北日本物産録での日本通史
1612年、江戸幕府は、キリスト教を禁教としない代替策として、吉利支丹諸法度を発布して、キリシタンを事実上の監視下に置く(1722年に寺社諸法度と統合されて、寺社教会諸法度となる。1859年に寺社教会諸法度が大幅に緩和、完全な信仰の自由が認められこととなる)。本来は禁教とするつもりだったが、徳川家康の側近で幼馴染の仏僧に、表向きは棄教しても、秘かに信仰して地下に潜られたら却って面倒なことになること、既に多くのキリシタンがいるため、今禁教しても遅すぎ、これを口実にかえって外国からの侵略を招く可能性があることを指摘されたため、信仰自体は認める代わりに、監視下へ置くことが決定された。具体的には、居住地を制限し、移動・移住にも許可を必要としたのである。さらに居住地には、幕府または居住地のある藩から監視人を置くこととした。またさらに教会と交渉し、司教以下の聖職者も日本人とするようにさせた。具体的には、1630年に日本人が日本司教に任命され、1632年には、巡察役の聖職者を除き、外国人聖職者が全て日本から引き揚げ、以降日本の教会は、司教以下日本人聖職者により運営されるようになり、1637年に起こった島原の乱の際には、長崎にいた司教が、破門をちらつかせて多くの一揆勢を降伏させ、それでも降伏しなかった者に対しては、実際に破門したことにより、一揆勢の士気を大いに下げることに成功し、最終的な鎮圧に役立った。また司教の要請でオランダ船とイングランド船の他、ポルトガル船、スペイン船も一揆勢に対して艦砲射撃を実行した。こうして幕府から一定の信頼を獲得したカトリック教会は、1640年に、大坂、京都、仙台、松前に新しく司教を置き、長崎に以前から存在していた司教を大司教に昇格させることを認められた他、百石というあまり多くない禄ながらも領地をもらい、男子修道院と女子修道院も幾つか管轄下に置いた。こうしてカトリック教会は、日本に一定の地歩を築くことに成功した。一方、当時の日本の教会では、主のことを天帝や天主等と呼んでいたため、日本の既存の神々や諸仏も、天使等と共に天帝もしくは天主を護る存在として受け入れる者もでてきた。1715年のクレメンス11世の教皇憲章『エクス・イラ・ディエ』でローマ教皇庁がこれを禁ずると、日本のキリスト教徒の一部は、カトリック教会から分離して、キリスト教に仏教の仏や神道の神々も、より上位者である天主を護る護法神、護法仏として取り入れた天草教会という組織を結成、大司教以下の聖職者組織を整えて分離し、幕府の公認を得た。こうして日本のカトリック教会は二つに分裂した。また居住制限も、出稼ぎについては制限されていなかったことを突破口にして徐々に緩められ、後には有名無実化した。また1706年には、巡察役の聖職者の以外にも神学校の教師に限り、外国人聖職者の入国が認められ、1859年には、宗門寛容令が出され、信仰や布教は自由となった。このため、朱印船貿易が継続された。南洋の日本人町もベトナムのダナンとホイアンなど、東南アジア各地に残存した。渡航先も東南アジア諸国だけでなく、印度や波斯、アフリカ東岸、墨西哥、欧州にまで拡大された。後、海外渡航の完全自由化に伴い、1866年に廃止となった。それにより、長崎へ来る外国の貿易船も、中国船やオランダ船だけでなく、英国船、ポルトガル船、スペイン船との貿易が続いた。それ以外にも、ロシア船(ロシアとの交易は箱館でも認められた)、フランス船、スウェーデン船、デンマーク船などとも交易するようになった(後にはオーストリア船、プロイセン船、アメリカ船なども加わった)。