影武者と添い遂げた三年間、本物の旦那様が今夜お戻りになります
「公爵様。本日の夕刻、客人がお越しになります」
執事のオルブレヒトが私の朝食の卓に銀の盆を捧げてきた。
盆の上には深紅の蝋で封じられた王家の急便。
私、エルネスティーネ・フォン・シュトロームベルク公爵は紅茶のカップをそっと置いた。
「そう」
「あのお方ハイナルト様が御帰還されるとの連絡です」
「あらハイナルト様はこの家にいるのに不思議な話ね」
オルブレヒトの声にはいつもの落ち着きの奥、緊張が滲んでいた。
「準備は整ってるかしら」
「ええ。公爵家の私兵は夕刻までに表門と応接の間に配置を済ませております。警備はいつもの倍。表向きは客人の警護として」
「宜しい。下がりなさい」
オルブレヒトが退出した後、私は紅茶の水面に自分の顔を映し落とした。
二十二歳の栗色の髪と灰の瞳。
だがその瞳の奥には一年前にあの手紙によって知ってしまった真実が未だに揺らいだロウソクのように揺れていた。
本物の旦那様が今夜お戻りになる。
そして私は本物を永久にここから消す覚悟を決めている。
私がハイナルト・ヴェルナーと婚姻したのは十九の春だった。
シュトロームベルク公爵家は王国の北方を治める三大公爵家のひとつ。代々女系で家督を継ぐことを許された特殊な家系である。
私は先代公爵の亡き父の一人娘。
父は私が十八の年に流行り病で急逝した。
家督は私が継ぐことになった。
ただし女当主の婿としての婿入り婚を王命により要請されることになる。
選ばれた相手が王家と親類でもあるヴェルナー伯爵家の三男、ハイナルト。
弱冠二十二歳、剣の腕に長け、社交にも明るく、王太子殿下の幼馴染みでもある由緒正しい青年だった。
「エルネスティーネ嬢。今後ともよろしくお願いいたします」
婚礼の日、儀式の前にハイナルトは私に丁寧なお辞儀をした。
黒色の髪と薄青の瞳。やや線の細い整った貴公子だった。
それは政略結婚だった。
公爵家を支えるための婿として王家が選び家同士が合意した契約に過ぎない。
ハイナルトはそれをよく心得ていた。
社交パーティでは私の隣に礼儀正しく立った。
家政の場では使用人たちに丁寧に指示を出した。
寝室では私達は最低限の義務だけを淡々と果たした。
愛があったかと問われればなかったと答えるしかない。
私はハイナルトを悪い人だとは思わなかった。
ただあの薄青の瞳の奥に私を見ていない。別の誰かを想っている。そんな霧のような雰囲気を漂っていた。
私もまたその霧を訝りつつ覗き込もうとはしなかった。上位貴族の結婚なのだからこういうものである。家名を陥れるような不名誉なことさえしなければよし。
夫婦というものはこういうものだと当時の私は思っていた。
そんな日々が半年ほど続いたある朝。
北方の国境の小競り合いが本格的な戦に発展した。
「行ってまいりますエルネスティーネ」
ハイナルトは出征の朝、私に軽く頭を下げた。
その隣には若い副官ヘルムート・モリツィオ卿が無口に控えていた。
「お気をつけて」
私はそれだけ答えた。
あの時、私は彼の出征を義務として見送っただけだった。
彼の無事を心から祈ったかと言えそうとも言い切れなかった。
戦線は半年でこちら側の優勢に傾きハイナルトは戻って来た。
ただし別人になってるということは当時の私は知らなかった。
「公爵様。旦那様は頭部に深い傷を負われ、御無事ではありますが記憶を一部を失いになっております」
王宮の侍医は私にそう告げた。
一緒にいるであろう副官のヘルムート卿の名をその場で誰の口からも上らなかった。
この後知ったことだが、彼は戦いの中で行方知れずとなったらしい。
私は寝室の扉を開けた。
ベッドからわずかに身を起こしたハイナルト。
黒色の髪、薄青の瞳。出征前と確かに同じ貴公子の姿。
だが何かが違っていた。
「……エルネスティーネ、奥様」
その人は私を見てゆっくりと頭を下げた。
「申し訳ございません。私は貴女のことをよく思い出せずにおります」
その声に私は奇妙な温かさを感じた。
ハイナルトの声にこんな柔らかい響きがあっただろうか。
「いえお気になさらず。ゆっくりと思い出してください。奥様とお呼びになる必要はございませんわ。エルネと」
「……エルネ」
その人はぎこちなく私の名の愛称を口にした。
今までハイナルトは私をエルネと呼んでくれたことがなかった。
「では僕のことはハイナルトとお呼びください」
その夜から私たちの新しい生活が始まった。
