祉士の私は、「悪魔憑き」とされた帰還兵を自分の部屋へつなぎます~
悪魔は、もういなかった。
除霊術士が書いた紙は、三枚。
それでも、帰還許可はゼロだった。
エーミルは今も、「悪魔憑き」の収容棟から出られなかった。
「三度目も陰性だ」
乾いた音とともに、オスカー医官の印が除霊証明書へ落ちた。
白い紙の中央に刻まれた神殿印は、三枚とも同じだった。
悪魔なし。呪いなし。再除霊の必要なし。
私は三枚を重ね、王国帰還支援局が運営する浄化・帰還院、その院長であるベルンの机へ置いた。
「では、エーミルさんの帰還許可をお願いします」
「出せない」
ベルン院長は、三枚の証明書ではなく、その横に置かれた帰還申請書を指した。
夜間異常――有。
家族保証――無。
元職復帰――不可。
三つの欄に、赤い印が押されている。
三枚の白い「悪魔なし」が、三つの赤い印に負けていた。
王国の帰還申請書には、悪魔の有無を書く欄はあった。帰りたい場所を書く欄は、なかった。
「昨夜も叫んだ。三十日間の観察期間は、また一日目からだ」
「悪魔はいないのでしょう」
「悪魔がいないことと、安全であることは別だ」
院長は指を組んだ。
「家族も引き取り保証に署名していない。元の勤務にも戻れない。この状態で外へ出し、何か起きたら誰が責任を取る?」
その問いを、私は何度も聞いたことがあった。
前世でも、この世界でも。
ただし、責任を問う人ほど、誰が何を担当するかを決めたがらない。
「現在の申請書では、家族一人が全責任を負うことになっています」
「家族なのだから当然だろう」
「夜に困ることがある成人男性を、仕事と子育てをしている姉が、一人で二十四時間見守るのですか」
「だから、保証できないなら帰せない」
見事な円環だった。
帰るには家族の保証がいる。
家族が保証できないから、帰れない。
帰れないので、地域で何ができるか試すこともできない。
私は申請書を持ち上げた。
傷の治癒状況。
悪魔の角の本数。
呪いの色。
夜に叫んだ回数。
ずいぶん細かい。
「本人が、どこへ帰りたいかを書く欄はありませんね」
「必要ない。帰る場所は家族の家だ」
「家族の家へ帰りたいとは限りません」
「では、どこへ帰るというのだ」
「それを、これから本人に聞きます」
ベルン院長は眉間へ指を当てた。
「君は退所書類補助係だろう」
「はい。ですから、書類に必要なことを聞きます」
「本人の希望欄はないと言ったのは君ではないか」
「ありません。ですから、白紙を一枚添えます」
院長はしばらく私を見た。
机の端で、オスカー医官が小さく咳払いをした。
笑いを隠したらしい。
私の前世の職業は、精神保健福祉士だった。
病院から地域へ移る人の相談を受け、住まい、仕事、家族、医療、行政をつないでいた。
本人の代わりに人生を決める仕事ではない。
選べる道を増やし、選んだ先へ渡れる橋を架ける仕事だった。
剣も振るわない。
薬も出さない。
魔法も使えない。
転生前、白い空間で、転生管理局の凡人枠担当・ツクヨにそう説明したとき、その青年は本気で首をかしげた。
『医者でも治癒師でもない。剣も魔法もない。では、何ができるのですか?』
『治療が終わった人の、帰る場所を探します』
『ずいぶん地味ですね』
『地味な役目です。でも、誰かの暮らしには、かけがえのない仕事です』
今も、その評価は間違っていないと思う。
この世界には、傷を塞ぐ治癒魔法はある。けれど、帰る部屋や、眠れない夜の連絡先までは作ってくれない。
派手な奇跡が終わったあとに残るものを、地味な仕事は拾える。
「一度だけだ」
ベルン院長が言った。
「一時間、面談を許可する。ただし、帰還の条件は変わらない」
「承知しました」
条件が変わらないなら、条件を変えるための材料を集めればいい。
私は白紙を一枚持ち、収容棟へ向かった。
エーミルは、面談室の奥に座っていた。
二十代半ば。
短く切られた髪には、まだ軍の名残があった。
椅子を壁際へ寄せ、扉が正面に見える位置を選んでいる。
私がイリスと名乗っても、彼は顔を上げなかった。
「また、戦場の話ですか」
「いいえ」
その答えで、初めて彼の目が動いた。
「何人死んだか。何を見たか。何が怖かったか。そういう話は、今は聞きません」
「では、何を聞くんです」
私は白紙を机へ置いた。
「ここを出たあと、どこで朝を迎えたいか。まず、それを聞きます」
◇ ◇ ◇
「俺が何を言っても、悪魔の言葉だと記録される」