交易品目だが、日本から西洋への輸出品としては金、銅、樟脳、陶磁器、漆製品、醤油、日本酒、海獺や貂、海狸、狐などの毛皮、各種の小物雑貨、生糸、茶(国産の茶を紅茶や烏龍茶にして輸出していた)、絹織物などがあり、西洋から日本への輸入品としては武器、更紗、羅紗、天鵞絨、線帯、砂糖、鹿皮、鮫皮、ゴム、蝋、書籍類、顕微鏡、天球儀、地球儀、望遠鏡、眼鏡、時計、毛織物、アクセサリー類、絨毯、毛氈、葡萄酒、麦酒、機械類などがあった。だが、武器、顕微鏡、天球儀、地球儀、望遠鏡、眼鏡、時計、毛織物、葡萄酒、麦酒、砂糖、更紗、羅紗、天鵞絨、線帯、絨毯、毛氈、鹿皮、鮫皮などは、次第に日本でも国産されるようになり、輸出できるのが高級品に限られるようになったため(なお1820年に不定時法から定時法へ移行したことにより、時計の生産が容易になり、それにつられるように望遠鏡、眼鏡、顕微鏡などの生産も増えた)、西洋からの日本への輸出は激減するかに思われたが、この頃から日本の近代化と産業革命を推し進めるようになったことにより、日本での生産が困難な精密機械の輸出が激増したため、西洋から日本への輸出は少しだが増えた。日本側もそれまでの輸出品の他に綿製品や生活雑貨、絹製品、毛織物、琺瑯鉄器、硝子製品などを輸出するようになったので、日本から西洋への輸出も増えた。なお日本では西洋の機械や武器、毛織物、そしてアクセサリー類が売れたため、西洋の金や銀をあまり使わわずにアジア産品を購入できる国であった。そのため、多くのヨーロッパ船が日本を訪れた。ついでに言えば、日本の輸出品の内、金と毛皮は植民地の産品であった。東南アジアからは、香料、香辛料、薬種、蘇木、香木、印度からは印度キャラコ、珈琲などを輸入し、東南アジア・印度へは、金、銀、硫黄、銅、刀などを輸出していた。朱印船に用いられる船も、当初は船首を屋倉形式とし、大きな櫓のような船尾を設け、船首に木綿の小さな遣り出しの帆、一番目のマストと二番目のマストに、下に大きな網代帆、上に小さな木綿帆を張り、三番目のマストに木綿のラテンセイルを張った日本前(ミスツィス造り)と呼ばれる和洋中折衷の帆船から、1700年頃から天竺船と呼ばれる西洋式の帆船になり、1840年代に早船に代わり、1860年代に蒸気船へ移行した。北前船や菱垣廻船、樽廻船も、日本前や西洋式のスクーナー、ブリガンティン、ブリッグなどの帆船へ変わった。さらに後には、小型ながら蒸気船へ変わった。これらの交易は、朱印船及び外国船が出入する港を原則として長崎一港へ限ったこともあり(但し、ロシアには箱館での交易を認めた)、幕府に多大な利益をもたらした(なお1858年には外国船の交易が開港地では自由となり、1866年には日本船の交易も完全に自由となった)。
1645年には、南明の一部勢力が、日本との勘合貿易再開を代替条件として、日本へ援軍を求めてきた。幕府では消極論が強かったが、時の将軍徳川家光はある程度関心を示した。そこである幕閣が、武器、弾薬、兵糧は幕府で調達し、兵員は浪人から志願者を募って送り込み、船は南明側が用意するという案を出した。これには家光や他の幕閣からも、浪人を外国へ厄介払いできるというので、ある程度の支持が集まった。そこで南明の使節と協議の上、総大将役を名乗り出た徳川光国(光圀)を「個人的な参加」という形で総大将とした五千の兵を南明の鄭成功への援軍として送った。その後も志願者を募り、後詰としてさらに一万五千ほど、合計二万ほどを南明に送った。これらの兵たちは、鄭氏の軍と行動を共にした。浪人軍は中国大陸である程度活躍し、光国(南明滞陣中に、水戸藩の藩主となる。また光国から光圀と改名した)の奮戦と、光国の軍師となった由井正雪らの働きもあり、一時は南京を奪還することにも成功した。しかし、清軍の反撃も激しく、南京からは撤退せざるを得ず、浙江省南部、福建省、広東省最北部をどうにか保持するという状況となった。