ハイナルトと私が呼ぶその人は出征前のハイナルトとは全く違う人だった。
朝、寝床から起きるなり、私を優しく抱きしめた。
朝食の席で私の好きな茶葉を自分で淹れて出してくれた。
家政の場では私の判断をいつも最初に尋ねた。
社交場の隣では私の手をためらいなく握って立った。
寝室では優しくゆっくりと私を抱き寄せた。
「エルネ。私は何を忘れてしまったかをよく覚えていてません。だが貴女の隣にいます、今のこの時間が僕には何より愛おしい」
私はいつしかその新しいハイナルトを心の底から愛するようになっていた。
公爵家の跡取りとして政を学び、恋愛など無縁だった人生。
政略結婚も義務だと思っていた私はその愛が心地良かった。
三年。
私たちは三年夫婦として過ごした。
それは私の二十年余の人生で最も温かい三年間だった。
だがその温かさは二年目のある冬の午後に突然ひっくり返された。
それは王宮を経由せずに直接屋敷に届いた見知らぬ筆跡の封筒だった。
差出人欄にはこう書かれていた。
『ヘルムート・モリツィオ』
名前を見て私の指は止まった。
ハイナルトが出征する朝、軽く頭を下げた若い副官。
戦の半年後ハイナルトの【重傷で帰還】の混乱の中で行方知れずとなったはずだが。私は震える指で封を切った。
中身は便箋三枚が入っていた。
『シュトロームベルク公爵閣下へ生命を賭して忠告申し上げます。
三年前北方戦線にてハイナルト殿は敵国ノルダルム王国第二王女アロイーゼ殿下と口にするのも憚られる不名誉な関係を結んでおられました。
二人の関係は戦の最中、私を含む側近数名の知るところとなりハイナルト殿は口封じのため、副官である私を雪の野辺で自ら剣にて斬りつけられました。
私は雪の中半死の状態で敵兵に発見されました。幸運にも敵兵の中に医術の心得のある低位の軍属がおり独自の判断で私をノルダルムの片田舎に匿ってくれました。
二年半の療養を経てようやく立てるようになり密かに王国へ戻り独自の調査を進めました。
結論をここに記します。
奥様の御屋敷におられるハイナルトは本物ではございません。
王家が本物の不名誉を伏せるため影武者を立てたものと推察いたします。私は王家を糾弾する立場にはございません。私は公爵閣下御自身にこの事実をお伝えする義務がございます。
閣下の御判断をお願い申し上げます。
ヘルムート・モリツィオ』
私は書斎の床に崩れ落ちた。
便箋を両手で握りしめた。
本物のハイナルト・ヴェルナーは今、敵国の第二王女の隣にいる。
そして私の屋敷の私の隣で寝ている彼は私が三年心の底から愛してきたあの優しい御方は本物ではない。そう考えるとケガをして運ばれた彼が変わった理由も納得できるものだ。
私の頬から涙が零れた。
だがその涙は悲しみの涙ではなかった。
ハイナルトという名の本物はもう誰でもいい。
私が愛しているのは今の屋敷の彼だからだ。
その夜、書斎の暖炉にヘルムート卿の手紙をゆっくりと焼いた。
そして自分自身の決意を心の中で固めた。
いつか本物が戻る日が来たら。その時私は今のハイナルトを守り抜く。
それから、私はヘルムート卿の手紙のことを屋敷のハイナルトに告げなかった。
告げれば彼は自らの罪悪感に押し潰されるだろう。
屋敷のハイナルトは誠実で優しい男だ。
私が真相を知っていると彼に知られれば彼はすぐに屋敷を出ようとするに違いなかった。
その代わりに私はひっそりと準備を進めた。
公爵家の使用人の中で最も信頼の置けるオルブレヒトに真実を話す。
そしてノルダルム王国の宮廷に私の手の者をひとり送り込んだ。
本物のハイナルトがいつ、どこで、何をしているか。常時私の耳に届くようにしたのだ
そして半月前。
私の手の者から報せが届いた。
本物はノルダルム王女アロイーゼ殿下の新しい愛人との衝突を繰り返していた。
アロイーゼはもはや本物に興味を示していなかった。
そして本物はノルダルム宮廷から追放された。
彼の想定する復帰の筋書きはこうである。
「ノルダルムに監禁されていたハイナルトが命懸けで脱出し王国へ帰還した。
シュトロームベルク家にいる『ハイナルト』は、敵国の手の者による影武者の偽装である。
シュトロームベルク家の危機に戻り、影武者をハイナルトが処断して家に戻る。
そしてエルネスティーネを改めて私の妻として奪還する」
本物はそう計画している。
そしてその計画の決行日が今日であった。
午後私は庭園をひとりで歩いた。冬の終わりのわずかに芽吹き始めたスノードロップの枝。私のハイナルトと一緒に植えた花だ。