エーミルは白紙を見たまま言った。
「眠れないと言えば、悪魔がいる。食堂へ行きたくないと言えば、人を襲うおそれがある。姉の家へ帰りたくないと言えば、家族への敵意がある」
「これまでの記録は、そういう書き方でしたか」
「違うんですか」
私は筆記具を机の中央へ置いた。
私の側ではなく、彼の手が届く位置に。
「今日、私が書いたものは、提出する前にあなたが読みます。違うところは直します。書きたくないことは、書きません」
「院長にも?」
「院長へ渡す内容も、一緒に決めます」
「そんなことが許されるんですか」
「禁止するルールは、ありませんので」
エーミルがわずかに顔を上げた。
笑ったわけではない。
けれど、さっきより呼吸が深くなった。
私は白紙を四つに区切った。
住む場所。
昼の役割、または仕事。
苦しい夜の連絡先。
人へ話してよいこと、話したくないこと。
その下に、もう一つ小さな欄を作る。
本人が選んだこと。
本人署名。
「何です、これは」
「帰還支援表です」
「そんな書式はない」
「今、作りました」
「勝手ですね」
「書式というものは、最初の一枚だけは誰かが勝手に作るものです」
今度は、口元がほんの少し動いた。
私は最初の欄を指した。
「姉の家へ帰りたくない、と先ほど言いましたね」
エーミルの肩が固くなった。
「それも、家族への敵意と書くんですか」
「姉の家では暮らしたくない。でも、姉の近くにも住みたくない――そういう意味ですか」
返事はすぐには来なかった。
廊下の向こうで、鍵束が鳴った。
エーミルの指が、椅子の縁をつかんだ。
音が遠ざかるまで、私は次の質問をしなかった。
「……姉の近くがいい」
やがて、彼が言った。
「歩いて行けるくらい。でも、同じ家は嫌だ」
「理由を記録してもいいですか」
「理由まで要りますか」
「必要なければ書きません」
彼は少し考えた。
「姉には子どもがいる。夜中に俺が叫んだら、起こしてしまう。姉は朝から仕事だ。俺を見張っていたら、眠れない」
「では、『姉の家から歩ける距離に、別の住まいを希望』と書きます。理由は、審査会には出さない。住居を探す際に必要なら、あなたの許可をもう一度取る。それでどうでしょう」
「……それなら」
私は彼の言葉どおりに書いた。
「次に、どの時間が一番困りますか」
「夜です」
「夜の何時ごろ、とは分かりますか」
「鐘が鳴ったあと。眠ろうとするとき」
「何が起こりますか」
「眠れない。眠っても、叫んで起きることがある」
私は「夜、眠り始める時間に困ることがある」とだけ書いた。
「大きな音はどうですか」
「金属がぶつかる音は、駄目です」
「体がどうなりますか」
「動けなくなる」
「そのとき、触れられるのは」
「やめてほしい」
「声をかけられるのは」
「短くなら」
「出口が見える場所と、見えない場所では?」
彼の目が、面談室の扉へ向いた。
「見える方がいい」
私は書き足した。
大きな金属音の際、動けなくなることがある。
突然触れない。
短く声をかける。
出口が見える場所を選ぶ。
「こんなことを聞かれたのは、初めてです」
「悪魔の有無とは関係のない質問ですから」
「あなたは、悪魔を信じないんですか」
「信じています。本物はいますし、除霊も必要です」
三枚の証明書を思い出す。
「ただ、悪魔がいないと分かった後まで、何でも悪魔の仕事にするのは、少し働かせすぎだと思います」
エーミルが目を瞬いた。
「本物の悪魔から、業務範囲外だと苦情が来ます」
エーミルが息を吐いた。
今度は、はっきりと小さく笑った。
次に、仕事について聞いた。
完全に元へ戻れるかではない。
今でも嫌いではない作業は何か。
どの時間なら試せそうか。
何があると難しいか。
「軍では、補給倉庫にいました」
「荷物を運ぶ仕事ですか」
「物資の受け入れと払い出し、それに在庫の記録です。数が合わないと、夜まで帳簿を見ていた」
「嫌でしたか」
「数は、裏切らないので」
「では、朝の静かな時間に、在庫を数える仕事なら?」
エーミルは、すぐには答えなかった。
できると言って失敗すれば、また帰還不許可の理由にされる。
その沈黙からは、そんな警戒が伝わってきた。
「試してから決めることもできます」
「試して、できなかったら?」
「計画を直します」
「帰還不許可ではなく?」
「できなかった理由を確かめずに不許可にするなら、試す意味がありません」
彼は白紙を引き寄せた。
「朝。人が少ない時間なら」
「何時間くらいから始めますか」