それでも、日本の浪人軍によるゲリラ戦もあり、戦線は膠着していた。この状況に対し、鄭成功は、当時オランダ領だった台湾島を奪取することで、状況を打開しようとするが、台湾島を奪取したところで鄭成功は死去してしまった。これに対して、オランダが鄭氏を支援する日本と鄭氏へ抗議を行い、台湾の返還と賠償を求めたのに対し、幕府、オランダ、鄭氏の三者で交渉を行った結果、幕府と鄭氏が台湾買取料としてオランダへそれぞれ金貨十万両を支払うこと、また幕府がオランダに対して行おうとしていた貿易船数と貿易額の制限を、幕府側が中止すること(なお他の欧州諸国にも貿易船数と貿易額の制限は検討されていたが、こちらも中止となった)によって交渉は妥結した。しかし、オランダが本格的に清へ援助する可能性を否定しきれないことや南京を奪還できそうにないこと、南明の主力部隊が壊滅したこともあり、幕府は清との講和を鄭氏へ奨めることを決断、鄭成功の後を継いだ鄭経に対し、これ以上の援助が難しいことを伝え、講和交渉を行うことを説得、支配地域の内の幾らかを清へ割譲するのと引換に、それ以外の地域の領有を認めてもらうという条件で清との講和を試みた。講和交渉は当初あまりうまく進まなかったが、鄭氏側が清の大臣たちに講和使節を通じて多額の賄賂を贈ったのが功を奏して、1664年、鄭氏が中国大陸側の勢力圏を放棄するのを条件に台湾島と澎湖諸島を、東寧王国という独立国としての領有することが承認されると共に、幕府と鄭氏(東寧)がそれぞれ三年に一度、三隻の船で朝貢を行う(幕府は寧波、鄭氏は福州で朝貢することとされた)、鄭氏が朝貢の際に銀三千両を貢納する条件で講和が成立した。浪人軍の兵士たちは、大半が東寧へ移住・土着し、一部は日本へ帰国した(この際、江南沿海部各地から日本へ、各種の職人や文化人が連れてこられている)。東寧では、中国大陸から逃れてきたり、連れられてきた職人により、絹織物、綿織物、陶磁器、堆朱、皮革製品、木彫、石彫、木画、人形、刺繍、竹細工、麻織物、貝細工、珊瑚細工、版画などの生産を進め、成功させた。東寧では、他に米、砂糖、砂糖黍、落花生、バナナ、マンゴー、パイナップル、茶、山羊、豚、漆、金、銀、銅、ジュート、サイザル麻、ゴム、キニーネ、台湾檜や楠、マホガニー、チーク、紫檀、油桐などの木材、塩、天蚕糸、カカオ、珈琲、海老類、虱目魚、黒鯛、鮪、玉蜀黍、砂糖黍、棗、落花生、麻、珈琲、胡椒、龍願、茘枝、ライチ、サフラン、真珠、珊瑚、牡蠣、海老類などを産するようになった。また三藩の乱が起こった時にも反乱側に与せず、安定して存続することになった。またさらに首都は台北に置かれた他、。幕府の総目付が同地へ駐在することを認めた他、天皇からも冊封を受けた。さらに日本側は長崎、東寧側は基隆(徳川光圀が鶏籠より改名)で自由交易を行うことを相互に認めた。
朱印船貿易が盛んになるにつれ、それ以外の海賊の被害も被るようになったばかりか、日本近海、特に日本海で内航の日本船が海賊に襲われることが増えたこともあり、通商路防衛の重要性を理解せざるを得なくなった幕府は、徳川家綱の時代の末期、イングランドから教官団を招き、西洋式の海軍の建設を開始した。もっとも当初は、コルベットが主力で、フリゲートが少数というものであり、戦列艦を保有するようになるには、徳川綱吉が将軍を務める時期まで待たねばならなかった。徳川綱吉が将軍職にあった時代の後期には、洋式の陸軍の建設も、イングランドから教官を招いて開始された。