「エルネ」
声がした。振り返るとハイナルトが髪を冬の風に揺らして立っていた。その顔にはいつもの優しい控えめな微笑み。本物の不名誉も本物の帰還も何ひとつ知らない無邪気な夫の顔。
「ハイナルト、明日までお留守をお願いしたい用事があります」
「明日まで?」
「東隣領、ヴェッセルバッハ伯爵家へ、先月私から領地境界の調整についてお送りした書状についてご返答が遅れているの。直接伯爵閣下にお目にかかって口頭でお話をつけてきていただきたいのです」
「承知致しました」
「あちらは馬で半日。お話の後は伯爵家で一泊なさってくださいませ。明日の昼までにお戻りいただければそれで十分」
「ヴェッセルバッハ領は名産品に茶葉があると聞いたことがあります。エルネの好みの茶葉を買って参りますね」
私を労ってくれるその言葉がこれからやることについて勇気をくれる。あなたを誰にも渡さない。
「ハイナルト、お戻りまでお気をつけて」
彼はいつもの優しい控えめな微笑みのまま深く頭を下げた。やがて屋敷の表で馬蹄の音が響き、遠ざかっていった。
私は庭園の石の長椅子に腰を下ろす。これから夕刻まで私はここで独りで待つことになる。本物が戻りそして消えていくその時間を。
夕刻、応接の間で私は礼装で立っていた。来客は薄汚れた旅装の青年だった。
雪のように白い肌、黒色の髪、薄青の瞳。私の夫と確かに双子のような容貌。
しかしその瞳の奥には夫には決して見えない、何か傲慢と卑屈が混じったような熱が見える。これが本物か。
「久しぶりですね、エルネスティーネ嬢」
本物が私を嬢と呼んだ。
婚姻して書類の上では夫婦であるはずの私を「嬢」と呼ぶ。もはやどう呼んでいたかも覚えていないのだろう。
未だ声を発しない私に。本物の薄青の瞳が応接の間をひととおり見回した。
「嬢の隣に私の影武者がいたと思います。奴を呼び出して頂けませんか」
「夫は東隣領の伯爵家へ使いに出ていただきました。御不在ですわ」
本物は目をぱちくりとさせる。影武者を夫と評したのがそんなに驚くことだろうか。本物は言葉を続ける。
「エルネスティーネ嬢。私は三年半敵国に身を繋がれておりました。先日ようやく命懸けで脱出に成功ました。敵国によって屋敷に巣食った影武者の存在を知り、私はいても立ってもいられなくて……! 奴は自らの剣にて処断いたします。そしてあなたを妻として改めてハイナルト・シュトロームベルクを名乗らせてください」
「ところで」
私は目の前の男の話を断ち切る。もう本物と評すこともない。なぜなら私の夫が本物になるからだ。
「あなたは何者でしょう? 夫によく似たそっくりさんかしら」
「なっ!」
目の前の男は動じる。 まったく巫山戯た筋書きだ。私は一つの書類を取り出した。
「楽しいお話をして差し上げましょう」
それはノルダルム王宮に私が送り込んだ手の者からの報告書。
「とある男のノルダルム滞在のすべての行状の写しです。アロイーゼ殿下との逢瀬の日付ごとの記録、アロイーゼ殿下からの贈り物の品目。殿下の新しい愛人との衝突の記録。そして半月前宮廷から追放された惨めな御姿の目撃証言」
男の顔から血の気が引いていった。
「こんな人が私の夫だなんて、そんなはずあるわけないですわ。シュトロームベルクを名乗るなど許せるはずもない」
「……エ、エルネスティーネ嬢、聞いてください。これは誤解です!」
「さてそっくりさんはお帰りですわ」
「まさか影武者を本物とするのか! ここに本物がいるというのに! 私は王家の親族であのヴェルナー伯爵家の人間だぞ!」
「オルブレヒト、私の夫は生家からどのような扱いを受けていますか」
「はっ。ヴェルナー伯爵家から廃嫡となっており、ヴェルナーの名を名乗ることを許されておりません」
「……え」
私が手を挙げると応接室に公爵家の私兵が剣を持ち入ってくる。そのまま目の前の男を拘束した。
「何をする! わ、私は公爵の夫だぞ。無礼にもほどが」
「何度も言わせないでください。私の夫は今、外出中です。さて彼を地下牢獄へ連れていきなさい。夫と同じ顔の者が公爵家を彷徨かれても困りますから」
「や、やめろーーっ! エルネスティーネ嬢ぉぉ! わ、私は!」
さようなら本物の旦那様。もう二度と会うこともないでしょう。
翌日の昼。
屋敷の表に馬蹄の音が戻ってきた私は玄関ホールで晩、僅かしか眠れぬまま夫を迎えた。
「エルネただいま戻りました」
「おかえりなさいませハイナルト」
夫はいつもの優しい控えめな微笑みのまま私に深く頭を下げた。