「三時間……いや、二時間」
「二時間と書きます」
彼が自分で減らした時間を、私は増やさなかった。
面談の終わりに、情報を渡してよい相手を確認した。
姉には、近くに別の住まいを希望していることと、翌朝の連絡方法について話してよい。
戦場での出来事は話さない。
オスカー医官には、眠りと音への反応を伝えてよい。
倉庫には、大きな金属音を避けること、突然触れないこと、途中で休めることだけを伝えてよい。
夜に叫ぶことも、戦場の事情も伝えない。
書き終えるたび、私は紙をエーミルの側へ回した。
誰に、どこまで渡すか。最後の線を引いたのは、いつも彼だった。
「本当に、それだけでいいんですか」
「仕事に必要なのは、働くための条件です。あなたの過去を全部知ることではありません」
エーミルは、私の書いた文章を一行ずつ読んだ。
一か所だけ、筆を取った。
私は「姉の支援」と書いていた。
彼は「支援」を消し、「連絡」と書き直した。
「姉に、俺の生活を背負わせたくない」
「分かりました」
その日の午後、私はリーゼを訪ねた。
エーミルの姉は、仕立屋の作業台で子ども服の袖を縫っていた。
帰還院からの者だと名乗ると、縫い針を置き、真っ先に言った。
「弟を見捨てたわけではありません」
「そうは思っていません」
「でも、あの保証書には署名できません。夜中ずっと見張ることも、何か起きたら全部私の責任だと言われることも……」
「署名しなくて構いません」
リーゼの指が止まった。
「でも、署名しなければ、弟は帰れないと」
「その条件を変えるために来ました」
私は、エーミルが共有を許した範囲だけを伝えた。
姉の家から歩ける距離に、別の住まいを希望していること。
同居は望んでいないこと。
困った夜、最初に連絡する相手は姉にしないこと。
「私では、ないんですか」
安堵と寂しさのどちらとも言えない声だった。
「リーゼさんには、仕事とお子さんの生活があります。弟さんを愛していることと、夜通し一人で支えられないことは、矛盾しません」
リーゼは、作業台の上の布を整えた。
「私は、何をすればいいでしょう」
「何なら続けられますか」
しばらく考えたあと、彼女は答えた。
「週に一度、一緒に夕食を食べることなら。あの子が嫌でなければ」
「連絡を受けるとしたら?」
「翌朝、弟が知らせてほしいと望んだときは、連絡してください。でも、夜中の最初の連絡先にはしないでほしい」
「合鍵は持ちますか」
リーゼは首を横に振った。
「持ったら、あの子の部屋ではなく、私が見張る部屋になってしまいそうです」
その答えを、私は帰還支援表へ書き加えた。
毎晩の見張りより、週に一度の夕食。
小さくても、二人が続けられる約束の方が、暮らしには強い。
オスカー医官にも会った。
「私は悪魔がいないことは証明できる」
彼は三枚の証明書を指で叩いた。
「だが、帰った後の寝床までは作れない」
「寝床は家主と探します。先生には、医療が必要なときの入口をお願いします」
「私の仕事が終わったわけではない、と?」
「除霊が終わったことと、医官との関わりが不要になることは別です」
オスカー医官は少し考え、週に一度の面談と、夜番詰所から要請があった場合の判断を引き受けた。
倉庫にも話をつけた。
かつてエーミルと働いた兵站担当者が、王都西倉庫で午前二時間の試し勤務を認めてくれた。
もちろん、本人が共有を許した条件だけを伝えた。
夕方、私は収容棟へ戻った。
帰還支援表の四つの欄は、まだ半分ほどしか埋まっていない。
それでも、白紙だった朝とは違う。
「姉は、何と」
「週に一度、一緒に夕食を食べたいそうです」
エーミルは、表から目を上げなかった。
「毎週は、多いかもしれない」
「では、最初は二週に一度にしますか」
「……いや。週に一度で」
私はそのまま書いた。
誰かのために決めたのではない。
彼が自分で選んだのであれば、それでよかった。
それから十日をかけて、空き部屋を探し、受入先の書面をそろえた。
ベルン院長は、すぐには首を縦に振らなかった。
それでも、私が部屋の扉の向き、夜間の連絡先、倉庫の休憩場所まで一つずつ確認し、毎朝提出した報告書に抜けがなかったことは見ていた。
「君の細かさを、三日分だけ信用する」
そう言って、面談記録とオスカー医官の意見書へもう一度目を通し、三日分の日中外出許可に印を押した。
住居の内見と二度の試し勤務に限り、私が同行すること。
それが条件だった。
◇ ◇ ◇