なお、徳川綱吉は1680年に将軍になったが、綱吉が将軍になる前の1669年に、シャクシャインの戦いが起こったこともあり、清がアイヌと連携して蝦夷地方面へ南下してくる可能性を警戒した幕府は、『武威』を宣揚するという目的もあり、松前藩へ日本前六隻とその乗組員を貸与し、これらを航行させるために多額の援助を行うとと共に、探検命令を下し、まず十州島(北海道島)北部、千島列島南部、樺太島南部へ探検隊を送らせ、商場を置き、領有宣言を行った。北進はその後も続き、樺太方面では、1690年に北緯50度線以南の南樺太を松前藩へ服属させた(北緯50度線以北の北樺太は、当初清国領、後ロシア領となった)。千島方面では、1688年に千島列島北端の阿頼度島まで探検隊を送り、同島で越冬後、1687年には勘察加半島まで到達、同地にも商場を置いた。さらに1698年、勘察加半島北部の付け根より少し北付近でロシア人と接触した。その際の交渉の結果、勘察加半島を日本、チュコト半島をロシアが領有することになった。またロシア帝国へ使節を送って、国交を結び、箱館(明治九年に函館と改称)へロシアが商館を置くことを認め(その代わりに日本は、オホーツクへ商館を置いた)、ロシアとの交易を公式に開始した。
一方、ロシアへ赴いた使節の報告から、松前藩では蝦夷地を守り切れないと判断した幕府は、松前藩を陸奥梁川へ五万石で転封すると共に、蝦夷地を幕府の直轄地とし、松前に松前奉行を置いた(松前奉行は、後に福山城代に昇格した)。徳川吉宗が将軍になると、新たに新井白石が松前奉行に任命された。吉宗は、幕府の武威を高めるためという目的もあり、白石へさらなる北方への進出を命じた。すでに征服した地域には、金・木材・魚介類が豊富にあり、木材は日本の材木不足を補い、金や俵物となった魚介類は、幕府へ貿易による多大な利益をもたらしていた。さらに動物の毛皮も、欧州へ輸出が増えつつあった。吉宗は、新たに進出する地域にも、木材と魚、金、毛皮を求めたのだった。徳川吉宗が将軍だった時期に、まず筑後諸島(史実のコマンドル諸島)を獲得すると、続いて阿留申列島(アリューシャン列島)を獲得、さらにそこから新須賀の新須賀半島に到達、領有宣言をし、蝦夷地の一部として、新蝦夷地と命名した。それ以降も、田沼意次や松平定信が政治を執った時期に、北と南へさらなる探検と到達地の領有宣言が行われ、最終的に十州島、樺太島、千島列島、勘察加、筑後諸島、阿留申列島、北米大陸の新須加(史実のアラスカ州南部)、有金(史実のユーコン準州南部。なお玖論大丘地区も含む)、得臨(史実のブリティッシュコロンビア州)と称される、有金川以南、北緯49度線以北、東雪山脈以西の北米大陸北西部一帯(なお国境に関しては、英国とは1793年、英国のマッケンジー探検隊が新蝦夷地と英領カナダの境界へ到達し、幕府の役人と接触した時に、米国とは、1805年、米国のルイス・クラーク探検隊が太平洋岸を経て新蝦夷地の幕府の会所へ到達し、幕府の役人と接触した時にそれぞれ協議を行い、暫定的な国境を仮に定め、後に幕府が英米両国へそれぞれ使節を送り、公式に国境を定める条約を結んだ。アラスカとユーコンの北部については、ロシア領アメリカとなったが、クリミア戦争時に英国に占領され、戦後賠償として英国へ割譲され、英領カナダの一部となった)と新筑波島を始めとする沿岸の島々を新蝦夷地として領有することになった。後に蝦夷地は北海道へ改変され、道の下に県、県の下に郡長を長とする郡を置き、郡の下に市町村を置いた(内地の場合、道の下に県、県の下に市と郡が置かれたが、郡が市を管轄していなかったため、徐々に名目化し、後に県が町村を直轄するようになって、郡は公式に廃止された)。