「ヴェッセルバッハ伯爵閣下との領地境界の調整滞りなくまとまりました」
「ありがとうございます。これでまた伯爵領との交易が盛んになりますね」
私は彼の頬に軽く口づけた。
彼はその口づけをいつものように微かに頬を染めて受け止めてくれた。
「今日はいつもよりも情熱的ですね」
「はい、ようやく憂いを断つことができたので。あなたがハイナルト・シュトロームベルクでいることがこれほど喜ばしいことだなんて」
ハイナルトは何も言わなかった。いや何も言えなかったと言っていい。
ハイナルトは心の中に秘めた嘘を隠し続けている。
しかし私の夫が、私のハイナルトが「クラウス・グラーフェン」という本当の名に戻る道はすでに塞がいでしまった。
それは私自身の手による布石だった。
ヘルムート卿の手紙を焼いた一年前のあの夜から私はひっそりとグラーフェン子爵家の調査を進めた。調査の結論はすぐに出た。
辺境の貧しい子爵家グラーフェン家。当主は長兄。三男のクラウスは王家の伝令にあっさりと差し出したその判断は「家のため」という苦渋の決断だったという話。
しかし私の独自調査の結論は別だった。
グラーフェン家の長男と次男は社交界の見栄と放蕩で家計を深く傾けていた。クラウスを王家へ売ることで彼らは王家から多額の口止め料を得ていた。その金はすべて王都の賭博場と流れていた。クラウスが私の屋敷、誠実に夫の役を奉公しているまさにその間に彼の生家は彼の身代金で放蕩の宴を続けていた。
私はそれを知った夜、シュトロームベルク公爵家当主として決断を下した。奴らに永遠の口止めを与えることに決めた。
私の夫の血の繋がる生家はもうない。たとえ彼がいつか何らかの心境の変化で、「クラウス・グラーフェン」として生家へ戻ろうとしても戻る屋敷はない。戻る家名もない彼を待つ肉親はひとりもいない。
私は彼を永久に私の隣の「ハイナルト」として留めるために彼の血の繋がる退路を、ひとつ残らず断った。
王家に対しても証拠を突きつけ、これから行う事に対しての無干渉を約束させた。ノルダルム家から戻ってくる恥知らずを王家は完全に斬り捨てさせた。公爵家を騙していたのだから当然と言える。ヴェルナー伯爵家についてもハイナルトを廃嫡とさせ、シュトロームベルク公爵家以外に頼れる所を全て潰すことにしたのだ。
これは彼への愛であり、同時に非情な私の執着でもある。
「ハイナルト、もう不安を口にせず心の中に閉まってください。それでいいのです」
彼は何ひとつ知らない。 敵国へ奔った本物が今日姿を消したこともヴェルナー家と縁を切ったことも彼の生家グラーフェン子爵家はすでにこの世から存在しないことも
私は本物の敵対者を応接の間から消したシュトロームベルク公爵家の当主。
でも夫の前では優しく夫を愛するだけの普通の妻になる。
私が昨夜応接の間で何をしたかはこの目の前の夫が知ることはないだろう。
優しい笑みを永久に傷つけぬために、私は墓まで独りで抱えていく。
数日後の朝。
私は夫と二人で、屋敷の前庭スノードロップの庭の脇を歩いていた。
「エルネ。あの『アンナ・エルネ』がようやく咲き始めましたよ」
夫が黒の前髪の下で嬉しそうに目を細めた。
私は彼の指の先を辿った雪のような白に薄緑の覆輪が入る小さな鈴形の花。三年前の春、私の名で彼が育て始めた新種の最初の一輪。
「綺麗ですわね」
「来年はもっと株を増やしたいと思っています」
「それは楽しみですわ」
「庭の奥の塀際までいっぱいにしましょうか」
私は夫の腕に自分の腕を絡めた。冬の終わりの薄い日差しが庭の上に降りていた。
「旦那様、愛しております」
「僕も愛しています、エルネ」
夫の薄青の瞳が温かく優しく笑った。彼こそが私の旦那様だ。
エルネが愛を知ったように、虐げられてきた偽物ハイナルトもまた想像上の夫婦を演じる中でエルネに好意寄せてしまいました。
偽物が本物となる。影武者のハイナルトは愛する人に嘘をつき続けることにどんな気持ちで余生をくらすのでしょうか。
心の中ではもしかしたらバレてるかもって思ってるかもしれません。
エルネはいろんな釘を刺しているのでハイナルトは今際の際まで正体を明かすことはないのだと思います。
シュトロームベルク家はエルネに心酔しているのでエルネに優しい影武者に好意的です。夫は貴族であるならどうでも良かったのかも。
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