姉の家から歩いて十分。
小さな広場を一本外れた路地に、空き部屋があった。
一階の角部屋で、窓は中庭へ向いている。
部屋の入口から寝台まで、視線を遮る壁はない。
扉も窓も、部屋の中央から見えた。
床板には補修跡があり、漆喰の壁には細いひびがあった。上等な部屋ではない。
それでも寝台は一つだけで、看守が収容者を確かめる覗き窓も、起床を告げる鐘もなかった。
エーミルは入るなり、扉の蝶番を確かめた。
次に窓を開け、外の音を聞いた。
中庭に干した布の石鹸の匂いと、どこかで鍋をかき回す小さな音が入ってきた。
それから廊下へ出て、玄関までの距離を自分の足で測った。
「ここなら、出口が見えます」
「夜は静かです」
家主が言った。
年配の男性だった。
表情には、まだ迷いがある。
内見の前に、エーミルの同意を得て、私は「夜に困ることがある」「対応する連絡先は別にある」とだけ伝えていた。
「ただ、その……帰還兵の方が夜に困ることがあると聞きまして」
エーミルが私を見た。
私は何も答えず、彼を待った。
話す範囲を決めるのは、私ではない。
「夜、眠りにくいことがあります」
エーミルが言った。
「声が出ることもあるかもしれません。でも、困ったときに連絡する場所は決めています。あなたに対応を頼むつもりはありません」
家主は目を瞬かせた。
「暴れたりは?」
「したことはありません」
「それ以上のことは、話したくありません」
エーミルがそこで話を止めたので、私はそれ以上を補わず、契約条件の説明へ戻った。
「家賃は王国の帰還手当から継続して支払われます。最初の二か月は、支援局が家主さんへの支払いを保証します。夜間の連絡先も別にあります。家主さんへお願いするのは、通常の賃貸契約だけです」
「私が見張る必要はない?」
「ありません」
家主は、机の上へ一本の鍵を置いた。
黒ずんだ鉄の鍵で、輪の片側だけが、幾人もの手に磨かれて光っていた。
「では、試行帰還の許可が出たら」
エーミルは、その鍵へ手を伸ばさなかった。
まだ自分のものではないからだろう。
けれど、部屋を出る直前に一度だけ振り返った。
帰還支援表の「住む場所」の欄へ、住所が入った。
次は、仕事だった。
王都西倉庫での試し勤務は、日の出から二時間。
人が少なく、荷車の出入りも少ない時間を選んだ。
初日のエーミルは、帳簿を受け取ると、積まれた麻袋を一つずつ数え始めた。
一列を数え終えるたび、手元の木札を一枚、裏返す。
棚卸しで厄介なのは、数えられないことではない。同じ列を二度数えたのに、本人が気づかないことだ。
二列目まで終えたところで、彼は帳簿を指した。
「麦粉、四十八袋とあります」
倉庫の担当者がうなずく。
「昨日入った分を足してな」
「麦粉は四十七です。袋は四十八ありますが」
「数え間違いじゃないのか」
「三列目の端だけ、封紐が緑です。麦粉は白。あれは豆粉です」
調べてみると、そのとおりだった。
麦粉の中へ、豆粉の袋が一つ混じっていた。
軍の倉庫では、薄暗い場所でも中身を取り違えないよう、品ごとに封紐の色を変える。文字を読むより早く、札が濡れて文字が読めなくなっても見分けられる。
「よく分かったな」
担当者が感心すると、エーミルは木札をそろえ直した。
「前にも、よく混ざっていたので」
その声には、自慢も卑下もなかった。
ただ、自分の知っている仕事をした人の声だった。
私は少し離れた場所で、帰還支援表へ記録した。
朝の在庫確認は可能。
数の照合に力を発揮。
大きな問題は起きなかった。
そう書こうとした、そのときだった。
倉庫の奥で、金属製の荷車が敷居を越えた。
車輪が跳ねる。
荷台の側板が落ちた。
鐘を叩き割ったような音が、石壁へ何度も反響した。
エーミルの手から、木札が落ちた。
彼は振り返らなかった。
両腕が体の横で固まり、視線だけが開いた扉へ向いている。
「おい」
担当者が近づこうとした。
私は手で止めた。
触れられたくない。
短く声をかける。
出口が見える場所。
面談で聞いたことを、頭の中で確かめる。
分かっていたはずだった。
けれど私は、倉庫に金属製の荷車があることまで確認していなかった。
私の確認不足が、またエーミルの欄に赤い印を増やすかもしれない。
「エーミルさん」
返事はない。
「扉は開いています」
彼の喉が動いた。
周囲で、誰かが小さく言った。
「悪魔が戻ったのか」
エーミルの肩がさらに上がった。
私は声を張らなかった。
「今、どうしたいですか」
数秒。