徳川吉宗が将軍だった時代の1719年、江戸、大坂(明治四年に大阪と改称)など、幕府直轄地の幾つかの町に黒印状を発給して、市長と市参事会員から成る市参事会が設置され、幕府や町奉行からの諮問に答えると共に、小事を独自に決済してもよいとされた。以降、天領の町の多くが黒印状を受けて、市として一定の自治権を承認された。1725年には、江戸―京都間に馬車が通れる道が整備され、郵便と旅客を乗せる駅馬車として運行が開始された。同時期には、ローマ法大全が初めて日本語に翻訳された。さらに円形方孔の金貨(金銭)、銀貨(銀銭)が、重さ十匁の大型銭と重さ一匁の小型銭の二種類ずつ発行され、銅銭もこれまでの一匁の銅銭の他に、交易用に重さ十匁の大型銅銭が発行された(後に大型銭は重さ一オンス、小型銭は重さ十分の一オンスへ変更された)。大型銀銭と大型銅銭は、貿易銭としてかなり通用した。またさらに江戸の町で、これまであった上水道のよりいっそうの充実が図られた他、下水道の建設が始まった。1820年頃、江戸の銭湯では、柘榴口を廃した改良風呂とタイル張りの浴室が導入されるようになり、江戸周辺から全国各地の銭湯へ広まっていった。また吉宗が将軍になった頃から、羊や山羊の飼育が東北地方や蝦夷地で多少ながら広まった。この他に、日本全土では、琉球と薩摩から伝わってきた豚の飼育が盛んになった。牛の飼育も増え、朝鮮から種牛と雌牛を輸入して、品種改良も行われた。牛、羊、山羊の乳を飲んだり、チーズやヨーグルト、クリームなどに加工して食べることも少しずつ広まっていった。
幕府は、蝦夷地の先住民を保護するように命じていたが、南樺太や南千島辺りまではある程度守られていたものの、中千島以北の地では、幕府の目が行き届かず、幕府より場所の経営を請け負った場所請負人、鷹待、金堀たちの恣意が罷り通ったため、しばしば先住民の反乱が起こり、その度に幕府軍により鎮圧された。これらの地域からは、鰊粕、鯑、身欠き鰊、干海鼠、昆布、干鰯、海獺や貂、海狸、狐等の毛皮、木材、金、銀、銅、鷲羽、鷹羽、鷲、鷹などが運び出され(後には石油、天然ガス、石炭、亜鉛、モリブデン、白金、鉛、ニッケル、クロム、タングステン、錫、水銀、硫黄、牛、羊、山羊、ヤク、鹿、馴鹿、蜂蜜、メープルシロップ(砂糖楓でより採取)、砂糖(甜菜より採取)、なども産するようになった)、逆にこれらの地域へは米、酒、砂糖、塩、衣服、煙草、紙、蝋燭、縄、筵、薬、鉄製品、南京玉などが運び込まれた。1840年代頃からは、これらの地域への日本人の入植も進んだ。現在では、鰊粕、鯑、身欠き鰊、干海鼠、昆布、干鰯、海獺や貂、海狸、狐等の毛皮、木材、金、銀、銅、鷲羽、鷹羽、鷲、鷹などが運び出され(後には石油、天然ガス、石炭、亜鉛、羊毛、山羊毛、乳製品、畜産品、馬鈴薯、粟・稗・黍・蕎麦といった雑穀、大豆、小豆なども産するようになった)、逆にこれらの地域へは米、酒、砂糖、塩、衣服、煙草、紙、蝋燭、縄、筵、薬、鉄製品、南京玉などが運び込まれた。
1840年代以降、列強諸国の圧力を強く感じるようになったこともあり、1850年代から幕府は諸改革を進め、憲法の発布、議会の設置、軍の近代化、対外交易の自由化、国内の中央集権化(大名や旗本などの土地を収公し、代わりに爵位を与えた。これにより道―県―市町村の三段階からなる新たな行政区画ができた。この後、秩禄処分も行われた。但し、屋敷地とされた部分には、納税こそ求められたが、幕臣などの武士たちの所有地とすることを認められた。これらの土地は、武士とその家族が住むだけでは広い場合が多く、また大半が都市内にあったことから、大小の貸家に店舗やビルなどを建てて、他者へ貸すことで生計の一助とする者が多かった)、貨幣制度の近代化(両を主体とした貨幣制度から円を主体とした貨幣制度へ改めた)、鉄道の敷設、工業化、太陽暦の採用、朝廷の江戸への遷都(遷都直後に、江戸を東京と改めた)といった諸改革を進めて、充分な成果を挙げた。