既読スルーしないで、ずっとそばにいて
メッセージの既読がついたのは、送信から十七分後だった。
美咲はその数字を、画面越しに何度も確認した。十七分。昼休みの終わりに送って、十七分。拓也は今ごろ会議室に戻るところだろうか。
あるいはトイレで、あの小さな画面を見たのだろうか。どんな顔をして読んだのか。そういうことを考えること自体、もうやめなければいけないと思っていた。
返信はずっと来なかった。
美咲はスマートフォンを伏せて、冷めたコーヒーを一口飲んだ。苦かった。苦いと思った自分が、少し大げさな気がして、それが恥ずかしかった。
*****
三週間前、拓也に「整理したい」と言われた。
整理。美咲はその言葉を、今でも口の中で転がすことがある。整理、整理、せいり。何かを片づけるみたいな言い方だと思った。引き出しの中の、使わなくなったものを処分するみたいな。でも彼はたぶん、それ以外の言葉を持っていなかっただけで、責めることは筋違いだとも分かっていた。
「気持ちを、整理したい」
居酒屋の半個室で、拓也は膝の上に置いた両手を見ながら言った。美咲はそのとき、なぜか彼の手の形をじっと見ていた。節が大きくて、少し乾燥した、男の人の手。それを何度も握ったことがあった。今夜が最後になるかもしれないと思いながら、でも「最後」という言葉を使うのは大げさかもしれないとも思いながら、美咲は黙っていた。
「ごめん」と彼は言った。
「うん」と美咲は言った。
その「うん」がどういう意味だったのか、美咲自身にも分からなかった。謝罪を受け入れたのか、状況を了解したのか、それとも単に、他の言葉が出てこなかっただけなのか。帰り道、ひとりで歩きながら、美咲は自分が今何を感じているのかを確かめようとした。
悲しいか、と問えば、悲しいと言えた。怒っているか、と問えば、少し怒っている気もした。でも悲しいと怒っているは別々の場所にある言葉で、自分の中にあるものは、そのどちらでもなかった。
もっとひとつの、かたまりだった。名前のないかたまり。それに触ろうとするたびに、するりと逃げた。
*****
美咲には、三つ年上の姉がいる。
結婚して、子供がいて、郊外に家を買った姉。美咲が落ち込むたびに電話してくる姉。「どうしたの」と聞いてくる声が、もう答えを知っているみたいな声をしている。
「また拓也くんのこと考えてるんでしょ」
今夜も電話がきた。美咲はベッドの上で天井を見ながら、「別に」と言った。
「整理したいって言ったんだって話してたじゃない。男の人がそういうこと言うときはね、もう決まってるんだよ。あなたもちゃんと気持ち切り替えないと。引きずってても辛いだけだよ」
引きずる、という言葉が、耳に引っかかった。引きずる。まるで重いものを後ろに引っ張っているみたいな。でも美咲が感じているのは重さとは少し違う気がした。もっと、身体の内側に張り付いているような感じ。剥がそうとすると皮膚ごと持っていかれそうな。
「そうだね」と美咲は言った。
電話を切ってから、「そうだね」という言葉の空虚さについてしばらく考えた。正確ではなかった。でも正確な言葉が見当たらなかった。姉は悪くない。渡せる言葉を美咲が持っていなかっただけだ。
本当のことを言うとすれば——連絡が来るたびに少し安心していること、その安心を感じるたびに自分を呆れていること、呆れながらもまだ画面を確認していること——
それら全部がひとつに溶け合っていて、どれかひとつを取り出して言葉にした瞬間、残りが嘘になる。だから何も言えなかった。姉に対してではなく、自分自身に対して。
*****
拓也からメッセージが来たのは、夜の十一時を過ぎたころだった。
「元気ですか?」
余分な三文字。美咲はその三文字を十分間、見つめた。なぜ敬語なのか。三週間前まで「おはよ」とか「今どこ」とか送ってきていた人が、なぜ今夜は「元気ですか?」なのか。
距離を作ろうとしているのか、距離の作り方が分からないのか、それとも距離という概念を、彼はそもそも別の形で捉えているのか。
美咲は返信を打ち始めた。
「元気です」と打って、消した。
「元気だよ」と打って、消した。
「なんで今さら連絡してくるの」と打って、一番長く見つめてから、消した。
それは正直な言葉だったけれど、正直なだけで、自分の中にあるものの半分も表していなかった。
「なんで今さら」の裏には、でも連絡が来て安心したという気持ちがあって、その安心を感じた自分への呆れがあって、呆れながら返信を考えている滑稽さへの自嘲があって、その自嘲の奥にはまだ彼のことが好きだという、認めたくない事実があって——
言いたいことは、そのどれでもなかった。
そのすべてだった。
美咲は「元気ですよ」と打って、送信した。三文字を、三文字で返した。
画面を閉じてから、本当に言いたかった言葉のことを考えた。それは言葉の形をしていなかった。既読スルーしないで、ずっとそばにいて——そう文字にしてみると、急に薄くなる気がした。軽くなる。
自分の中にあるものは、もっと重くて、もっと形が歪で、もっと恥ずかしかった。言葉にした瞬間、それは「そういうもの」になってしまう。名前がつくと、輪郭が固まる。固まると、こぼれ落ちる部分が出てくる。
こぼれ落ちた部分の方が、たぶん、本当のことだった。
*****
その夜、美咲は眠れなくて、暗い部屋の中で目を開けていた。
胸のあたりに、かたまりがある。名前をつけようとするたびに逃げていく。悲しい、と言えば少し違う。寂しい、と言えば半分くらいは当たっている。でも残りの半分は寂しいじゃない。
怒りに近いものと、恥に近いものと、まだ好きだという感覚と、それを認めたくない感覚と、認めたくないと思っている自分への疲れが、全部溶け合ってひとつになっている。
分けようとすると、壊れる。
言葉にしようとすると、別のものになる。
もし今夜、拓也の番号を押して、電話口で泣きながら叫ぶとしたら——なんで無視するの。愛して。返して。抱きしめて。——いやそんな事よりも。
――ずっとそばにいて
その言葉しか出てこないだろう。でもその言葉は、かたまりの表面を撫でるだけだ。かたまりの芯にある、もっと暗くて、もっと柔らかい部分には、届かない。
人はみな、言葉が足りないまま、誰かを求めるのかもしれない。
美咲は目を閉じた。かたまりのまま、抱えていくしかないのだと思った。それが少し悲しくて、でも少しだけ、正直な気もした。
窓の外で、風が鳴っていた。
その音に名前はなかったけれど、美咲にはなぜか、分かる気がした。