あるいは、それ以上。
「……出たい」
かすれた声が返ってきた。
「外へ出ますか。隣の休憩室へ行きますか」
「外」
「分かりました」
「でも」
彼は動かないまま続けた。
「仕事を辞めるとは、まだ書かないでください」
「書きません」
私は担当者へ道を空けてもらった。
エーミルは自分の足で扉まで歩いた。
中庭へ出ると、壁際の木箱に座った。
私は隣へ座らず、少し離れた場所に立った。
彼が望まない近さまで、距離を詰めない。
長い沈黙のあと、エーミルが言った。
「できると思ったんですが」
「在庫確認は、できていました」
「音がしたら、何もできなかった」
「音については、最初から教えてもらっていました」
私は帰還支援表を開いた。
そこには、確かに書いてある。
大きな金属音を避ける。
「私が、聞いたことを具体的な作業条件に反映し切れていませんでした。確認不足です」
エーミルがこちらを見た。
「あなたの計画が、間違っていた?」
「はい」
「それを記録するんですか」
「記録しないと、同じ間違いをします」
私は表へ書いた。
初回試行。金属製荷車の音で継続困難。
本人は退出を選択。
退職の意思はなし。
職場環境の再調整が必要。
「帰還不許可の理由になりますか」
「計画を直す理由にします」
翌日、エーミル、倉庫担当者、私の三人で条件を組み直した。
午前二時間は変えない。
作業台は横扉の近くへ移す。
金属製荷車は、試し勤務の時間だけ別の通路を使う。
小口の荷物には木製の台車を使う。
苦しくなったときは、青い木札を台へ置く。
言葉が出なくても、それを休憩の合図にする。
途中で帰っても、試行期間中は解雇理由にしない。
「ずいぶん条件が多いな」
担当者が頭をかいた。
私は古い帰還申請書を思い出した。
悪魔の角の本数を三種類も書き分ける王国である。
人が働くための条件を六つ書くくらい、許されていい。
二度目の試し勤務では、エーミルは最初から青い木札を作業台の端へ置いた。
一時間ほど経った頃、別の建物から金槌の音が響いた。
彼の手が止まった。
木札へ触れる。
担当者は何も言わず、横扉を開けた。
エーミルは中庭でしばらく休んだ。
十分後、自分で戻ってきた。
「続けますか」
担当者が聞く。
「あと、四十五分だけ」
その日、彼は予定していた二時間のうち、一時間四十五分を働いた。
完璧ではない。
けれど、自分で止まり、自分で戻り、自分で終える時間を決めた。
帰還支援表の「昼の役割」の欄が埋まった。
夜の連絡先には、帰還院の夜番詰所とつながる夜間連絡札を選んだ。
札を握って名を告げれば、夜番が応じる。
必要ならオスカー医官へつなぐ。
姉へ連絡するのは、翌朝、エーミルが望んだ場合だけ。
医療上の緊急対応は、夜番詰所とオスカー医官が担う。
最後に、情報共有の欄を確認した。
家主へ伝えること。
倉庫へ伝えること。
姉へ伝えること。
医官へ伝えること。
それぞれを別々に書いた。
「この一文は消してください」
エーミルが指した。
私が書いた「姉が週に一度見守る」という箇所だった。
「見守る、ではなく、一緒に夕食を食べる、です」
「直します」
私は線を引き、書き換えた。
彼は最初から最後まで読み直した。
それから、「本人が選んだこと」と書かれた欄へ、ゆっくり署名した。
エーミル。
文字は少し震えていた。
けれど、他の誰の筆跡でもなかった。
◇ ◇ ◇
帰還審査会の日、ベルン院長の前には二種類の書類が置かれた。
王国の正式な帰還申請書。
そして、私たちが作った四欄の帰還支援表。
「これは正式書式ではない」
ベルン院長は、支援表を持ち上げた。
「はい」
「審査資料として扱えというのか」
「そのために作りました」
「正式でないものを?」
「正式な書式だけで判断した結果、除霊済みの人が十一か月収容されています」
ベルン院長は表情を変えなかった。
だが、支援表を机へ戻した。
審査室には、エーミル、リーゼ、オスカー医官、倉庫の担当者がいた。
家主からは、条件付きで入居を認める書面が届いている。
審査席の端にいた帰還院の事務官が、支援表をめくった。
「ここまで一人に合わせるのは、特別扱いではありませんか。ほかの帰還兵に示しがつきません」
「義足の長さを一人ずつ合わせることを、特別扱いとは呼びません」
事務官の眉が寄った。
「それは、目に見える戦傷だ」
オスカー医官が三枚の除霊証明書を指でそろえた。