1837年には、ブルネイ王国とスールー王国へそれぞれ金貨30万両を支払って買収したボルネオ島サバ地方を日本領佐場とした。1856年、アロー戦争に英仏側で参戦(阿片戦争後に清国との直接交易と片務的領事裁判権を求めたが、上海での直接交易を認められただけで、片務的領事裁判権は拒まれたことが原因となった)、英仏側へ物資支援を行った他、六千の兵を清国へ送って、北京占領に加わった(この際、永楽大典の他、多くの芸術品を奪取した)。また別動隊は、東寧と琉球へ進駐した。戦後の北京条約で、日本は、賠償金400万ドル、東寧、琉球の宗主権、片務的治外法権、片務的協定関税制を獲得した。1861年、琉球と東寧へ圧力を掛けて保護国とすると共に、琉球にも天皇からの冊封を受けさせた。また東寧を高山と改めさせた(東寧は、天皇から冊封を受ける時、高山王として冊封を受けていた)。東寧改め高山では、一部で蜂起が起こったものの、幕府軍によって鎮圧された。その後は、幕府側の融和策により、琉球・高山双方とも幕府の統治が徐々に受け入れられていった(1907年に大幅な自治権が改めて認められ、それぞれ琉球自治国、高山自治国となった)。またさらに1901年には、マリアナ諸島北部、カロリン諸島、パラオ諸島、マーシャル諸島をスペインから金貨三千万ペセタで購入し、日本領南洋群島とした。
一方、日本は1876年に朝鮮へ片務的治外法権と片務的協定関税制を含んだ不平等条約を押し付けることに成功したが、清との関係が悪化、1885年甲申事変の失敗を契機に、本格的な大軍を朝鮮へ送り込むと共に当時清仏間で起こっていた戦争にフランス側へ立って参戦し、極東戦争へ発展。日本軍は、苦戦する場面もありながらも、清軍に勝利し、朝鮮半島全土を停戦までに占領した。戦後の天津講和条約で朝鮮の宗主権及び賠償金一千万円を獲得した(フランスもベトナムの宗主権と賠償金一千万円を獲得した)。さらに1887年には、朝鮮を保護国とした。1895年、ロシアが清へ東清鉄道の敷設権を求めたのに対し、清がこれを拒んだことが原因となって、清露戦争が起き、1896年、ロシアが勝利した。これにより、ロシアは賠償金五千万円と新疆の伊犁・塔爾巴哈台・阿勒泰地方の領有権、遼東半島南部の租借権を獲得した。1901年には、北清事変に乗じ、清国領満州全土を占領した。これで勢いへ乗ったロシアは、1904年、南満州から朝鮮へ侵攻してきたが、日本側に撃退された上、日本軍の別動隊により、遼東半島、長春以南の南満州、北樺太を占領された。日本軍に奉天会戦で日本軍に敗れ、事態打開を狙ってロシアが派遣したバルチック艦隊も日本海軍の攻撃により、日本海海戦で壊滅したため、ロシアは講和を決断、1905年のポーツマス講和条約で日本は、ロシアから北樺太の領有権、遼東半島南部の租借権、大連~哈爾浜間の南満州鉄道の経営・駐兵権、見舞金五億円を獲得した。なお南満州鉄道は、米国の北海道への野心を懐柔するという目的もあり、日米共同経営となった。日露戦争の勝利により、時の征夷大将軍だった徳川慶喜は、従一位から正一位へ進んだ。幕府と朝廷の一体化も進められ、1906年、朝廷より幕府が政府と名乗ることを認められた。徐々に改編されてきた幕府の官職はほぼ完全に新式のものとなり、大老、老中、若年寄のみが内閣の閣僚の名誉称号(大老は内閣総理大臣の、老中は各省の大臣の、若年寄は各庁の長官の名誉称号となった)として残った。征夷大将軍の公式称号は、太政大臣、征夷大将軍、源氏長者、淳和奨学両院別当、左近衛大将、左馬寮御監というものになった。蛇足としては、礼服が、徳川吉宗の時代より将軍宣下及び外国使節を公式に謁見する際に、将軍を始め、男女共に五位以上の者が用いるようになっている(但し、女子礼服が、物具装束と共に復活して、儀式で用いられるようになったのは、仁孝天皇時代の1843年のことである。それまでは、女子の五位以上は女房装束を用いた。徳川家斉の時代には、これまで六位相当とされてきた布衣に属する人間にも、公的に叙位が行われ、盛儀には束帯を用いるようになった。徳川家定の時代には、これまで布衣でなかった下位の旗本も全て七位へ叙され、同じく盛儀には束帯を用いるようになった。但し、六位・七位の束帯の裾は纔著であった)。朝廷でも1844年に朝賀が復活している。
1914年に第一次世界大戦が勃発した。日本は連合国側で参戦し、ドイツ租借地だった膠州湾を占領(戦後に中国へ返還)すると共に、海軍一個方面艦隊、陸軍一個軍五個師団を欧州へ派遣し、連合国側の勝利へ貢献し、戦後に設立された国際連盟でも常任理事国となった。第一次世界大戦中、ロシアでは革命が起き、ソビエト連邦が成立した(日本も1923年に承認)。ロシア革命に際し、辛亥革命で成立した中華民国は、当時中国領満州を支配していた奉天軍閥が主力となり、米英日の援助も受け、ロシアが満州で持っていた利権の回収に成功した。また革命時に、ロマノフ家のアナスタシア皇女がロマノフ家の財産の内の少なくない部分を持って日本へ亡命している。1925年、大日本国憲法(日本の憲法の正式名称)の改憲が行われ、第一次世界大戦後のドイツの新憲法で承認された社会権や女性参政権が日本の新憲法でも認められることとなった。1936年には、陸軍航空隊が独立して、日本空軍が建軍された。1937年には、南満州鉄道の経営・駐兵権を中国へ六億円無利子二十年間の分割払い(日米が三億円ずつ獲得。なお全額無事払われた)で売却した。1940年には、中国へ租借地と租界を返還し、領事裁判権も撤廃(中国側の関税自主権は1930年に承認済)した。1939年に起こった第二次世界大戦では、当初中立を保ったが、1943年11月、連合国側で参戦、海軍一個艦隊、陸軍一個軍二個師団、空軍一個飛行師団を欧州へ派遣して、連合国側の勝利へ貢献すると共に、戦後に設立された国際連合でも、国際連盟に引き続き、常任理事国となった。1953年には、朝鮮を大韓民主共和国として、佐場を佐場共和国として独立させ、1961年には、南洋群島を南洋群島連邦共和国として独立させた。第二次世界大戦後の東西冷戦では、やや西側寄りながらも中立を標榜し、冷戦終結後も、これを外交の原則としつつ、現在へ至っている。1964年には東京夏季オリンピック、1972年には札幌冬季オリンピックが、それぞれ行われた。なおソ連は、冷戦終結後の1991年に、15の共和国へ分裂する形で崩壊した。
さて北日本地域の物産であるが、まず十州島及び樺太島、それに千島列島の物産から述べることにする。同地域の物産は、米、小麦、大麦、大豆、小豆、馬鈴薯、玉葱、甜菜、葡萄、林檎、葡萄酒、蒸留酒、砂糖、牛、豚、羊、山羊、馴鹿、鮭、鱒、蟹類、スケトウダラ、ホッケ、石炭、石油、天然ガス、硫黄、金、銀、銅、石灰石、珪石、木材、紙類、乳製品などである。次いで勘察加半島、筑後諸島(コマンドル諸島)、阿留申列島(アリューシャン列島)の資源であるが、馬鈴薯、甜菜、砂糖、石炭、石油、天然ガス、金、銀、銅、鉛、亜鉛、ニッケル、鮭、鱒、スケトウダラ、蟹類、カレイ、木材、乳製品、牛、ヤク、山羊、馴鹿などである。最後に新須加(アラスカ南部)、有金(ユーコン南部)、得臨の物産であるが、牛、羊、山羊、ヤク、鹿、馴鹿、蜂蜜、メープルシロップ、砂糖、金、銀、亜鉛、モリブデン、石炭、木材、小麦、大麦、馬鈴薯、甜菜、砂糖楓、葡萄、林檎、葡萄酒、林檎酒、蒸留酒、木材などを産している。このように、北日本の資源はきわめて豊富であり、日本の経済にかなり貢献している。