「エーミルも戦傷者だ。戦場から戻って以来、眠れず、金属音で動けなくなることがある。悪魔ではないと証明したが、困り事まで存在しないと証明した覚えはない」
私は帰還支援表へ手を置いた。
「王国は、戦えるように人を送り出しました。ならば、戻った人がまた暮らせるように支えることも、王国の仕事です」
「前例になるぞ」
「はい。収容を延ばす前例ではなく、必要な支援を本人と確かめる前例にします。そのために、結果も費用も記録します」
事務官は黙り、ベルン院長を見た。
院長は支援表を私へ返さなかった。
「続けろ」
私はまず、役割分担を一つずつ説明した。
住居。
姉の家から徒歩十分の借り部屋。
家賃は王国の帰還手当から継続して支払う。
最初の二か月は、支援局が家主への支払いを保証。
家主へ伝えたのは、夜間に困ることがあることと、別に連絡先があることだけ。
仕事。
週二日、日の出から二時間。
金属製荷車を避け、横扉近くの作業台と休憩場所を確保。
青い木札を休憩の合図とする。
途中で退出しても、試行期間中は即時解雇しない。
家族。
リーゼは同居しない。
二人が合意した週一回の夕食を続ける。
夜間の最初の連絡先にはならない。
生活を一人で保証しない。
医療と夜間連絡。
オスカー医官が週に一度面談。
夜間連絡札で夜番詰所へつなぐ。
医療上の判断が必要なら、オスカー医官へつなぐ。
支援を利用したことだけを理由に、帰還許可を取り消さない。
説明を聞き終えると、ベルン院長はオスカー医官を見た。
「悪魔はいないのだな」
「三度確認した。いない」
「では、今後、夜に叫ばないと保証できるか」
「できない」
オスカー医官は、ためらわず答えた。
「私が証明できるのは、悪魔と呪いがないことだ。生活上の困り事が二度と起きないという証明書は、私の職域にはない」
「医官が保証できないものを、外へ出せというのか」
「医療上の保証と、生活上の支援計画は別です」
私は四欄の表を開いた。
「一度も困らないことは保証できません。ですが、困ったとき、誰が何を担うかは決められます」
「家族が保証しないのに?」
リーゼが両手を膝の上で握った。
「私は、弟と一緒には住みません」
声は少し震えていたが、言葉は明確だった。
「仕事と子どもの生活があります。夜通し見守ることもできません」
ベルン院長が口を開きかけた。
リーゼは、その前に続けた。
「でも、弟を見捨てるわけではありません。週に一度、一緒に夕食を食べます。翌朝、弟が望んだときに連絡を受けます。私にできることと、できないことを、弟と決めました」
倉庫の担当者も口を開いた。
「完全復帰とは言えません。午前二時間だけです」
「それで雇用と呼べるのか」
「二時間分の仕事をして、二時間分の賃金を払います。帳簿の間違いを一つ見つけた。少なくとも、その二時間は役に立っています」
私は担当者の言葉へ、少しだけ眉を寄せた。
するとエーミルが先に言った。
「役に立てなければ、帰ってはいけませんか」
担当者は目を見開いた。
「いや、そういう意味じゃ……」
「少なくとも、この支援計画では、仕事を帰還の条件にはしていません」
私は補った。
「仕事は、本人が望む暮らしの一部です。続けられなくても、それを理由に住居まで失わせません」
ベルン院長が指先で机を叩いた。
「安全を保証できない者を外へ出せと、君は言うのか」
「現在の収容棟でも、エーミルさんは夜に叫ぶことがあります」
「だから監視している」
「叫んだあと、何をしていますか」
院長の指が止まった。
「記録し、観察期間を一日目へ戻す」
「それ以外には?」
答えはなかった。
私は夜間連絡札を机へ置いた。
「今の制度には、困ったときの手順がありません。ただ、困った事実を数え、帰還を延期しています」
「収容しておけば、住民には影響しない」
「その代わり、一人の暮らしを、家族でも職場でも地域でもない場所に留め続けています」
声を強くしすぎないよう、私は一度息を置いた。
「新しい計画では、何か起きた際の連絡先があります。医官、職場、家主、家族、行政が、それぞれ引き受ける範囲を決めています。誰か一人に全部を背負わせません」
ベルン院長は、帰還支援表の最後へ目を移した。
本人が選んだこと。
本人署名。
「この署名は」
「エーミルさんのものです」
「君が作った計画ではないのか」
「私が作ったのは、欄だけです」
医官は治療を知っている。
倉庫の担当者は仕事を、家主は部屋を、リーゼは家族としての距離を知っている。
けれど、その全部を使ってどんな一日を暮らしたいかは、エーミルにしか決められない。
私は横にいるエーミルを見た。
説明すべきことは、もう説明した。
最後の選択まで私が話せば、この表も古い申請書と同じになる。
ベルン院長も、エーミルへ視線を向けた。
「今後一度も叫ばないと、誓えるか」
エーミルの手が膝の上で握られた。
長い沈黙のあと、彼は立ち上がった。
「誓えません」
室内の空気が固まった。
それでも、彼は座らなかった。
「叫ばないと誓うたびに、俺は眠れなくなりました。眠れなければ、また一日目に戻されると思ったからです」
ベルン院長は何も言わない。
「これからも、叫ぶ夜があるかもしれません。金属の音で動けなくなることもあると思います」
エーミルは机の上の夜間連絡札を見た。
「でも、その夜に誰へ助けを求めるかは決めました。仕事で苦しくなったとき、どう休むかも決めました。姉に何を頼み、何を頼まないかも決めました」
そして、帰還支援表の「住む場所」の欄へ指を置いた。
「姉の家へ戻されるんじゃない」
声は大きくなかった。
けれど、部屋の全員に届いた。
「俺は、俺が選んだ部屋へ帰りたい」
ベルン院長は表を読み直した。
最初の欄から、最後の署名まで。
「六十日間の試行帰還とする」
リーゼの肩が動いた。
私は言葉を挟まず、次を待った。
「条件は、週一回の医官面談と、支援局への定期報告。勤務や住居の計画を変更する場合は、本人を含めて再協議すること」
「夜に叫んだ場合は?」
私が尋ねた。
ベルン院長は夜間連絡札を見た。
「定めた連絡手順を使う」
「帰還失敗として扱いますか」
しばらくして、院長は首を横に振った。
「支援を利用した事実として記録する。許可取消しの理由にはしない」
私はその言葉を、審査記録へ書いた。
一字ずつ、間違いのないように。
家主から預かっていた封筒を、エーミルの前へ置く。
中には、あの角部屋の鍵が入っている。
「帰還許可です」
彼はすぐには受け取らなかった。
手を伸ばし、止める。
それから、親指と人差し指で鍵の輪をつまんだ。
軽い金属音がした。
エーミルの肩が、ほんのわずかに揺れた。
収容棟の鍵束より、ずっと小さな音だった。
閉じ込めるためではなく、自分で開けるための音だった。
エーミルはそれを握り直した。
リーゼは合鍵を求めなかった。
ただ、弟へ言った。
「今週の夕食、何がいい?」
「まだ水曜です」
「仕込みに時間がかかるの」
「では、豆の煮込み」
「子どもが嫌がるわ」
「俺の歓迎の夕食では?」
リーゼが笑った。
エーミルも、ごく短く笑った。
鍵は、彼の手の中に残っていた。
◇ ◇ ◇
二か月後、王国帰還支援局に新しい係ができた。
地域帰還支援係。
初代調整官は、私だった。
立派な肩書のわりに、与えられた机は以前と同じだった。
肩書の文字数に応じて机が広くなる制度は、まだないらしい。
ただし、机の上の書類は変わった。
傷の治癒状況。
悪魔の有無。
それらの欄は残した。
必要な確認だからだ。
その隣に、新しい欄が増えた。
本人が帰りたい場所。
困る時間と場面。
今できること、試してみたいこと。
困ったときの連絡先。
人へ伝えてよいこと、伝えたくないこと。
そして最後に、本人が選んだことと、本人署名。
ベルン院長は、王国全土での採用を支援局へ申請する前に、まず帰還院で試行することを決めた。
正式な試行書式にするまで、七人の官吏が印を押した。
悪魔の角には三本までしか記入欄がないのに、官吏の印には上限がないらしい。
偏見が一日で消えたわけではない。
家主が見つからない人もいた。
仕事を望まない人もいた。
家族と距離を置きたい人もいた。
だから、同じ計画を誰にでも当てはめることはしなかった。
エーミルの次に面談した帰還兵は、収容棟を出るまで十一か月もかからなかった。
五週間だった。
ある午後、執務室の扉をエーミルが叩いた。
以前より少し伸びた髪が、窓から入る風に揺れた。
「仕事帰りですか」
「今日は休みました」
「何かありましたか」
彼は腰の袋から、夜間連絡札を取り出した。
「昨夜、これを使いました」
「はい」
「鐘のあと、眠れなくて。扉の外に誰かいる気がして、確認しても、また気になって」
私は続きを急かさなかった。
「夜番につながりました。医官を呼ぶか聞かれました。でも、その前に少し話したいと言いました」
「夜番は何と?」
「今いる場所と、扉が閉まっているかを一緒に確認してくれました。それから、朝になったら医官へ行くか、自分で決めるようにと」
「どうしましたか」
「朝、オスカー医官に会いました。倉庫にも、今日は休むと伝えました」
「担当者は?」
「次の勤務日に来い、と」
エーミルは連絡札を机へ置いた。
「札を使ったのに、鍵を返せとは言われませんでした」
「使うための札ですから」
「そうなんですが」
彼は自分の手を見た。
「収容棟では、叫んだら日数がゼロに戻りました。今は、困った夜があっても、次の朝があります」
私は支援記録を開いた。
夜間連絡札を使用。
本人の希望により夜番が対応。
翌朝、医官面談。
勤務先へ本人から休む旨を連絡。
住居、勤務とも継続。
「支援利用。計画どおり」
私が読み上げると、エーミルが首をかしげた。
「成功、と書かないんですか」
「まだ暮らしの途中ですから」
「失敗でもない?」
「もちろん」
彼はしばらく考え、それから連絡札を袋へ戻した。
「今夜は、姉の家で夕食です」
「豆の煮込みですか」
「子どもの希望で、肉入りになりました」
「交渉に負けましたね」
「暮らしは、だいたいそういうものらしいです」
聞き覚えのある言葉だった。
私が笑うと、エーミルも笑った。
その日は、六十日間の試行帰還を終え、正式な帰還へ切り替える確認日でもあった。
六十日分の記録に並んでいたのは、許可を取り消す理由ではなく、暮らしを続けるために使った支援だった。
確認する場所は、本人が選べる。
エーミルが選んだのは、会議室でも診察室でもなく、自分の部屋の前だった。
私たちは、そこまで一緒に歩いた。
小さな広場を抜けると、リーゼの家の窓に灯りがともっている。
肉と豆の煮込みの匂いが、路地まで流れてきた。
エーミルはそちらへ手を上げた。
窓の向こうで、子どもが小さな手を振り返した。
彼は姉の家へ直行しなかった。
夕食の前に、まず、自分の部屋の前へ立った。
袋の中には、夜間連絡札がある。
仕事で休む合図に使う青い木札もある。
そして、そのどちらより使い込まれた一本の鍵がある。
エーミルは鍵を取り出した。輪の内側だけが、何度も握った指に磨かれて光っていた。
鍵穴へ差し込む。
小さな金属音に、彼の肩がわずかに揺れた。
それでも、手は離れなかった。
収容棟では、鍵の音は、誰かが入ってくる音だった。
扉を開ける鍵は、いつも他人の腰にあった。
今、鍵は彼の手の中にある。
「閉めても、自分で開けられる」
エーミルは、確かめるように言った。
「はい」
私が答える前に、彼はもう鍵を回していた。
扉が開く。
部屋の奥には、自分で選んだ寝台がある。窓辺には朝のための水差しがあり、机の端には次の勤務日に使う青い木札を置く場所がある。
三枚の証明書だけでは開かなかった帰還の扉を、エーミルは一本の使い込まれた鍵で開けた。
その向こうにあったのは、英雄の凱旋でも、奇跡でもない。
困った夜には助けを呼べること。
苦しい朝には休めること。
それでも、自分の暮らしへ戻ってこられること。
エーミルは部屋へ一歩入り、振り返った。
「夕食に遅れますね」
路地の先から、豆の煮込みの匂いがした。
「荷物を置いたら、行きましょう」
彼は袋を寝台へ置き、もう一度、鍵を手の中で確かめた。
それから扉を閉め、自分の手で鍵をかけた。
閉じ込めるためではない。
夕食のあと、自分で開けて帰ってくるための扉だった。
その向こうには、自分で選んだ寝台と、次の朝が待っていた。
本作は架空世界を舞台とするフィクションです。「悪魔憑き」という語は作中の偏見を示す表現であり、心の不調を怪異や暴力性と結びつける意図はありません。作中の制度と支援方法は、物語のために作成したものです。
治療の後にも、住まい、仕事、家族との距離、相談先を含む暮らしは続きます。本作は、派手な奇跡ではなく、白紙一枚、青い木札、夜間連絡札、そして自分で回せる一本の鍵が「帰れる」を作る物語として書きました。イリスの仕事は地味ですが、書類に欄を一つ増やすたび、誰かの明日の選択肢も一つ増えます。
エーミルの新しい部屋に、眠れない夜だけでなく、よく眠れた朝と、週に一度の豆の煮込みの匂いが少しずつ増えていけばと思います。リーゼの子どもたちが豆の煮込みを好きになるかは、もう少し時間がかかりそうです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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